―――礼奈、わたしは今年もこの睡蓮池にやってきました。思い出の中のあなたと出会うために、そして、年を重ねるごとにわたしの中で深まり続ける、あなたの「聖なるもの」に向って、ひとり心ゆくまで語りかけるために......。
そして今、わたしはかつてあなたと共に立った、あのなつかしい御釣台に一人立ち、左右に大きく拡がる池を眺めています。
広い池面の半ばを覆い、遠く近くにさまざまな形に群れ拡がった円い睡蓮の浮葉が、夏の午後の陽射しをいっぱいに浴びて、艶やかな緑に輝いています。そして、その緑の浮葉のそれぞれの拡がりには、赤や黄や白の色あざやかな睡蓮の花がたくさん咲いています。そして、それらの大きな花が、ときどき風に吹かれて静かに揺れます。また、対岸近くには、河骨の茎葉が丈高くむらがり伸びて、いくつもの黄色い可憐な花を咲かせています。
池の三方を囲む小高い丘の斜面には、ぶなやかえで、シイやカシ、松や杉などのさまざまな樹木が生い茂り、その豊かに繁った緑が岸辺におおいかぶさるようにせり出して、池面に緑の濃い影を映しています。そして、その濃い緑の影と境をなして、白い雲を浮かべた夏の青く輝く空が水面いっぱいに拡がっています。
また、広い池のあちこちを、いろとりどりの鯉が泳ぎ回り、堤の上では亀たちがのんびりと甲羅を干しています。そして、たくさんのトンボがあたりを飛び回っています。
園内いっぱいに鳴きしきる蝉の声の中に、ヒヨドリや雀たちの鳴く声が交ざります。
そして時折、肌に心地よい風が水面を細かく波立てます。
礼奈、このような真夏の午後の、濃い自然の真っただ中にいると、ビルに取り囲まれた街中の人景色に疲れ、また、週日の仕事に疲れたわたしの心が、次第に安らいでいくのを感じます。そして、心の澱は浄められ、いつしかわたしの眼に写る全てのものの中に、あなたのなつかしい気配を感じ始めるのです。
礼奈、わたしたちは睡蓮の季節がめぐってくると、その花を求めて、さまざまな所をたずねました。それは公園であったり、植物園であったり寺であったり沼であったり、あるいは神々の社であったりしました。そして、色とりどりの、大小さまざまな睡蓮に出会ったのでした。わたしたちは睡蓮の前に立ち、その花の無言の語りかけに心の耳を傾けました。やがてそれからあなたはスケッチ帳やカンバスに向かわれたのです
そういえば、こういうこともありました。雨の日、鎌倉のとある小さな寺の裏庭に咲く黄睡蓮を竹垣越しに眺めていたとき、水たまりのできた細い道に、どこからともなくまだ幼い一匹のアメリカザリガニが迷い出てきて、その赤いハサミを必死に振り立てながらわたしたちを威嚇したことがありました。小さな体に似合わず、なかなか迫力のあるその威嚇姿に、思わずわたしたちはお互いの顔を見合わせてほほ笑んだのでした。
―――礼奈、あなたには繕うところがありませんでした。生地のままのご自分をそのまま表現していらっしゃるあなたが、わたしの眼にはこの上もなく美しいのでした。また、あなたには自分のためにということがありませんでした。あなたの無心な表情、自然なしぐさ、あなたの純真な心がそのまま表に現れてくるのでした。そして、礼奈、あなたの心はいつも聖性の歓びに満ちていました。あなたは生きていることの本質が歓びに他ならないことを、何ものにも歪められないあらゆるいきものたちのあらゆる表現がみな生成の歓びであることを、蝉やコオロギの鳴き声も、鳥たちの空の飛翔も、魚たちの水中遊泳も、犬たちの散歩も、さらには草木の成長開花も、生命のない雲や水の流れさえも、太陽の輝きや星々のまたたきも、その他、一切万象の透明で真実な表現が、全てみな歓びに他ならないことをご存知でした。あなたはいつも、瞬間毎の、内なる生の、聖なる歓びを、何ものにも汚されることなく、そのまま表現されるのでした。そして、あなたのその歓びは、絶えることのない一切万象の歓びと共鳴するのでした。
―――礼奈、それはわたしたちがとある公園へ行った時のことでした。
豊かに水をたたえた大きな池の片すみで、その黄色いみずみずしい花びらを陽光に透かして輝いている睡蓮の花の前にさしかかった時、あなたは足を止め、静かにその花を見つめられました。やがてあなたは、スケッチ帳を広げ、立ったままそれを描き始められた。
わたしはいつものように、なるべくあなたの気を散らさないようにとその場を離れ、ひとり園内を歩いていました。やがてふたたびあなたのいらっしゃる場所に戻ってきた時、あなたはまだその睡蓮の花の前でスケッチ帳を開いていらっしゃった。
数十メートル先でわたしは立ち止まり、そのままあなたの立ち姿を眺めていました。
その日のあなたは、淡い空色のズボンに白いブラウスを身につけ、頭には日よけに、やはり淡い空色の帽子をかぶっていらっしゃった。そのようなあなたを夏の陽射しの下で眺めているうちに、わたしの心があやしく揺らめいて、ふとわたしはあなたがこの世の人ではないような不思議な錯覚に襲われたのでした。
「......形よく生き生きと咲いている大輪の黄睡蓮と、それに向き合って立っていらっしゃるあなたとが、いつしか一枚の美しい絵のように縁取られ、現実世界から浮き出して、あたかもそれが天上の情景のように見えてきたのです。あなたも睡蓮も、不思議な光に包まれているようでした。そして、あなたの中にも睡蓮の花の中にも同じように、限りなく深い静けさがありました。しかし、同時に、なぜかその静けさの底には、深く浄らかな充足のようなものがあり、それがあなたと睡蓮を共に、その内側から輝かせているのでした......」
どれほどの間わたしはその光景を眺めていたでしょうか。やがてわたしはそんな忘我の恍惚状態に耐え切れなくなり、思わず眼を閉じ頭を小さく振って、その危うい心の状態から逃れました。いつまでもそのままでいると気が触れてしまいそうで怖かったのです。しかし、今思い返してみると、多分あの時わたしは、それとは気が付かないで、あなたの真実にもっとも近づいていたのでした。
―――礼奈、あなたはほんとうに静かな人でした。わたしの問いかけに言葉少なにお答えになるか、折々わたしの話しかけにあいづちをお打ちになるほかは、本当に必要なこと以外ほとんどお話にならないのでした。しかし、わたしはそのようなあなたと時を過ごしながら退屈に思ったことなど一度もありませんでした。あなたの眼差しに、あなたの何気ない小さなしぐさの中に、またあなたの身体のすみずみにあふれる清らかな愛と歓びの感情がおのずからわたしに伝わり、わたしは言葉のない世界で言葉を超えてそれを感じるのでした。あなたを知り始めてから、わたしもまた次第に言葉少なになっていきました。それは多分、いつしか、言葉ではなく、その言葉を生み出すもの、言葉の背後に限りなく拡がっている深い寂静の世界こそが大切なのだと、無意識裡に感じ始めていたからではなかったでしょうか。
―――礼奈、あなたはいつも、何ものにも穢されることのない透明な瞬間を生きていらっしゃった。生まれたての赤児のような眼と、聖性へと至られた深い心とを持って、生の一瞬一瞬を生きていらっしゃった。
あなたにとってこの世は慈しみの対象でした。汚れのない自然に対する時、あなたの眼は、ただそれと一つに融け込んでそれとの共感を楽しまれた、また、人の世の暗い面に対する時、あなたの心は、慈しみ深い悲しみの情をもってそれを包み込まれるのでした。
あなたはモネのような自然を見つめる透明な眼と、ルオーのような万象を聖性で包み込む心とを持っていらっしゃったのです。
―――礼奈、あなたは一度も自己中心的な感情でその顔を醜く歪められたことがありませんでした。あなたの瞳はいつも永遠そのもののようにかげりなく透明なのでした。それはいつも内に優しい光をたたえ、眼に写る世界をそのままそっくり包み込まれるのでした。それは人に限られることなく、犬や猫、樹々や草花、小鳥たちやさらには家やその中の机や椅子などといったものにまで及ぶのでした。
しかし、礼奈、そのように偏りのないあなたにも、たった一つだけ、偏りらしきものがあるのでした。
礼奈、あなたはなぜか他のなにものにも増して、あの睡蓮の花を眺めていらっしゃる時、もっとも深い心の充足と歓びを感じていらっしゃるようでした。あなたとともに訪れたどの睡蓮池の前でも、あなたの瞳は他のどこにいらっしゃる時よりも、より一層生き生きと輝き、そしてその面に心の底からの歓びを表わされるのでした。今にして思えば、あるいはあなたは、真に睡蓮の、そしてその数多い睡蓮の中でも、殊にあの聖なる青い睡蓮の化身なのではなかったでしょうか。
この思いは日を重ねるごとに、ますますわたしの心の中に深まってくるのです。
―――礼奈、あなたの絵の一つの特徴は、そのどこまでものびやかな形体にありました。どのような対象も、あなたの絵の中にあっては矮小に歪んでいるものはなく、どれも浄化され聖化された豊かな自由性と深い愛を表現しているのでした。それはそのままあなたの心の反映であり、そののびやかなフォルムは、光に融け込んだ色彩によって、その自由性と愛の純粋性をより輝かしいものにしているのでした。
―――礼奈、あなたには狭く限られた自己というものが無いのでした。あなたは決して人を裁こうとなされなかった。あなたはいつもいかなる対象をも超越した、全一の愛の活きそのものでした。あらゆる人々、あらゆるものがあなたと一つに連なるものに他ならなかったのです。
礼奈、あなたがお描きになったどの絵も、単なる対象ではなく、あなたご自身へと連なる、内なる聖性そのものの表現なのでした。わたしたちがあの睡蓮池で最初に出会った時に描いていらっしゃった白い睡蓮も、そしてあなたの絶筆となってしまったあの青い睡蓮も、そのほかあなたがお描きになったすべての絵は、あなたの心の内なる聖性の表現なのでした。あなたはこの世の時間の中に顕われた永遠を生きる心であり、また、たとえてみれば、万象の源である聖性のプレロマ―――永遠にして無なる混沌の水=ヌン―――の中から、この現象世界へと咲き出たあの聖なる花、『 青い睡蓮 』 に他ならなかったのです。
ブラームス作曲『交響曲第一番ハ短調』
第一楽章
今、新たに一つの人生が始まる。胸に激しい情熱と強い憧憬が渦巻く。気高く英雄的に生きようと希う人生は平坦なものではないだろう。しばし未知なるものに対する不安と恐れにも似た感情が心をよぎる。しかし、それでもやはり、押し止めようもなく内から熱く燃えるものがこみ上げてくる。いや、これからの人生に何か素晴らしいことがきっと待ち受けているに違いない。偉大な先人たちのように、今は自分の内なる力を信じ、敢然と前に進もう。人生の途上で艱難に出会うのは覚悟の上だ。あるいはこの先に悲惨な敗北が待ちうけていようとも、どこまでも気高く生きていこう。男の強い覚悟の前に、世界はいつの日にかその扉を開くだろう。
順調なすべり出しだ。平和な時が続く。自信と奮い立つような勇気が心を満たす。この先、闘いもあれば、またさまざまな苦しみや悲しみも味わうだろう。しかし、いつも怠りなく明日に向って備えていさえすれば何を心配することがあろう。何ものも人間の情熱を押しつぶすことはできない。希望をもって前進しよう。
突然、その情熱と希望を突き崩すかのように、大きな宿命の波が押し寄せる。
いよいよ闘いの始まりだ。
なんというすさまじい運命の嵐だろう。息も詰まらんばかりの激しいせめぎ合いだ。内にあふれる若い力の限りを出し、運命にあらがい、それを乗り越えるのだ。
...押しつ押されつの闘いが打ち続く。
しかし、やがて一時のほっとするような休息の時が訪れる。
心静かに、ひとり疲れた身体を癒す。
だが、それもつかの間、ふたたび嵐が襲いかかってくる。
力の限り抵抗し、押し返し、突き返され、果てしもなく闘いは続いていく。
何度もくじけそうになり諦めそうになりながらも、歯をくいしばり耐え続ける。忍耐の果てには必ずや勝利と平安が待っているはずだ。
...やがて、無我夢中の長い苦闘の末、さしもの運命の烈しい嵐も、次第にその勢いを弱め、前方にはほのかな勝利の光が見え始める。あと一息だ、残る力を奮い起こして戦い抜くのだ。
あゝ、ついに気の遠くなるほど長かった運命の嵐もおさまった。今は嵐の後の澄みわたった静けさがあたりを支配する。
第二楽章
嵐の後の物憂い安らぎの中で、なぜかさまざまな物思いに誘われる。これは激しい闘いの後の反動的な、一時的憂いにすぎないのだろうか。しきりに今までの生き方に対する反省のようなものが頭をもたげてくる。はたしてこれまでのように、情熱と憧憬のうながしのまま、がむしゃらに前進し続ける生き方でよかったのだろうか。他にもっと人間らしい生き方があったのではなかろうか。もっと深い精神的な生き方、あるいはあの幼年時代のように限りなく大きなもののふところに抱かれて、何ものにもこだわることなく無心に生きる方がより人間的な生き方ではなかったろうか。
もちろん、これまでの自分の激しい生き方に誇りを感じ、その健闘をひそかに褒め称えたい気持ちもある。しかし、それでもやはり何かもの足りない淋しさのようなものが心の底にわだかまる。
そうだ、これまでの自分に欠けていたものは、何か限りないものに対する畏敬の念や感謝といったような、ほとんど宗教的ともいえる感情ではなかったろうか。考えてみれば、人間などこの大自然の中では、どこまでもちっぽけな存在にすぎない。しかし、それがいつしか身の程をわきまえない傲慢にとりつかれてしまっている。
あゝ、今はなぜか、心の底から、何か聖なるものに対する深い感謝と祈りのような感情が湧き上がってくる。こんなにも素直な気持ちになったのは何年ぶりのことだろう。これは何という心の安らぎだろう。
第三楽章
なぜか生まれ変わったようなすがすがしい気分だ。まだ幼かったあの頃の、無邪気な子供の世界にいるようだ。昔なつかしい幼なじみたちといっしょに、晴れた日の森の中を、足取りも軽く歩いているような、のどかで、しかも浮き浮きとした気分だ。柔らかい木漏れ日の下、手をつなぎ、おしゃべりしながら歩いている。
自然との調和、そして、友達との親和。世界は慈愛に満ちている。
なんと清らかな世界だろうか。これこそが人の生きる本当の世界。何と全てが単純で、生き生きと、真実に輝いていることか。
わたしはもうあの自分の栄光のための闘いの道には二度と戻るまい。この世にはもっと大きな調和への道がある。
ほんとうに、なんというすがすがしい世界だろうか。わたしの心は真実の深い充足感に満たされている。
第四楽章
時は過ぎ、しのび寄る老いとともに、ふとまた不安が心をよぎる。力の衰えとともに心弱くなり、自ずから過去のさまざまな思い出がよみがえってくる。
そうだ、人生にはいつも不安の影がつきまとう。払っても払っても不安はやはり心の底にわだかまる。しかし、結局はそれも、長年の経験と省察を通した知恵の力によって吹き払われる。
そして今は、この世に生きて在ることが畢竟、深い歓びにほかならないという確信で胸がいっぱいになる。そしてさらにその歓びにあふれた確信の中から、この世的な日常性を超えた永遠世界が予感されてくる。その世界では、全てが至高の神によって祝福されているのだ。
...気がついてみれば、わたしの心はいつしか、限りなく高く、限りなく深い、神秘に満ちた妙なる世界に包み込まれている。これこそが真実の世界なのだ。この神の座す永遠世界から、世の全ての人々に幾たびも祝福のあいさつを贈ろう。そしてわたしは心を低くして神を賛美する。
これからはこの完全に秩序づけられた聖なる国に心をあそばせ、いつまでも全体世界との調和的な結びつきを楽しもう。全体世界がまるで一つの明るい真珠の珠でもあるかのようなこの完全性の中で、わたしの心は至福に浸される。ここでは全てが完全でしかも生き生きとしている。
やはり生きていることは深く純粋な歓びにほかならない。長い人生の旅路の果ての、真の勝利と歓喜。あふれるような生の高揚と深い感慨が胸一杯に拡がる。おさえ切れない生命の脈動。闘いや和解、苦しみや楽しみ、憎しみや愛など、人生のあらゆる影と光を超えて、純粋な生命の、永遠の歓びが胸一杯に満ちあふれる。
真の人生は、歓びと意味とに満ち満ちている。これまでの人生で味わったすべてのことは、この永遠の歓喜のために存在したのだ。そして人生を真実のうちに過ごしてきた者にとっては、その旅路の果てに訪れる死ですらもやはり深い歓びに他ならないのだ。今はその瞬間に向ってさらに歩を進めよう、それこそがこの生命の真の完成なのだ...