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―――礼奈、あなたはこの世に在りながらすでにPLEROMA(プレロマ)、この世ならぬ人でした。
 礼奈、いったいこの世の誰が、あなたのそのセラフィムのような愛に気づくことができたでしょうか。あなたの愛はどこまでも静かで霊的で、外からは容易にそれと窺い知ることができないのでした。それは爽やかなそよ風のようにひそやかにあたりに漂うばかり......
 礼奈、あなたはこの世の万象と聖なる関係を保たれながらも、すでにあなたの心は聖なる無
(プレロマ)に在って、自ずからなる聖遊戯を生きていらっしゃった。この世に生きながらあなたはすでにあらゆる死を受け入れて、生も死も超越した、一切万象の聖なる故郷である『 PLEROMA 』に戯んでいらっしゃった。あなたにとってこの世の一瞬一瞬がこの上もなく深い真実の時なのでした。

―――礼奈、あなたの死の一週間前に描かれた『 青い睡蓮 』は、あなたの心の中に咲く聖性そのものの華に他ならなかった。あなたの絶筆となってしまったその『 青い睡蓮 』では、この世的な時間も空間も、一切万象とともに、その永遠にして聖なる青い睡蓮の花の霊性に融け込んで、この世のものとも思えぬ天上的な諧調をかもし出しているのです。その中では、あなたの聖なる心が、自ずから大自然と調和して、その調和から湧き上がってくる至純の歓びとともに聖なる光を発しているのです。 わたしはあなたのその絵の中に、一切万象をその聖性において一瞬のうちに直観しているルオーの『 月の光 』と、聖なるものとこの世的なものとが聖母マリアにおいて一つとなったエル=グレコの『 聖母被昇天 』と、時間も空間も光も色彩もそして自分自身すらも永遠なる全一性に融け込ませたモネの『 日本の太鼓橋 』の三枚の絵を渾然と一枚に重ねて見てしまうのです。それはなんという調和、なんという完全、なんという聖性の充満でしょうか。 
 そして、礼奈、この絵を見るといつもわたしには、あなたのこの世での唯一つの祈りは、すべての人々の心が永遠の聖性と愛とに満たされて、全き調和世界の中で、その生命の真実をいつまでもそして生き生きと輝かせ続けることなのだと感じられてくるのです。  

―――礼奈、あなたにとって睡蓮とは何だったのでしょう。 
 睡蓮―――山水の精、泉の神。昇る太陽とともに花開き、その花弁は日の光のように放射状をなしてあたりに聖性をただよわせる。 
 睡蓮―――水のユリ、水のバラ。やがて日没とともに花弁を閉じて眠りにつき、夜明けとともにふたたび花開く、太陽の花。 
 礼奈、歴史をひもとけば、わたしたちは古代エジプトに睡蓮のもっとも華やかな舞台を見い出します。
 ―――ナイル川に咲いた睡蓮。それは古代エジプト人にとっては、生命の源であるナイル川と太陽とに関わる、もっとも神聖な花なのでした。そして、三千年におよぶその長い歴史の中で、睡蓮はいろいろな神々と結びつきます。  
 古代エジプト人は、神々も宇宙も人間も、ヌンと呼ばれる無限あるいはあるいは闇の混沌の水の中から生まれたと想像していました。その原初の混沌の水の拡がりから一本の睡蓮が立ち上がり、その花の中から生まれた太陽神ラーによって、神々と人間に関わるすべてのものが創造されたと考えていたのです。そして、テーベにおいては、その太陽神ラーと、『 隠れたる者 』という名のアメン神とが結びつき、古代エジプトにおける最高位の神、アメン=ラー神が生み出されました。それは永遠の神でした。それは太陽のように永遠にくりかえす宇宙の運行であり、また、他のなにものにも依存せず、みずからその姿をあらわしたもっとも神聖な神であり、あらゆるものの創造者であると同時に、あらゆる被造物の慈しみ深い庇護者でもありました。しかし誰にもその神の本当の姿は分からず、ただその神に内在する愛の力によってのみ、そしてまた、わたしたちの内なる純粋な心を通してのみ、その永遠なる絶対神の真の姿に近づくことができるのでした。
 また、オシリス神話で有名な、正義と豊穣の神オシリスは、睡蓮の花冠をかぶっています。神話の中でオシリス神は、弟のセト神の奸計に陥って殺されてしまいます。しかし、彼の妻イシス女神の機転によってオシリス神は救われ、最後にオシリス神の息子のホルス神がセト神を討ち破り、それ以後、オシリス神は冥界の王となり、『 日の出の神 』であるホルス神は現世の王となりました。そして、そのホルス神も睡蓮の花から生まれたと伝えられ、太陽神の化身として大空を堂々と飛翔するハヤブサの姿をして永遠の若さと不死を表わし、また、仏陀のように睡蓮
(ロータス)の花に座り、指を唇にあてて、沈黙を命じてもいます。 
 一方、デルタ地帯の非常に古い神であるネフェルトゥムは、その名も睡蓮を意味し、二本の羽根をのせた睡蓮の花によって象徴され、来世において無量の寿命を与える復活再生の神でした。そして、彼もまた睡蓮の花から立ち上がった神なのでした。   
 このように、古代エジプトにおいて、ナイルの豊かな水の上に咲く睡蓮
(ロータス)は、太陽のシンボルであり、生命の源であると同時に生命の終焉でもあり、さらには再生復活や霊魂の不滅あるいは永遠をあらわし、また、ナイル川の多産豊穣をも表象していました。   
 そして、聖なる色を帯びた青い睡蓮は、神への、あるいは死者への捧げ物とされ、一方、白い色の睡蓮は『 ナイルの花嫁 』と呼ばれて、そのどちらの花も、いろいろな神事や酒宴などに、花冠やアクセサリーとして用いられたのでした。               
 ちなみに、睡蓮
(ロータス)は、その花言葉として、『 清純な心 』と『 信仰 』、さらには『 神秘 』と『 真理 』をもっています。

―――礼奈、無限にして無なる原初の混沌の水の中から万物の創造神を生み出す睡蓮、それは宇宙万象と生きとし生けるものたちのつきることなき生成の玉座、そして、無なる混沌とこの世の創造とを結ぶ聖性のリンク、母なる台。                     
 礼奈、今あなたはわたしにとって永遠なる聖性そのものの現れであり、天上に咲く至聖の華、あの『 青い睡蓮 』にほかなりません。そしてわたしは今この世にひとり在って、ただひたすら、このわたしを包む一切万象の中に、聖性の華なる青い睡蓮すなわちあなたを視ることを祈り求めるのです。そして、やがてはさらにわたし自身の中にもあなたを視るようになり、存在するものと、聖なる無とを結び合わせるあなたなる睡蓮を通して、わたしと万象と無とが、わたしの内なる至純の精神において溶け合い、ついにはあなたとわたしとがひとつになったその永遠にして全き円融の法悦の中から、愛と歓びとに満ちた聖なる言を、この時の中につむぎ出す......、それこそがこの世でのわたしの唯一つの希いであり祈りなのです。            
 そして、礼奈、わたしはあの古代エジプトの聖なる青い睡蓮、すなわち『 Nymphaea caerulea
(ニムファエア カエルレア)』の名にちなんで、また、あなたへのさらなる憧憬と祈りと感謝を込めて、今はそっとあなたを『 Nymphaea Lena caerulea (ニムファエア レナ カエルレア)』と呼んでみるのです。

―――礼奈、わたしたちの心が幼児たちの瞳のように澄み切っている時、わたしたちを包む世界は自ずからわたしたちの内なる永遠と共鳴し始め、神秘の輝きに彩られます。そしてその時、わたしたちは生の本質、すなわち聖なる愛の波動に包み込まれてしまうのです。わたしはようやくこの頃、そんな瞬間と出会うようになりました。しかし、あなたとともにいたあの頃には、それはわたしからはるかに遠く、あなたにのみ許された世界なのでした。わたしは今、あなたがこの世に生きていらっしゃったあの頃に、あなたと一つの、この聖なる波動にあなたと共に包み込まれていたなら、と悔やまずにはいられません。万象の輝きの中で、あなたの内なる永遠と、わたしの内なる永遠とが共に、万象の永遠と共鳴し合う、そういう真実の時を持つことのできなかったことが、今のわたしの最も大きな心残りなのです。 

―――礼奈、それでは人はいつ万象の永遠性に眼を開くのでしょうか。               
 それは、私たち自身が、この世に遍満しているゆがみなき真実を認識し、さらにその真実に従って無私を完成した時に他なりません。真理に達し、そして、幼児のあの至純の眼差しを得た時はじめて、万象はそのままわたしたちにとって永遠となるのです。  
 ところで永遠とはいったい何でしょうか。 
 永遠、それは真実
(プレロマ)なる至高の時。その時、精神はあらゆる現象の主となり、また現象は精神の悦びとなります。その時、眼に写る一切が精神のオーラを帯び、どんなささいでつまらないことも、全ては美しく生気に輝き、全ては慈しみの対象となります。永遠の前では、全ては愛すべきしぐさであり、悦ばしきたたずまいであり、それは一瞬の現前でありながらも、同時に、金輪際消し去ることのできない聖性の常住でもあります。                
 永遠、それは万象に、価値を超えた価値、意味を超えた意味を付与し、それは何ものにもこだわることなく、それはあるがままで自由であり、それは無でありながらも内に万象を抱いています。          
 永遠、それは死の眼も生の眼も超えた至純の眼差しそのものです。永遠、それは無量の特殊なるもの一切の全き融合であり統合です。            
 永遠、それは常なる真実の出発点であり、同時に真実の到達点でもあります。           
 永遠、それは過去・現在・未来とあらゆる空間が凝集した、今・ここ、における、全一なる万象の、瞬間ごとの変容です。                 
 永遠、それは時空を超えた、無限次元の万華鏡。
 永遠、それは真の安らぎ。          
 永遠、その中にはいかなる対立もなく、その中で万象は無上無心の遊戯にひたります。        
 永遠、それは心の眼にしか映らないもの、それは真理への秘奥の鍵です。              
 永遠、それはつまり、到達し完成した、『 真の精神 』なのです。

―――礼奈、まことに全ては永遠なのですね。万象は永遠なるものの瞬間毎の変容であり、生も死も永遠に他ならず、今はもうこの世の人ではない礼奈、あなたも、そして、今、ここに生きているこのわたしも、やはり永遠であり、そして、その変容する永遠に安住すること、その変化する永遠に身をゆだねきること、あらゆる対立を超えて、永遠以外の何ものでもなくなってしまうこと、永遠即如となること、自分のために何も求めることなく、永遠そのものの大きな流れと一つに融け合うこと、自己の無明と世の無明を超えて、どこまでも永遠そのもので在り続けること、そのことが何よりも大切なのですね。そして、礼奈、あなたはまさしくその永遠に外ならなかった。あなたはその永遠なるものを知っているというにとどまることなく、その知を超えて、存在と知識とが一つとなって行為する永遠そのものに外ならなかった。まことに、まことに、あなたの全てが真実であり、そして豊かな愛なのでした。 

 

 

 グレゴリオ聖歌『グロリア第五番』

 

Gloria in excelsis Deo.                        
  Et in terra pax hominibus bonae voluntatis.    
  Laudamus te.                                   
  Benedicimus te.                                
  Adoramus te.                                   
  Glorificamus te.                                
  Gratias agimus tibi propter magnam gloriam tuam.
  Domine Deus, Rex caelestis,                     
  Deus Pater omnipotens.                          
  Domine Fili unigenite, Jesu Christe.            
  Domine Deus, Agnus Dei, Filius Patris.          
  Qui tollis peccata mundi, miserere nobis.       
  Qui tollis peccata mundi, suscipe               
  deprecationem nostram.                          
  Qui sedes ad dexteram Patris, miserere nobis.   
  Quoniam tu solus sanctus.                      
  Tu solus Dominus.                               
  Tu solus Altissimus, Jesu Christe.              
  Cum Sancto Spiritu, in gloria Dei Patris.       
  Amen.                                              

 

 

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