3

 

 

 

―――礼奈、哀しいかなわたしの中のナルシズムは、いつまでも執拗に、わたしを自己中心の狭い世界に閉じ込めようとします。世界に向かって全的に心を開こうとしません。ナルシズムは世界の全き像を歪め、世界を暗くし、世界との永遠調和を乱します。内に根深く巣食うナルシズムはそれと気ずかぬうちに世界と対立し、世界の聖性を汚し続けるのです。

―――礼奈、聖なる光があなたの心の主座を占めるようになってからますますあなたは、はっきりとした自覚をもってエル=グレコとルオーの絵を愛された。
 この二人の画家を結ぶのは、聖性の光です。
 エル=グレコは聖性の光を画面にみちわたらせます。聖なる世界の形体を、線によって表現するのではなく、ゆらめき遍満する光と、その光に内在する色彩とによって画面に浮き上がらせるのです。グレコにあっては、光は生命の源泉であり、聖性へのいざないであり、愛でありまた喜びでもあります。グレコの、神秘的な光を含んだ画面の中で、さらに豊かな光を浴びた人物たちは、精神の希いであり祈りでもある霊的向上を象徴するかのような長身化のデフォルメを受け、天上の、もっとも明るい光を放つ聖性の玉座へと引き寄せられていきます。
 このようにしてグレコは、人間の精神と聖性との本源的な関係を、象徴という表現形式を用いて、線ではなく、その精神に直接する光と色彩とをもって画面に投影させたのです。
 一方、ジョルジュ=ルオーは、その晩年に到って、それまでの青を主調とした画面から、次第に緑と、光そのものの色彩である黄色を基調とする絵画へと移行していきます。そして、その最晩年において、ついに万象の聖性を、もっとも純粋な精神的光のヴィジョンとして描いたのでした。緑と黄色によって豊かにおおいつくされたルオーの聖なる世界―――太陽も月も、大地も川も、人も家も、樹木も草花も、そして大気すらも―――は、もはや眼に映る単なる現象世界ではなく、その背後に奥深く拡がる、無限無窮の真なる一切(もはやわたしたちの知の遠く及ばないまったき神秘の完全性そのもの)の、ルオーの魂の眼によって捉えられた内なるヴィジョンに他ならないのでした。その世界では、複雑で微妙なあらゆる色彩が同価の光輝を帯びて豊かに響きあい、永遠調和―――移ろう時間的幻化の背後にある永遠にして聖なる法―――を高らかに謳いあげるのです。その中で光は自然の光でありながら同時に精神の光でもあります。すなわちそこでは、現象と本質が、物質的なものと精神的なものとが、聖なる永遠調和の中で、分かちがたく一つに融け合っているのです。

―――礼奈、あなたはモネの最晩年の、物質も生命も、色彩も形体も、光も影も、時間も空間も、それら全てのものがモネ自身の心と渾然一体となった『 睡 蓮 』や『 つるばらの小路 』や『 日本の太鼓橋 』を通して、万象の聖性のほとんど直前にまで到られ、やがて、お父さまの死を通して、さらにはエル=グレコとジョルジュ=ルオーとの出会いによって、ついに万象の本源である究極の聖性に邂逅されたのでした。 
 そして、礼奈、あなたは聖性の光にあふれたエル=グレコのシンボルとしての絵を、そして聖性そのものを描いた晩年のジョルジュ=ルオーのイマージュとしての絵を愛されながらも、あなたご自身は、さらに深く、聖性そのものの活きである精神的な愛を描き続けられたのです。あなたにとっては、絵はシンボルでもイマージュでもなく、活きそのものでした。あなたご自身が日々そのような真実の生命の活きにほかならなかったからです。そして、愛であるあなたは、なぜかモネのように睡蓮に限りない愛を注がれながらそれをカンバスに写し取られ、同時にその睡蓮に収斂させて万象に愛を注がれながら、その愛を通して自らをも万象の愛の返照で満たされたのです。万象と自己自身に対する絶えることのない透明な愛の活きがそのまま絵によって表現されたのでした。あなたの絵はどれも愛の活きとしての聖性の光に満ちあふれています。

―――礼奈、わたしたちにとって大切なこと、それは、この瞬間ごとに移り行く現象世界を、ひとたびは肉体の眼ではなく、曇りのない透明な心の眼でしっかりと見つめること、そして、ただ単に表面的と見えるその現象の背後にある深い真実を見る力を養うこと。
 ...えゝ、礼奈、この眼の前に展開しつつある空間世界の背後には、その空間を超えた無限が拡がっており、又、この時間的世界の背後には、時間を超えた永遠が遍満しています。いえ、というよりはむしろ、この空間世界には無限が浸透しており、この時間世界には永遠が浸透しているのです。すなわち、この現象世界の瞬間ごとの変化は、同時に永遠にして無限なる聖性の変容であり、この世の出来事はすべてつかの間の幻影でありながらも、その中には常に、過去・現在・未来を超えた永遠と、空間的広がりを超えた無限が浸透しているのです。 
 そして、礼奈、真の芸術家たちは皆、その表面的現象の内に遍満する聖なる永遠・無限を心の眼で見つめ続け、それを、あるいは色彩や形体によって、あるいは音や言葉によって、深い祈りと感謝を込めて表現し続けてきたのでした。

―――礼奈、わたしたちが自らの内に根深く巣食う自己中心性を超え、無私の愛となって世界に向かうとき、世界はその聖性を顕にします。まことに聖性はわたしたちの心の内にこそ在るのですね。わたしたち一人一人の内なる愛のほのかな一条の光が、万象を包み込んだ聖性に遍満する光に融け込む時、聖性とわたしたちの真の生命とが、その光を通して一つになるのです。

―――礼奈、美しいイメージ、純粋な夢、完全調和への憧憬、これらはわたしたちの人生の中でもっとも大切なものの一つなのではないでしょうか。それなくしては生そのものの価値と意味の多くが消え失せてしまうほどにも重要な、ほとんど生の本質と呼んでもいいものを形づくっている、そういうものの一つなのではないでしょうか。そして、礼奈、聖なる真理に基づいた理想主義、これこそがわたしたちの実存の最高の形式であり、その中には夢と希望と愛と創造、つまり永遠へと変容し続ける永遠があります。

 

 

 

ベートーベン作曲『交響曲第九番ニ短調』

 

第一楽章

 

そうだ、思い返してみれば、今日までのわたしは人間の偉大さを求めて、独り果敢に人生を駆け抜けてきた。人の世の自由平等と平和を夢み、正義の永遠の勝利を祈った。また、真の芸術の創造と真実の繁栄を願い、闘い続けてきた。人生の苦難に真っ向から立ち向かう英雄たちのように、わたしもまた、わたしの前に立ちはだかる幾多の苦難を切り抜け、力の限り生きてきた。生活の不安と闘い、恋に悩み、健康への不安におびえ、住居を転々としながら生きてきた。
 ある時には一人の英雄の出現に歓喜し、しかしやがてその裏切りに失望し、ままならぬ混沌とした時代の激しい流れとともに生きてきた。
 そうだ、音の芸術家にとってもっとも過酷なあの運命的な耳の病に襲われた時、わたしは絶望のあまり死をも覚悟した。たしかにわたしは十分に苦しみ、そして耐えた。どこまでも意志を堅く守り、熱情をもって新しい芸術を創造してきた。打ち続く苦難との闘いの中から人生の栄光を勝ち取ってきた。悲惨なまでの忍耐と精進の果てに初志を貫きこの英雄的勝利を手にした。

 

第二楽章

 

ふと悔恨の小さなとげのようなものが心に突き刺さる。はたしてこのような人生でよかったのだろうか。あるいはこれまでの、ひたすら理想を求めて闘い続けてきた一生は、独りよがりの一人相撲ではなかったのか。このように仰々しく騒ぎ立てる人生ではなく、自然のふところで無邪気に遊びまわる子供たちのように、生まれついた内なる自然の生命のリズムのままに生きることこそ、本当の生き方ではなかったか。悩みを知らない無垢な動物たちのような天衣無縫の生き方、青く晴れ渡った空のような大らかな生き方こそが本当の生き方ではなかったか。
  人生はもともと、より単純で楽しいものではなかったか。太陽や大地とともに、もっとまっすぐに、自然のリズムに合わせてゆっくりと成長していくような、その時その場の生命活動に力を出しきり、決して後悔しないような、そういうものではなかったか。
 そうだ、あの古代ギリシャの、力みなぎる自然の神々のように、自己と世界を信じきって力の限り生き切ることこそ、本来の生き方ではなかったか。 無心に遊ぶ幼子たちのような、自己と世界が一体となった全肯定の、生気あふれる夢中な生き方こそが、真の生き方ではなかったろうか。            

           

第三楽章 

 

ふたたび心静かに来し方を顧みれば、やはり人生にはより高い内的向上の道がある。深い自己省察に支えられた、より豊かで真実な道がある。思えば、生あるものの中で最も高い能力に恵まれたわたしたち人間には、より高い知恵に満ちた、より精神的な生き方こそがふさわしいのではなかろうか。 
 高められた精神は神へと近づき、やがては神を見る。心は浄らかに澄みわたり、浄化された人の魂は、天上的なもの、聖なるものに目覚める。祈りと希望と歓びと感謝に満ちた真実の世界に目覚める。その世界では、全てのものが生き生きと輝きながら、そのまま浄らかな静けさの中で調和している。心は浄福にみたされ、全てのものがお互いに照らし合っている。そしてその調和の極みの中で、祝福の限りない浄光が、荘厳な神の玉座から全てのものの上に注がれる。真実の精神的光に満ちあふれた永遠調和の生命世界......  
 しかし、なぜこの永遠調和の美しい世界がいつまでもこの世に実現しないのだろうか。わたしは今、心からこの世を、この天上的なものによって満たしたいと思う。これこそがわたしの使命なのではないだろうか。これよりわたしは、心の底にいつもこの無上の調べをたたえながら、いつまでもこの天上的諧調でこの世を満たしていこう。

 

第四楽章

 

いや、それよりもさらに直接的で積極的な道がある。単に自然的な、あるいは英雄的な旋律だけというのではなく、または、単に精神的な和音だけというのでもなく、おお友よ、単にこのような旋律と和音だけというのではなく、この調べの上にはっきりとした詞をのせて、もっと楽しく歓びに満ちあふれた人生の讃歌を、さあ今は、あのシラーと共に高らかに歌おう。

 

よろこびよ、美しい神のきらめく火花よ 
 楽園に生まれし娘よ     
 われらは熱情に駆られ       
 天なるあなたの聖堂に進みゆく    
 あなたのふしぎな力は 時が     
 苛酷に断ち切ったものを再び結びつけ   
 あなたの優しい翼の下で 
 すべての人々は兄弟となる  
    

さいわいにも一人の    
 真の友を得たもの     
 優しい妻を得たものは    
 ともに歓びの声をあげよう     
 そう たったひとつでも通じあえる心を 
 この世で手にしたものは皆ともに歌え  
 それさえ叶わなかったものは      
 泣きながらこの友愛の輪から去るがいい   

  

歓びはすべての生き物たちが  
 大自然の乳房からうけとるもの        
 善人はもちろんのこと 悪人たちもすべて  
 自然のバラ咲く小道をたどれるのだ    
 自然はわれらに くちづけとぶどうの房と 
 死をも恐れぬ一人の友を与えてくれた    
 心のいやしい人間にさえ 楽しみは与えられた 
 かくて光の天使ケルビムは神の御前に立つ    

 

天の妙なる計画に従い もろもろの天体が 
 壮麗な天空をかけめぐるように     
 進め 兄弟たちよ みずからの道を     
 晴れやかに勝利に向かって進む勇者のように   
 兄弟たちよ みずからの道をつき進め    

 

ともに抱き合おう もろびとよ    
 このくちづけを全世界に       
 兄弟たちよ あの星空のかなたには   
 愛する父なる神が住みたもう      
 大地にひざまづいているか もろびとよ  
 創造主の存在を感じているか 世界よ  
 星空のかなたに神を求めよ       
 星のかなたに かならず神は住みたもう

 

 

 

―――礼奈、まことにあなたにとっては、大自然の風光の全てが聖なるものでした。山も川も海も、大地も空も太陽も、また、海や川に生きるものたちも、野や森に生きるものたちも、地の中に生きるものも草花も、その他この大自然のありとあるもの、生きとし生けるものの全てが聖なるものなのでした。そして、そのような聖なる自然に融け込んで静かに立っていらっしゃったあなたの中のあの聖なる沈黙こそが、あなたにとって最高の言に他ならないのでした。その時あなたは、おのずから、万象の根源である『 聖なる無(PLEROMA) 』のこの世的顕現なのでした。
 礼奈、まことに大自然は悠久の間、その聖なる全一的均衡を営々と保ってきたのでした。清らかに流転・変化し、万象が万象に対して清らかな因となり果となって、その美しい調和を保ってきたのでした。
 しかし、その大自然から生まれてきたわれわれ人間が、その恵まれた知性を使ってさまざまな道具を生み出し、やがてそれによってみずからの都合に合わせて自然を利用し始めます。そして、いつしかその増長慢と欲望を、その限度をはるかに越えて募らせてしまった人間は、いつしか大自然と共に在る自らの生命の本質を見失って、母なる自然の聖性を急速に汚し始めたのでした。
 愚かな、慎みのない人間たち。欲望にふりまわされるのではなく、その内なる、大自然と一体の悠久の生命の本質をこそ生きるべきであるのに...

―――礼奈、あなたを思うにつけ、わたしは今の世のありさまを悲しまずにはいられません。大自然の本質を忘れてしまったわたしたち愚かな人間の手によって、日一日とさらに取りかえしようもなく、この世の生命なる水が、大気が、大地が汚されていきます。生命の根を忘れた高慢な人間たちの、その必要をはるかに越えた欲望を満たすために、さらなる大量生産、さらなる大量消費が遂行され、自然がますます収奪され、そしてめぐりめぐってわたしたち自身の生命が汚されていくのです。いたるところで森林が焼き払われ、砂漠化が進行しています。また、汚染は地球のすみずみにまで拡がり、さらには大気圏外にまで拡がろうとしています。今では北極のシロクマや南極のペンギンたちですら、その体内を百数十種にも及ぶ化学物質で汚染され、また、成層圏はフロンガス、深海底は核廃棄物で汚染されています。 
 礼奈、愚かな人間たちの肥大し続ける欲望を満たすため、罪のない多くの野生動物たちや鳥たちの生命が意味なく奪われ、草花や樹木などが枯れていきます。そしてこの状態がいつまでも続けば、やがてその生命の根を草木や動物たちと共有するわたしたち人間自身が同じ運命をたどることになります。すでに多くの食べ物が化学物質によって汚染されています。そして今、わたしたちの身体の中には、水銀や鉛やカドミウムなど多くの有害物質が蓄積し、日を追うごとにガンやアレルギーの患者が増えています。また、大気中の汚染物質が酸性雨となって降り注ぎ、すでにヨーロッパや北米では森林が大量に枯れ、また、北欧のある沼では、それまで毎年美しい花を咲かせてきた睡蓮がその酸性雨のため枯れつくしてしまいました。
 礼奈、ほんとうに今や地球のいたるところで生態系が崩壊し続けています。わたしたち人間は、その恩恵を受けそれによって生かされている母なる大地を、大気を、海を、そしてめぐりめぐっては自分自身の生命を自分自身の手で穢しているのです。その無知に根ざした高慢と節度のない貪欲さとによって、わたしたちを養い育ててくれている聖なる自然と、わたしたち自身のかけがえのない生命を、ほかならぬわたしたち自身の手で穢し続けているのです。 
 礼奈、わたしたちはどうすればいいのでしょうか。これほどまでに汚染が進んでいながらまだその解決からはほど遠く、さらに日々悪くすらなっていく今日、わたしたちはいったいどうすればいいのでしょうか。
 礼奈、わたしは祈らずにはいられません。わたしたちの生命の源へと向って祈らずにはいられないのです。聖なる創造生成の場、清浄にして全き存在の初元のところに向って祈らずにはいられません。そしてまた、もともと自分のものと呼べるものなど何一つとしてないこの聖なる大自然の中に生かされていながら、高慢と我執とによってそれを汚し続ける人間たちの底知れぬ無知の消滅を願って、わたしは祈らずにはいられないのです。   

 

 

 

 ヴィヴァルディ作曲『ヴァイオリン協奏曲「四季」』

 

 第一番ホ長調「春」 

 

  1  

心浮き立つような春の訪れ。のどかな春景色の中で、小鳥たちが楽しそうにさえずっている。若草の萌え出た野辺では、小さな泉から湧き出た美しい水が、小さな魚たちの泳ぐ小川となって、やさしくささやきながら流れている。
 しかし、いつしか空は黒雲におおわれ、稲妻が走り、雷鳴がとどろく。春の嵐の到来だ。動物や鳥たちは大慌てで木の茂みや巣穴に逃れる。けれども、春の嵐は短く、ひとあばれするとすぐに遠ざかり、やがてまた、暖かい陽光があたりを包み込む。小鳥たちは前にもまして楽しげに歌い、ひばりは空高く舞い上がり、天に向ってさえずり始める。 
    2                 
 春の牧草地では、羊飼いたちが眠りをさそう暖かい日差しを浴びてまどろんでいる。そのすぐ傍では犬たちも心地よさそうにねそべっている。あたりの木々の葉はやさしく微風にささやき、一面に色とりどりの花が咲いている。ときどき犬が羊たちに向って吠え立てるが、春のけだるさに気をゆるした羊飼いたちは、甘酸っぱい白日夢の中をいつまでも彷徨い続ける。
    3                  
 ......花ぐもりの空の下、なだらかな丘にどこからともなく妖精たちが現われる。そして牧笛の陽気な音に合わせて、羊飼いたちと踊り始める。美しく軽やかな身ごなしのニンフたちと踊りながら、まだ年若い羊飼いたちはほのかな恋心に包まれる。
 夢うつつの彼らに注ぐ春の陽光はどこまでも優しく、その背に伝わる大地のぬくもりが心地よい。

 

 第二番ト短調「夏」 

 

  1                  
 野に照りつける太陽の光、その焼けつくような暑さのために、人も羊たちもみな生気を失ってけだるい気分に包まれている。時の流れすらその正しいテンポを忘れてふと眠り込んでしまいそう。 
 その時、あたりにカッコーの声が響き、薄らぎかけていた羊飼いの意識を揺り動かす。しかし、やがてカッコーの鳴き声が止むと、ふたたびけだるさがあたりを支配する。 
 と、まったく思いがけず北風が野を吹き抜ける。その、嵐を予感させる、黒雲をともなった不意の北風に、羊飼いたちはうろたえ、自分の不運を嘆く。 
    2   
 やがて稲妻が天を裂き、あたりに大きな雷鳴がとどろき始める。羊飼いたちは思わず、手足をこわばらせ身をすくめてしまう。またあたりには大きなハエや小さなハエがうるさく飛びまわっている。 
 羊飼いたちは、そんなうっとうしいハエや、間近にせまった激しい嵐のことを想ってうんざりしてしまう。
    3                  
 稲妻と雷鳴の中、とうとう季節はずれの霰が降り出し、ようやく熟し始めた穀物の穂の上に容赦なく降り始める。羊飼いは、手で頭をおおい、大急ぎで近くの樹の下に駆け込み、霰の襲来から逃れる。
 あたりにはいつまでも雷鳴がとどろき、霰は羊たちにも襲いかかる。

 

 第三番ヘ長調「秋」 

 

  1    
 澄み切った秋の日の午後、さわやかな風が吹く秋景色の中で、村人たちが恵まれた今年の収穫を祝っている。老若男女が入り乱れて肩を組み手をつなぎ、歌ったり踊ったり、また、踊りの輪を眺めながらおしゃべりしたり笑ったり。 
 やがて、祝いの酒で酔いのまわり始めた村人のろれつと足取りが、一人また一人と怪しくなってくる。笑いとおしゃべりが、より声高になり、踊りの輪も乱れがち。 そのうちいつしか秋の陽も西に傾き始め、踊りつかれた村人たちは、心地よい眠気に襲われ、草の上でこっくり、また椅子の上でこっくりとまどろみ始める。......そして、夢の中でも歌ったり踊ったり...... 
    2                  
 やがて秋祭りの歌や踊りも終り、あたりには騒ぎの後のものうい静けさが漂う。快い疲れの中で、人の心はなんとなく内省的な気分にひたされる。そして、あらためて今年の収穫に感謝し、来年の豊かなみのりを祈る。また、今年も生きて収穫の秋を迎えることができた老人たちは、ひそかに神のご加護に感謝する。酒に酔って寝込んだものは、今は深い安らぎの中で眠りこけている。
    3   
 村の狩人たちは夜明けとともに犬を連れて意気ようようと狩に出かける。しきりに角笛をふきながら、鉄砲を手に、逃げる鳥やけものを追い始める。追い立てられるけものたちは恐怖におののき、必死にあたりを逃げまどう。狩人と犬たちは、その後をしつように追いかける。あわれなけものたちは、どうにかして犬の吠え声や鉄砲の音のしない所へのがれようと逃げまわる。しかし、次第にけものたちは疲れ、傷つき、追いつめられる。犬はますます吠え立て、鉄砲があちらこちらで火を吹く。やがて、力尽きた獲物たちは地に倒れてしまう。狩人たちはさらに新しい獲物を求めて角笛を吹き、犬をけしかける。

 

 第四番ヘ短調「冬」 

 

  1      
 凍てつく冬の到来。雪の降る中で、体は寒さに凍え、ぶるぶると震えている。その寒さに追い打ちをかけるように、冷たい風がはげしく吹きつける。 
 そのあまりの寒さに耐えかねて、思わず走ったり足踏みしたりしてしまう。さらに風は吹きつのり、今はただ絶え間なく足踏みしながら、いつまでもあたりを動き回るだけ。寒さのため、歯の根も合わずガチガチと鳴り始める。心の中まで凍りついてしまいそうな冬の厳しい寒さだ。  
    2                  
 家の中の暖炉のそばでは、親子の楽しげな団欒が続いている。子供たちは父や母に向ってその日の出来事や友だちのことなど、身ぶり手ぶりを交えて話している。親はそんな子供たちにやさしく耳傾けながら、ときどき合いの手を入れる。安らぎに満ちた家族の団欒の外では、冬の冷たい雨が降り続いている。
    3                  
 よく晴れた寒い日の朝、道の上に張った氷の上を、滑らないように注意しながらゆっくりと歩く。しかし、だんだん慣れてくると、次第に歩き方も大胆になり、ツルリとすべって転んでしまう。それでもお尻を手ではたきながら立ち上がると、今度はずんずん氷の上を走り始める。すると氷がくだけて裂け目ができる。それがおもしろくて、氷を割りながら走り回ることに夢中になってしまう。  
 あたりに春の芽生えを予感させる南風が吹き始める。それが冷たい北風とぶつかり合って激しくせめぎあう。さしもの長く続いた厳しい冬も、ふたたび春へとその座をゆずり渡そうとしている。新たな四季の円環の予感......        

 

 

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