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―――礼奈、あなたがまだ十九才という年の秋の終りに、にわかにあなたのお父さまと同じ血の病にお斃れになったことを、その死から半月後にようやく届いた訃報で知った時、わたしは呆然とその場に立ち竦んでしまいました。季節の変わり目にお引きになった風邪をこじらせ、その療養のために帰郷なさってわずか二ヵ月後のことでした。あまりに急な死の知らせに、わたしはにわかに信じることができないままあなたの郷里を訪ね、まだ夢の中にいるような思いで、あなたの真新しい位牌に手を合わせました。そして、その日はあなたのお母さまといっしょに、さまざまな遺品を眺めながらあなたの思い出話にふけったのでした。
 それからあなたのお母さまが亡くなられるまでの二十年余りの間、わたしはあなたのご命日に、あるいは睡蓮の花咲く頃に、あなたの郷里を訪ね、あなたの霊前に手を合わせたのでした。

礼奈、あなたは大学で東洋思想史を講じていらっしゃったお父さまと、絵と詩をこよなく愛されたお母さまの深く豊かな愛情を一身に受けてお育ちになったのでした。北陸の小都市の、城址公園の外濠に臨む家で生を受けられたあなたは、まだ幼い頃から、絵を描かれるお母さまに連れられて、よくその公園に行かれた。そして、いつしかあなたもお母さまの隣でいっしょに画を描き始められた。そしてしばしばお母さまを驚かせになった。まだ幼いあなたが描かれた無心な絵には、すでにどこか天性の気品が漂い始めていて、見るものの心を揺り動かす力があるのでした。
 また、お父さまがお休みの日には、家族三人で、あるいはお父さまと二人だけで園内をお歩きになり、あなたはご両親の、自然の草花や虫たちについてのいろいろなお話にその素直な心をお開きになり、不思議がいっぱいつまった美しい自然に同化なさったのでした。
 礼奈、あなたはお父さまもお母さまも大層お好きなのでした。けれど、それでもなぜかお父さまにより一層強い愛着を抱いていらっしゃるのでした。それはあるいは共に過ごす時間がお母さまに較べて少なかったことの反動だったのでしょうか。それともそれは父と娘との間に生まれる自然な関係だったのでしょうか。あなたはお父さまと、心のより深いところでつながり、結び合っていらっしゃるかのようでした。思えばあなたはお母さまからはあらゆるものを暖かく包み込む深い無条件の愛を、そしてお父さまからはより精神的な、高さへと至る愛を、どちらも豊かに浴びながら成長なさったのでした。
 やがてあなたは小学校にお通いになる頃から、何かに憑かれたかのように絵を描き始められた。戸外の風景であれ、室内の花や果物であれ、あなたの心を引きつけるものは何でも描いてしまわれるのでした。そして、それらの絵はどれも、全体の明るく晴れやかな画面の中で、色彩と形とが豊かに共鳴し合っているのでした。お母さまもそのようなあなたの絵の中に確かな天分の輝きを認めないわけにはいかないのでした。

礼奈、お母さまの思い出の中のまだ幼いあなたは、なぜかモネがお好きでした。あなたはモネの積藁が、ポプラ並木が、ルーアン大聖堂が、そして睡蓮がお好きなのでした。刻々と移りかわる時の流れの中で、光によってその色相を微妙に変える世界を描いたモネの絵に、あなたの眼と心が吸い寄せられるのでした。あなたはお母さまの書棚から抜き出したモネの重い画集の中の積藁を、ポプラ並木を、ルーアン大聖堂を、そして睡蓮池を飽かずに眺めていらっしゃった。
 そのように幼い頃からモネがお好きだったあなたは、やがていつしか自分を包んでいるこの世界が、ただ眼に写っているだけの表面的な世界ではなく、その背後に、もっと深い不思議な世界が拡がっているという予感を抱かれたのではないでしょうか。あなたはさらにモネに親しみを覚え、さらに深くモネを見つめ続けられました。

 ...モネ、観念や先入見に縛られることなく、その驚くべき眼で、生涯にわたって自然をみつめ、それを愛し、描き続けたモネ。 光にとりつかれ、うつろい易い自然の微妙な色彩的瞬間相を、たゆたう空気の中の光の反映としてカンバスに定着させた画家、モネ。
 彼は他のいかなる画家よりも鋭く、時間とともに変化し続けていく眼の前の自然に肉迫しました。恐ろしいまでの精神集中の中で、時の流れとして、また同時に光の色彩的反映として眼に写った自然をそのままカンバスに捉えようとしました。もちろんそれは最初から不可能な試みなのでした。しかし、モネはあきらめることなくその不可能事にくいさがり、追求し続け、やがて積藁、ポプラ並木、ルーアン大聖堂の連作を生み出していきます。

そして、さらに年とともに、モネの中で自然はその深みを増していきます。初め、モネは、光を浴びた自然の表面的な色彩の輝かしさに眼を奪われていたのでした。しかしいつしか彼は、自然の前に全き自己否定を身につけ、やがてその透明な眼と心を通して、瞬間ごとに一切のものを一気に変容させる時空渾一の神秘に融け込みます。そしてついに、あたりの情景を水面に映して静かに拡がる、時空が一つに融け合った睡蓮池を描き始めます。
 しかし、モネはそれを超えてさらに大きく歩を進めます。そして、その最晩年にいたって彼は、限りなく豊かな自然の無窮と、自分自身の心の無窮とが渾然と一つに融け合った陶酔状態の中で、形を超え、対象を超え,時空すらも超えた、永遠の色彩的法悦
(マンダラ)を描くに至るのです。そして『 つるばらの小路 』を、また『 日本の太鼓橋 』を残しました。

 

 

 

 ヴィヴァルディ作曲『調和の霊感作品三 第八番イ短調』

世界の本質である調和に満ちあふれた音が流れ始める。少しも夾雑物の混ざらない弦楽器の透明感あふれる和声が、あるいは優しく、あるいはもの悲しげに、あるいは力強く生気にあふれて室内に満ちわたる。

 

 

 

―――礼奈、あなたはやがて、少女から生き生きと輝く眼をした心やさしい娘へと成長なさった。あなたはよく、ささいなことにもくったくなく笑う本当に明るい娘なのでした。

しかし、突然大きな不幸が襲いかかります。あなたが十二になったその年の冬に、大好きだったお父さまが白血病でお斃れになったのでした。そのまったく予期しなかった、あまりに突然な不幸の訪れに、あなたは呆然と我をお忘れになった。そして、その日からあなたは笑いを忘れ、絵を忘れて、心の内深くに閉じこもっておしまいになった。お母さまと二人、悲しみの日々をお過ごしになった。あなたは、人の生命の儚さと、この世の愛の儚さをいやというほどお味わいになった。しばしばあなたは、お父さまの書斎に一人閉じこもり、お父さまが残された日記を読み、蔵書を眺めながら在りし日のお父さまとの思い出にふけられた。そして、あなたはこの世の時間の中に潜む無常性に真正面から向き合われた。
 礼奈、あなたはいつの日にかきっと訪れるお母さまの死を、そして、やはり避けようもなく訪れるあなたご自身の死を想って、恐れの入りまじった空しさに襲われた。
 あるいはあなたは、あの世から大好きなお父さまが呼んでいらっしゃるかのような気がして、一日も早くこの世を去ってお父さまの許へ翔んで行きたいと希われたのではなかったでしょうか。
 礼奈、やがてあなたが、あてどもなく霧の中をさ迷っているような、自分が自分でないような、そのようなもどかしさと悲しみでいっぱいの月日を経てふたたび描き始められた絵は、それまでの明るい色調のものからは一転して、青味がかった暗い色調のものへと変化しているのでした。そして、その頃のあなたは、しばしば死の不安の漂うムンクの画と向き合われた。あなたは、モネの絵に見ていらっしゃった光の中の時間とはまるで異質な、心の闇の中の時間をムンクの絵の中に見ていらっしゃった。あなたはその時、この世の時間に内在している光と闇の二面性のただ中で一人苦しんでいらっしゃったのですが、それまであなたを包み込んでいた光が明るければ明るいほど、あなたの心の中にしのび込んだその闇はより一層暗いものとなったのでした。
 礼奈、ほんとうにその頃のあなたの心の内はどんなだったでしょう。
 しかしながら、そのような長い心の彷徨の果てに、あなたは又、しだいに明るい光に心を開き始められた。そして何度目かの梅雨が明け、ふたたび光が燦燦と降り注ぐ季節がめぐってくると、あなたはなにかに引き寄せられるようにして、公園のお濠に咲いている、お父さまの大好きだった、そしてまたモネの大好きだった睡蓮の花を描き始められた。
 また、その頃のあなたはいつしかムンクを離れ、エル=グレコとジョルジュ=ルオーに近づいていらっしゃった。あなたはいつしか、それとは気付かずに、聖なるものへと心の眼をお開きになっていたのでした。十六歳の夏のことでした。
 そしてそれから間もないある日のこと、あなたは睡蓮の花弁一枚一枚をたんねんに描かれながら、ふと、時間とともに移りすぎていくこの世の生と死の背後に、永遠の透明な光に包まれている『 無なる聖性 』をごらんになったのではないでしょうか。そして、その全身をさし貫く突然の啓示の中で、あなたは、『 わたしは生きている。あるいは次の瞬間にこの生命が消え失せてしまうにしても、今は確かにこの透明な永遠の光の中に生きている 』と、鋭いような、また限りなく純粋な意識とともに、そんな永遠感覚にひたられた。その時あなたは、『 無なる聖性 』の前では、この世のただ一瞬の命でさえも無限の重みと輝きを持っていることにお気付きになった。そして、現在この一瞬を生きているご自身の生命を奇跡のように感じ、思わずあなたはなにものかに向かって感謝の祈りを捧げられた。
 やがて、その聖性は、エル=グレコとジョルジュ=ルオーとの対話がさらに濃く繁くなっていくにつれて、あなたの心の中でより深くその根を下ろし、あなたの生活のすみずみにまで浸透していきます。そしていつしか、そのような聖性へと深まったあなたにとって、生も死も同等のものとして、いってみればその聖なるものの表と裏として、いえ、というよりはむしろ、生も死もほんとうに在るというのではなく、『 無なる聖性 』こそが唯一つの真の実在であり、生も死もともにその聖なるもののうたかたの仮象と見えてきたのでした。この世に在る全てのものは『 無なる聖性 』から生まれ出て、しばしこの世にとどまり、やがてふたたび『 無なる聖性 』に帰って行くのでした。
 それからのあなたにとって、もはやこの世の時間性―――お父さまの死も、又、いつの日にかやってくるお母さまとの別れも、そしてご自身の生命のつきる時も―――は心を悩ませる対象とはならず、ただ生と死をそのままそっくり包み込みながら、しかもそれらを超えた永遠の実在である『 無なる聖性 』を心の眼でみつめ、その純粋なはたらきである精神的愛に身をまかせながら、この世での残された時間を深い感謝とともに充たされたのでした。
 礼奈、そのことがあってからあなたが急逝される十九才の秋までにお描きになった絵はどれも、真にあなたの内的世界の表徴となっています。新しいあなたの絵には聖性のオーラが漂っています。同じ対象
(もの)を描いたときにも、新しいあなたの絵には、それまでの絵には見ることのできなかった深い聖性の輝きが画面いっぱいに満ちあふれています。あなたは単なる日常的な眼と心ではなく、『無なる聖性』の澄み切った眼と心とでこの世を見ていらっしゃった。あなたにとってはもはやこの世の一切が聖なるものなのでした。
 礼奈、それからのあなたの生活は、聖性の現れである精神的な愛の活きそのものであったのに対し、今のわたしは、あなたの思い出を通して、ようやく聖性について少しばかりの知識を得たというにすぎないのです。わたしはまだあなたの真実になんと遠いのでしょうか。悲しむべきことに、わたしの少しばかりの知識は、ややともすれば、自分自身を恥ずべき高慢へと導いて、聖性の真実の流れに逆らってしまうのです。わたしはわたしの中の不完全さをあなたの前に懺悔し、祈りと、内なるあなたとのさらなる交わりを通して、一日も早くあなたの真実へと近づきたいとひたすら希うのです。

 

 

ブルックナー作曲『交響曲第九番ニ短調』

 

第一楽章

 

かの神秘の地より聖なるものがわたしをいざなうように密やかにそして厳かに近づいてくる。秘蹟を受けた時からすでにわたしにはこの時への強い予感があったのだ。粛然とわたしはその訪れを迎える。
 やがてそれは何ものにも比し難い圧倒的な力でわたしの眼前に立ち現われる。わたしは思わずその神々しい力の前に心の自由を奪われてひれ伏す。わたしはこの生命の全てをそれに負っている。今はそれに自らの運命をゆだねる他はない。
 過去の思い出が走馬燈のように脳裏を駆けめぐる。すべては遠い夢のようだ。......美しい自然に囲まれた田舎での思い出。父や母のこと。兄弟や仲間たちと時を忘れて野山を駆け回ったこと。そして都会での思い出。学生時代、恋、そして生活にまつわる苦しみやなぐさみ... ふとそのなつかしさに感傷的な気分に誘われる。しかしやがてまたとりとめもなく思い出の走馬燈が回り始める。そして回るごとに過去の思い出が浄化されていく。
 ふたたび聖なるものの圧倒的な力が波のように押し寄せてくる。思い出から覚めたわたしは、いつしかその聖なるもののオーラに包み込まれ、次第にこの世的なものから浄められていく。それにつれてわたしの心はその透明度を増していく。そして天上へと昇っていくような、軽やかな得も言われぬ気分に浸る。その陶酔の中で、聖なる力が、わたしの心の内に充ちわたる。わたしはその力に心の底から身をゆだねる。
 浄化され、聖なるものと一つになったわたしに、ついに永遠世界が開かれてくる。わたしはいつしか永遠にして聖なるものの圧倒的な世界にとけ込み、ひとり、永遠生命の陶酔と充足の中を漂い始める。  

 

第二楽章             

 

心の奥底からせり上がってくるこの精神のなんという快い目覚めだろう。この内なる精神の歓びと充実はどうだ。そしてまたなんと軽やかな心だろう、天上界を自由に舞い踊るような...ここには地上的人間的な憂いはなく、心は歓びに充ち、全てが一体となって、一瞬のためらいもなく転じていく。全てはなんと軽快で甘美で真実に満ちあふれていることか。全てが美しく精妙で喜ばしく、また想像を絶して力強く、不思議な活力に満ちている。自分がまるで全知全能の神にでもなったかのようなこの力のみなぎり。そして、全きものの全き流転・変容。これが生きていることの真実だったのか。無窮にして無量の一切が、わたしの内なる精神に統合され、この一瞬のために活く。一切はわたしの精神を中心に瞬間ごとに変容していく。わたしは無でありながら同時に一切になる。わたしはわたしの全てを聖にして真なるものにあずけていながら、私自身は一切そのものとなって生き生きと輝いている。全てが完全で生き生きと聖なる遊戯を繰り返す。

 

第三楽章

 

いよいよその時がやってきた。
 不思議な気配があたりに漂う。
  いつしか浄らかな光があたりを充たし、その中から聖なるものの言葉ならぬ言が湧き上がって、厳かに響きわたる。
 これはこの世に生を受けた者の誰一人としてまぬがれえぬ宿命。今は眼をそらすことなく、それを静かに受け入れよう。そして、ひとりこの聖杯を飲みほし、ひそかにこの地に別れを告げよう。
 ふたたびこの世の思い出が脳裏によみがえる。悲しみを通して人の汚れは浄められ、やがて祈りの世界が開けてくる。人の世の思い出は聖別され、目覚めた真の精神が、永遠調和の祈りを呼び寄せる。 
 しかし、それでもやはり、この別れの聖杯を飲みほすのは悲しい。長年慣れ親しんできたこの世から引き離されるのは辛い。できることならいましばらくこの地にとどまって、この地の生命を味わっていたい。
 そのようなわたしの未練を吹きとばすかのように、ふたたび圧倒的な言があたりに響きわたる。この世のだれ一人として、この聖なるものの命に逆らうことはできない。今は思い諦め、この宿命に従おう。
 わたしはわたしの全てを聖なるものにあけわたし、透明な神秘の世界へと昇っていく。それにつれて次第に人間的な情感が薄らいでいく。

 ...さようなら、この世の思い出、この世的なものの全てよ、さようなら... わたしはひとり忘却の河を渡りながら、次第に聖なる精神世界に包み込まれていく... 
 ...ここはなんと静かで澄明な世界なのだろうか。この世的なものの最後の残滓が、幻のように浮かんでは消えていく...
 ...聖なる世界の真の姿がわたしの前に顕になってくる。聖なるものの光に満たされ、その光の中に融け込んでいく...
 ...さあ、今は心静かに、あらゆるものを超越した精神の言で、聖なるものに感謝し、永遠の祈りと永遠の讃歌(ほめうた)を捧げよう...

 

 

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