――― 礼奈、わたしはますますあなたへと近づいていく。二十年を経た今もなお、あなたはわたしと共にあり、あなたがまだ生きていらっしゃったあの頃の、あの真実の時に、わたしの心は日ごと開かれていく。
...あなたの心はいつも浄らかに輝いているのでした。あなたの心はいつも浄らかに澄み切っているのでした。あなたには少しも自己中心的なところがなく、生まれつきこの世的な偏愛を超えていらっしゃるかのようでした。あるいはあなたは、この世のすべてのものを優しく包み込みながらも、その一切を超えて光り輝く、無にして聖なるものの全き顕現ではなかったのでしょうか。
しかし、哀しいかな、あなたと共にいたあの頃のわたしは、そのようなあなたからは遥かに遠く、まだあなたの真実を見る眼を持たず、あなたとのつかの間の無上の時を、ただ空しく過ごしているばかりなのでした。そして今、この世に一人残されて生きるわたしの唯ひとつの希いは、一日も早くあなたの内なる真実へと深まり、融け込み、やがては、あなたの全き真実と一つとなることなのです。
―――礼奈、あなたは若くしてすでに、人がその生涯をかけても登りきれないほどの心の階梯を登りつめていらっしゃったのではないでしょうか。あなたの中の限りない優しさは、いつも生の中に死を、存在の中に無を見ていらっしゃったからこそ生まれたのではなかったでしょうか。生は死と融け合ってこそ全きものとなり、存在は無と、言葉は沈黙と、音は寂静と、光は闇と結び合ってこそ全きものとなり、その全き調和こそが空に他ならず、その空は又、永遠なるものの瞬間ごとの全き変容であり、全き超越であり、真実の充満(PLEROMA)であり、そしてその充満の中には限りない寂けさと歓びが在るのではないでしょうか。
そして、礼奈、生ではなくむしろ死こそが、わたしたち生きとし生けるもののより根源的な本質ではないでしょうか。死、すなわち聖なる無こそが存在の真の源なのではないでしょうか。それ故に、死を忘れ死から遊離した生は、しょせんは不完全な幻影というにすぎません。そのような生は節度を失い、自己本位の偏愛に支配されて、世にいらざる混乱を招きながら、生涯とりとめのない欲望にまみれた時を過ごし、やがては不意に死の手にかかって、この世に悔いを残します。かなしいかな、そこには真の充満がありません。
しかし、礼奈、たしかに聖なる無こそが一切の本質であるとしても、その無の真っただ中に現れているこの有なる生命のなんという不思議、なんという神秘でしょうか。ふと気がついてみれば、礼奈、自分が生きていないのではなく、今、ここに、このように確かに生きているということのなんという恩寵でしょう。この広大な宇宙の真っただ中に与えられているこの生命のなんという歓び、なんというかけがえのなさでしょうか。
そして又、少し思いをめぐらしてみれば、この世のごくありふれた情景の中にも、限りない歓びと美しさが潜んでいます。
...母親の腕に抱かれた幼児たちの無心なしぐさや笑い顔、朝早く鳴き交わす小鳥たちの声、季節ごとに咲く花々の風に揺れるさま、トンボや蝶々の軽やかな飛翔、また、陽光にきらめく渓流のせせらぎ...
しかし、礼奈、そのようなこの世の心動かされるいかなる光景にも増して、あなたがかつてこの世に生きていらっしゃったことのなんという奇跡、そして、そのようなあなたに出会えたことのなんという僥倖でしょう。
礼奈、いま少しばかり思いを深めてみれば、この世の一切が恩寵なのではないでしょうか。 ...そしてまた、この認識のなんという歓びでしょう。
しかし、一方、これほどにも多くのいのちの糧を無償で与えられていながら、さらに際限もなく欲望し続けるわたしたち人間の、なんという無恥、なんという厚顔でしょう。いのちの一切を与えてくれる母なる大自然を私物化し、それをさらなる欲望によって汚し続けるわたしたち人間のなんという忘恩、なんという愚かさでしょう。
―――礼奈、わたしは今も大好きな音楽に耳傾けて心をなぐさめています。いろいろな時代の、いろいろな作曲家たちの生命と精神の営みの中からつむぎ出された音の世界にひとり浸っていると、おのずからさまざまな連想が湧いてきて、わたしのこころを豊かに彩ってくれるのです。
バッハ作曲、ケンプ編曲『シチリアーナ』。バッハ作曲『パルティータ第一番変ロ長調』。スカルラッティ作曲『ソナタホ長調ロンゴ23』。ショパン作曲『舟歌』。シューベルト作曲『即興曲変ホ長調作品九十第二』。
ディヌ・リパッティの高く清らかな精神の息吹きがピアノの音とともに部屋の中につぎつぎと立ち上がってはこの世の全てを包み込む無窮の聖なる無の静けさの中に溶け込んでいく...
バッハ作曲『フーガの技法』
この世ならぬ清浄の地を独り歩いているようだ。世俗の汚れが濾し取られ、澄み切った心はもう何も求めることがない。ただ聖らかな地に、聖らかな精神となって漂うばかり...
―――礼奈、去年の夏、わたしは不思議な時にめぐり会いました。
その日、とある公園のベンチに座ってひとり眼の前の池を眺めていたのでした。
...その大きな池のぐるりを、松やイチョウ、ケヤキや楠などのさまざまな樹々が取り囲んで、あたりに濃い緑の影をつくっていました。
池の中央には噴水があり、その台座の上の、天をあおいだブロンズの鶴の口ばしからは、水が勢いよく吹き上がり、あたりにわずかばかりの涼を伝えています。
水面から反射した真夏の陽光が、わたしのすぐ脇の楓の幹に映って、ゆらゆら揺れてます。
池の上空をしきりにツバメたちがとびかい、ときどきえものを追って池面に飛び込んでは小さなしぶきをあげます。
トンボたちが水面近くをとびかったり、石の上で体を休めたり、あるいは、尾の先を池水につけたりしています。 また、ちいさな木片のような胴体をした大小さまざまのアメンボたちが、糸のように細いその長い中足と後ろ足を自在に操りながら、わがもの顔に池面を滑っています。そして、ときどき後ろ足を使って不意に方向転換したかと思うと、水面に落ちた餌にすばやく襲いかかったり、あるいはなぜだか水面をピョンピョン跳びはねたり、時には仲間同士でいさかいを起こしたりもしています。わたしはなぜか緊張のほぐれた快い内的感覚を楽しみながら、眼の前で繰り広げられるそんな自然の小景を、飽きもせずいつまでも眺めていました。
...風が吹けば樹々の梢がいっせいに揺れ動き、水面がさざ波立ってキラキラと陽の光を反射させます。池の中を鯉や亀がゆうぜんと泳いでいます。すぐ眼の前ではメダカの小さな群れが水面をかすかに揺らしています。樹々の濃い緑の影が池面に映り、噴水から吹き上げられた水が水音とともに飛沫をあげて池面に落ち、あたりに無数の波紋を拡げています。蝉が鳴きしきり、空にはギラギラと夏の太陽が輝いています。
わたしはそのような光景を眺めているうち、いつしか不思議な感覚に包まれているのでした。
...その時、わたしには、眼の前の全てのものが自分の心と一つに融け合ったように感じられ、それらがこの上もなく美しく輝いて見えるのでした。と同時に、それら一つ一つのものが他の全てのものと豊かに響き合っているかのようでした。
わたしには、そんなありふれたあたりまえの景色が、なぜその時に限って、それほどにも生き生きと美しくまた豊かに感じられるのか分かりませんでした。しかし、なぜかその時、わたしの心は静かに澄み切っているのでした。そして不意に、わたしは自分の心が一瞬にして翻ったかのような感覚の中で眼前の情景に永遠を感じていたのです。同時に、わたし自身もその果てしなく広やかな永遠の中にやさしく包み込まれて、今まで感じたことのない純粋な歓びに浸されているのでした。
そして、あらゆるものが渾然と一つに融け合い生き生きと輝いている、そのような永遠感覚の中で、わたしの意識はにわかに結晶したかのように冴え返り、刻々と変容し続ける眼の前の生命絵巻に集中していたのです。 それは、今にして思えば、聖なる無の中で、ありとある一切のものが一丸となって展開しつつある、永遠そのもののたたずまいなのでした。全ては、他の何ものとも置きかえることのできない、その時その場かぎりの絶対的な風光であり時節であり、その連続した瞬間の一つ一つの中には、存在する全てのもの、そしてまた、生きとし生ける全ての生命が同時に包含されているのでした。そして、それらの全てが一体となって、限りなく複雑で豊かな生死絵巻を繰りひろげているのでした。鳥と虫、カメや魚、藻や数も知れぬプランクトン、その他あらゆる食べ、食べられる生きものたちの生と死が、眼の前の永遠の中で一つに重なり合い融け合っているのです。そしてその万華鏡のような生死絵巻の一つ一つは、無情な死の影に縁どられながらも、瞬間毎に生き生きと、また截然と変容し、少しもその跡形を残さないのでした。わたしはその自然の様相をそのとき何と形容すべきか知りませんでした。そこには善いも悪いもない、有無を言わせぬ圧倒的な必然の流れがあるのでした。そのようなあるがままの自然には、豊かで真実な生命の働きがあると思われました。しかし一方、心の片隅では、そんな自然の中にどんな意味があるのだろうかといぶかしんでもいました。そのような自然の営みの中には取り立てて言うほどの意味があるとも思えないのでした。それは、意味がないといえばまるでなく、また、意味があるといえばほとんどこの上もないほどの絶対的な意味があるとも思われました。つまり、これほどにも美しく豊かな生命の活絵巻も、つまるところは無に帰するものなのでした。しかしながら、それはまた同時に、生きているものにとっては、他のなにものにも代えがたい無上の悦びともなっているのです。
その時わたしは、なぜか心の底から、この意味を超えた大自然の中で、生と背中合わせの死と拮抗しながら、自分のこの生命の真実を生きたいと希いました。
そして、礼奈、このことがあってからわたしの前に、あなたの真実へと至る扉が少しずつ開き始めてきたのでした。
マーラー作曲『交響曲第一番ニ長調「巨人」』
第一楽章
弦楽器のひそやかな持続音。
東の空が淡く白み初め、静かに森の夜が明けていく。空は次第にその明るさを増し、森の中の闇を消していく。眠りから覚めたばかりの森に朝靄が漂う。...小さな生命のうごめき。あたりにカッコーの啼声が響く。人気のない冷ややかな空気。その時、水草のからまる沼に一つの波紋が拡がっていく...
第二楽章
農村の青年たちが、陽に焼けたそのたくましい身体を躍動させ、生き生きと踊り始める。頭上高く上った太陽の強い日差しの下、誇らしげないくつもの顔が、白い歯をのぞかせ、仲間と眼と眼で語り合う。手を打ち鳴らし、脚を振り上げ、腕をからませ輪を描く。村人たちとともにその踊りの輪を取りまく若い娘たちが、青年たちの踊る姿に熱い視線を注いでいる。踊り手はさらに意気高らかに身を躍動させる。
やがて青年たちの激しい踊りも終り、続いて優雅な円舞曲に移る。娘たちもその踊りの輪に加わり軽やかに舞い始める。気恥ずかしさと嬉しさこもごもの娘たちと、胸高鳴る青年たちが織り成す華やかな円舞。年老いた村人たちの眼にもそれは心なごむ春の憩いだ。
第三楽章
哀しい宵だ。やがて陽は西に沈み、ふたたびあたりを闇が包む。夜の黒い闇に潜んでいるのは死の影だ。今日もまた、命数の尽きた人たちがこの世に別れを告げる。森に住む多くの生き物たちもその短い一生を終えて土に返っていく。久しく親しんだ光の世界からの悲しい別離だ。
夜の森に静かに葬送曲が流れる。巣の中の小鳥たちは不安げにあたりの闇をうかがう。そして身を撫でる冷ややかな夜の風に首をすくめ、やがて眠りの世界へと逃げ込んでいく。繁みの間から闇を見張るフクロウの大きな二つの眼が光る。あたりに漂う葬送曲に枯葉の擦れ合う乾いた音が重なる。そして夜はさらに深く沈んでいく。
第四楽章
森の夜を吹き荒れる嵐だ。稲妻が闇を切り裂き、雷鳴が轟く。黒雲が風に吹きちぎられ、よこなぐりの雨が樹々の枝々を襲う。森は激しい揺動を繰り返し、動物たちも恐怖に身を強張らせ、息をひそめる。小枝が次々と吹き飛ばされ、沢の草も残らず薙ぎ倒され、若木の幹が真ん中からへし折れる。激烈な自然の狂騒だ。不気味な風の音が、森の生命のすべてを根こぎにしてしまいそうな勢いで、いつまでも容赦なくあたりに響き続ける。森は果てしなく続く長い夜の嵐におびえる。
しかし、さしも長く吹き荒れた嵐もようやくおさまり、ふたたび静かな夜明けを迎える。新たな一日の始まりだ。激しい嵐のしずまった早朝の淡い光の中で、空も森も灰白色の静寂に浸っている。薙ぎたおされた沼沢の草々が水面にへばりつき、地には吹きちぎられた草や小枝が散らばり、真ん中からへし折れた若木の折れ口が白くむき出している。冷ややかな風が時折あたりに流れる。鳥たちもまだ巣の中にうずくまったままだ。
うっすらと朝靄の漂う森にようやく一条の光が差し込む。巣の中で身を竦め、長い嵐に耐えていた動物たちも思い切り伸びをし、首をのばして外の様子を窺う。そして危険の去ったことを確かめると、巣を出て、ふたたび活動を始める。小鳥たちは梢に止まり、天に地にさえずりかけ、樹々の間を飛び交う。やがて空の青の拡がりがさらに色添う中に、プラチナ色に煌めく太陽がその燦然たる全容を現わす。
新たなる生命の躍動の時だ。生きとし生けるものが輝き始め、その内に秘めた不思議な生命力を発揚させる。 闇を遠くにおしやり、ふたたび明るい日の光が、生きとし生けるものの一切を等しく包み込んであたりを支配する。 光...永遠なる光...