――― 礼奈、わたしはますますあなたへと融け込んでいく。光と水がその透明性において一つと成った万象の母の母なるPLEROMAへと引き寄せられて、わたしはますますあなたへと融け込んでいく。精神のふるさとであり、あらゆる生命あらゆる物質あらゆるエネルギーのふるさとであるPLEROMA――それはありとある一切の完全統合界であり、そこでは精神も生命も物質もエネルギーも存在することを止めて全き無へと完成し、時空は消え、あらゆる差別あらゆる相対性が消え、まったき均衡、まったき真空、まったき完全性、まったき永遠、まったき真実のみが充満する。そのようなPLEROMAへと自己を投げ入れて、わたしはますますあなたへと融け込んでいく。その時わたしにはもはやいかなる(うら)みもなく、いかなる愛憎もなく、恐れもなく、自己もなく、言葉すらもなく、唯、永遠の無の生成過程そのものとなって自らを清らかに転じていく。                      
 そして、礼奈、わたしがあなたへと融け込んでいく時、わたしは消え、あなたすらも消え、唯、まったき無なる永遠のみが現前し、自ら展じ続けていく。善も悪もなく、美しさも醜さもなく、この世的な一切の分別を超えた、まったき全一の、空にして無なる、自己ともいえない自己が寂静(しずか)に展じていく。

―――礼奈、あなたに融け込むことは、すなわち、この全一世界に融け込むことにほかならないのでした。もともと一体であった自己と世界が、自我意識の目覚めとともに引き離され対立し始めてしまったのですが、あなたを通して全一的な意識へと目覚めたわたしは、ふたたび全一世界へと帰ることができたのでした。その時、それまで果てしなくわたしをさいなんできたあらゆる悩みや苦しみが消え失せたのでした。いえ、というよりはむしろ、それまで自分と分離していた悩みや苦しみが自分と一つに融け合って、悩みながら悩みでなく苦しみながら苦しみでない世界へと抜け出ているのでした。そこにはいかなる分裂も、いかなる対立も、いかなる作為も、いかなる虚しさもないのでした。あらゆるものを歪めてしまう自我がのり越えられて、全一的なものが全一的なまま清らかに展じていくのでした。              

―――礼奈、あなたのあの深い優しさをたたえた眼差しがどこからきていたのか、ようやくわたしにも分りかけてきました。あなたは透明な永遠の中であなたご自身と調和し世界と調和し、永遠の流転そのものと成って生きていらっしゃった。そのあなたの深い意識がそのままあなたの眼差しとなっていたのでした。あの頃、わたしの姿があなたの眼差しの中に映っていた時、わたしはいつもゆえ知れぬ喜びにひたされていたのですが、それは、あなたの眼差しの中の永遠にわたしもそっくり包み込まれていたからこそ湧き出てきた喜びだったのです。わたしは唯あなたといっしょの時を過ごすことができるということだけで無上の歓びを味わっていたのですが、その味わいの源が、あなたの内なる永遠にあったことを今知ることができて、ふたたびあの頃のあの感覚をあらたに思い起こしながら、その感覚と、今わたしが自己自身のうちに感じることのできる感覚とを重ね合わせて二重の歓びにひたっているのです。

―――礼奈、永遠がすっぽりとわたしを包み込んでいます。ゆったりとたゆたうような永遠の中に身も心もそっくりゆだねて憩っています。わたしは自分自身と調和し、草木と調和し、空や風と調和し、あたりに生起するあらゆる変化と調和します。わたしは貧しく空手なのですが、身も心も軽く、この眼の前に展開する世界とすっかり調和して本質的な豊かさの充満する感覚そのものと成っています。わたしの意識は現下の永遠に統合されて透きとおるようです。意識は過去にも未来にも揺れ動くことなく、現前の、過去現在未来が一つに融け合った永遠にしっかりと照準が合わさって、何の過不足もない状態を保っています。そしてこの純粋な永遠感覚の中で、わたしはおのずから刻々と自己展開し続けます。わたしの永遠がその全一的本質とともに新たな永遠へと瞬時に転じていくのです。わたしはもはや周りの世界に煩わされることもなく、自分自身の意識にも煩わされることなく清らかな渓流のようにさらさらと流れて行きます。わたしの意識は本質そのものとなり、その本質のおもむくままに流れ続けます。陽が射せば陽と調和し、陽がかげればそのかげりと調和し、あらゆる変化に全一的に反応します。わたしの生命のすべてが本質と一体となってあらゆる変化に対応します。世界をあるがままに受容し、自他の差別のない本質一杯の世界が永遠の中で自ずから転じていきます。              
 しかし、礼奈、わたしがこのような一時的な至福状態から転落する時、心は無境界の永遠の中でゆったりと安らぐことなく、幻想のような日常的な事がらにとらわれて一喜一憂し、右往左往してしまうのです。我執にまみれたちっぽけな自我に引きづられてわたしの心が走り回るのです。そして清らかな世界の清らかな展開を汚します。   
 それは何という生命の浪費でしょうか。真実の生命はいつも清らかに永遠を転じているというのに、永遠から永遠へと清らかに転じ続けているというのに......

―――礼奈、あなたの『青い睡蓮』の絵の奥にかくされた全体像がようやく私の前に開けてきました。あなたの絵の中の青い睡蓮の花は、この世のあらゆるものを『自己』の内に統合する精神的光の象徴であり、また、その花を咲かせ、あらゆるものを映して拡がる水は、何一つとして分けることのできない渾然一体の存在の象徴であり、そして、その画面全体を包み込んだ、それとはすぐに気づくことのできない透明性は、精神と存在との全き統合であり、この世の根源の母胎、母の母なるもの、無にして一切なるPLEROMAの象徴に外ならないのでした。そしてその精神と存在とPLEROMAの完全統合世界へと回帰する時、わたしたちは透明な真実そのものとなって一切の中に充満するのです。その時わたしたちは一切であると同時に無であり、至福にして空、時間にして永遠、俗にして聖、部分にして全体、言葉にして沈黙、α(アルファ)にしてω(オメガ)、すなわち、真の、自己自身の全一的本質へと回帰するのです。

―――礼奈、あなたはすでに永遠そのものに属し、一方、わたしはこの世の時間に属しつつ、次第にあなたの永遠へと融け込んでいきます。そこでは一切が透明であり、一切が一切と清らかに調和し、一切がおのずから転じ、何ものも我執によって卑小に歪められることなく、本質が本質に共鳴し、永遠が永遠に応答します。全ては持続的瞬間の中で全一的に転じ、変容していきます。       
 そして、心は何ものにも囚われることのない無境界に住して安らぎます。そして、人の眼と身振りと言葉に現われたあらゆる我執に基づく作為と操作を見通します。人間の歴史の中に積み重ねられた無知と貪りの複雑なもつれを断ち切ります。

―――礼奈、光としての精神は天上的な高さへとあこがれるのに対して、この世的な水はどこまでも深さをめざします。そして、その光と水が融合して、この世に在りながら全きPLEROMAの透明性に回帰します。

―――礼奈、まったき無の上に在る存在、まったき無から転じた存在であるこの宇宙のこの時この場所に生きている自己自身を意識する時、わたしは何ものに対するとも知れない無限の感謝の念にひたされます。また、この無の上の無常なる生命の一瞬一瞬を純粋経験している時、わたしは言葉につくせぬ至福に満たされます。もはや何ものもこの無上の純粋経験を汚すことができないと思われます。この瞬間的永遠の純粋経験は何ものとも較べることができず、それは絶対的無限世界の神秘的活(はたら)きであり、わたしたちは唯それをそのまま受け入れ、それに帰依する外ありません。そして、それこそまさしく本質によって充たされた至上の実存なのであり、無上の歓びでもあるのです。

――― 礼奈、この永遠の全一性の中で、純粋に自己を転じていることが、そのままこの上ない歓びなのですね。この一息一息、この一瞬一瞬の清らかな全的経験がPLEROMAに外ならず、まったき無の風光、まったき無の遊戯、まったき無の舞踏に外ならないのですね。             
  ところで、礼奈、この無なるPLEROMA,この一切の始まりであると同時に終りでもある永遠清浄のPLEROMAを汚すものはいったい何でしょうか。また、透明な精神の光透明な存在の水を汚すものはいったい何でしょうか。それはわたしたち人間の無知、わたしたち人間の我執という名の、貪りという名の、高慢という名の無知なのです。この永遠の清らかさの中に在るという無上の恩寵に感謝し満足することを忘れ、利己的な欲望のおもむくままに無限に妄想を積み重ねていく根源の無知なのです。自己中心的な妄念は、自らの身と心を汚し、母なる全一世界を汚し続けます。この全一世界の真っただ中にうごめき続ける人間の利己的な偏りが、この世のあらゆる汚れと災いの源なのです。今ここに存在していることがすでに無上のPLEROMAなのであり、それをそのまま清らかに転じているだけでそのまま至福なのですが、その欠けることのないPLEROMAの至福を、愚かな利己心が我執へと偏らせ、妄想へと歪めて、この清らかな本質世界を汚し続けるのです。  

―――礼奈、浄らかな完全性こそが、この世の永遠の本質ではなかったでしょうか。そして、その浄らかな完全性の中で、もともと無であったわたしたちは、それぞれの生命を、無の上の無限として(無に対してはあらゆる存在は無限存在です)、無償で、無条件で贈られたのでした。一瞬といえども、この世に生命として存在したことはもはやすでに無上の恩恵に他ならないのでした。生命としてこの世界を純粋経験できたことは何ものにもかえがたい恩寵に他ならないのでした。しかし、わたしたち人間はその生命をその浄らかさのまま自己展開していくことに満足せず、自我の妄執にひきずられて限界を知らない欲望追求に走り、自己自身を汚し、この世の一切を汚し続けているのです。                       
  礼奈、この宇宙の一切は、浄らかな完全エネルギーであるPLEROMAのまったき自己展開ではないでしょうか。この宇宙の光も、クオークも、原子も分子も、あらゆる生命も、人間もその精神も、星も銀河も、時間も空間も、この宇宙のありとある一切のものは、PLEROMAのまったき自己展開ではないでしょうか。それ故、この世における唯一つの律(おきて)は、自らがPLEROMAのまったき自己展開そのものと成って浄らかに転じていくことではないでしょうか。全一調和の中で、自己中心と高慢に走ることなく、身心を慎み、何ものをも汚すことなく浄らかに生きることではないでしょうか。この身体の一つの細胞、一滴の血液といえども、もともと自分のものといえるものなど何一つないわたしたちが、無知と我執に正気を失って、自分のものだ権利だと騒ぎ立て、欲の上に欲を重ね、自由の名の下でこの世のありとある恵みを奪い合う狂気の沙汰を一日も早くやめなければなりません。

―――礼奈、わたしはいつもあなたと共にいるのを感じます。あなたはいつもわたしの中にいて、わたしと共に視、わたしと共に聞き、わたしと共に感じ、わたしと共に考えていらっしゃる。いえ、というよりは、あなたがわたしを通して視、聞き、感じ、考えていらっしゃる。もう、わたしはわたしではなくあなたであり、あなたとなったわたしが至福の中で永遠の瞬間を生きているのです。もはや何ものによっても引き離されることのないわたしたちが、永遠と一つとなった瞬間の中を透明な風のように流れているのです。

―――礼奈、今やわたしはあなたと共にPLEROMAに優しく包まれているのを感じます。PLEROMAのまったき無の中に、PLEROMAのまったき調和の中に、PLEROMAのまったき安らぎの中に、PLEROMAのまったき愛の中に、PLEROMAのまったき永遠の中に、わたしはすっぽりと包まれているのを感じるのです。そして、気がついてみれば、わたしはこの世に生まれる以前も、この世に別れを告げてから後も、いつもこのPLEROMAのまったき安らぎの中に包まれているのでした。

―――礼奈、わたしはこの世のあらゆる本質に、あらゆる真実に、あらゆる善きものに、あらゆる美しきものに感謝します。そしてまた、この世に人として生を受けることができたことに、あなたという奇跡に出会えたことに、あなたの真実に近づき、その真実へと深まり、その真実に融け込むことができたことに感謝します。 
 礼奈、わたしは今ますますあなたへと融け込みながら、あなたと共にこの世のあらゆる本質がさらに美しく輝くようにと祈ります。                          
  礼奈、まことにこの世のあらゆる本質は全一的な無へと連なる無上の神秘であり、無上の愛、無上の歓び、無上の光、無上の交感、無上の対話、無上の美、無上の聖性、無上の知恵、無上の優しさ、無上の清らかさ、無上の安らぎ、無上の円環、無上の遊戯です。わたしたちが本質に包まれるとき、眼前には、すべてが自分自身であり、と同時に全的いのちである真実の法界(ほっかい)が拡がります。そして、全法界は浄らかなPLEROMAの無に帰しています。すなわちこの世の一切が無色透明な清浄エネルギーの発現であり輝きなのです。そこには唯の一つとして卑小に歪んだものがなく、全ては全一的完全性に充ちあふれています。

―――礼奈、わたしがあなたの光と水のPLEROMAに象徴される無境界の無窮無限へと飛躍し、それと一体となった時に、わたしは自分が境界のない無限そのものでありながらも同時にその無限の中の独自存在でもあり、そして、礼奈、あなたも又、その無限の中の独自存在に外ならず、それ故わたしは初めてあなたと真の対話を、本質的なダイアローグを交わすことができる窮極の自己に目覚めたのでした。それまでのわたしはずっと、唯単にあなたへのモノローグとして存在していたにすぎなかった。わたしは真の自己ではなく囚われの身であり、一つの幻覚の中に、一つの限られた夢の中に閉じ込められて存在していたのでした。わたしにはあなたしか見えず、あなただけの世界に酔い痴れたように没入し、あなたへの一方的なモノローグの中に自分の果てしないナルシズムを味わっていたのでした。わたしはいつまでも閉じ込められた世界の住人であり、そのことに何の疑いも抱かず、むしろそのことに無上の喜びをさえ覚えていたのです。しかし、わたしがあなたの無限に抱きとられた瞬間、わたしの閉じられた幻想的世界の(から)がはじけて、わたしもまた無限へと開かれ、その無限世界の中で独自に存在している真の自己に出会うことができたのでした。そしてその時同時に、礼奈、あなたをはじめ、わたしも、そのほかあらゆる人々、あらゆる生命あるもの、あらゆる物も、それぞれがそれぞれの次元で、全一的無限の中の独自存在であり主体に外ならないことに気づいたのです。

―――礼奈、この現実世界の無限多様性がそっくりそのまま「PLEROMA=空」に包摂され、又、この人間の心の獣性から仏心までの無限多様性の一切がそのまま「空心」に包摂されます。

 

 

 

 モンテヴェルディ作曲  『聖母のための夕べの祈り』

 

 コンチェルト――二人のセラピムが                   (イザヤ書六.三 / ヨハネの手紙十五、7〜8)

 

  Duo Seraphim clamabant alter ad alterum:

  sanctus Dominus Deus Sabaoth.

  Plena est omnis terra gloria eius.

  Tres sunt qui testimonium dant in coelo:

  Pater, Verbum et Spiritus Sanctus.

  Et hi tres unum sunt.

  Sanctus Dominus Deus Sabaoth.

  Plena est omnis terra gloria eius.

 

  ( 二人のセラピムが互いに呼びかわして言った。     
     聖なるかな主、万軍を統べたもう神よ。           
     その栄光は全地に満ち満ちている。               
     天において証するものが三つある。               
     それは父と、御言葉と、聖霊である。             
     そして、この三つのものは一致する。             
     聖なるかな主、万軍を統べたもう神よ。           
     その栄光は全地に満ち満ちている。 )      
                                             

 

         

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