――― 礼奈、この世の一切は、一切の根源であるPLEROMAの超越的エネルギーの自己展開なのですね。宇宙に拡がる無数の銀河も無数の星も、この地球に生きる無数の生命も、あらゆる人間の精神活動も、その他ありとある一切の現象はPLEROMAの超越的エネルギーの自己展開なのですね。そして一切はそのもとをたどれば一体であり、浄らかであり、完全なのですね。ですから、わたしたちも自分の心を自己中心性のない透明で清らかな状態に保てるなら、そのPLEROMAエネルギーと一体と成って、自ずからPLEROMAの完全性に連なることができるのですね。又、この世の一切がPLEROMAエネルギーの自己展開なのですから、わたしたちが純粋にそのPLEROMAエネルギーと一体である時、わたしたちはその時そのまま、この世のあらゆるものと、その本質において一体と成っているのですね。 礼奈、PLEROMAは存在の眼には完全性の遍満であり、まったき調和であり、まったき「一」であり、まったき真であり善であり美であり、まったき安らぎであり、まったき充実であり、まったき知恵であり愛であり歓びであり精神であり、まったき統合であり、まったき永遠であり超越なのです。
そして、礼奈、わたしはあなたと共に、この完全なPLEROMAと一つと成って、この生きている永遠の刻刻を爽やかに駆け抜けていきたいと希うのです。
―――礼奈、わたしは今、この心の無意識の奥底に透明に光りながら潜んでいた真実の自分にあいさつをおくります。長い間眠っていたわたしの奥底の本質の目覚めを迎えて、わたしはほんとうの自分に帰ります。無知と忘却と表面的陶酔の長い眠りから覚めたわたしは、永遠の無と寂静と完全性から成る本源の世界に帰り、その浄らかな渾一の原初的透明性と一体と成ります。しかし、いつまでもその透明性に安住することなく、ふたたびこの多様な色彩の入り乱れる現実世界に戻ってきます。しかし、戻りながらもこれまでのようにいたずらにその混乱に押し流されることなく、本源の世界と現実世界を超越的に統合する『真精神』に住して、それら二つの世界に清らかに対応します。わたしは現実的自己でありながら本源的自己であり、本源的自己でありながら現実的自己です。
そして、礼奈、あなたの『青い睡蓮』の世界は、やはりこのように現実的であると同時に本源的であり、本源的であると同時に現実的である全き統合世界ではないでしょうか。又、その統合世界を統べているものはあなたの内なる真精神に外ならなかったのではないでしょうか。
妙なる調べをはるかに超えるまったき静寂(しじま)
多彩な彩りをはるかに超えるまったき透明
真実の言葉をはるかに超えるまったき沈黙
無限の形体をはるかに超えるまったき渾一
無限の思いをはるかに超えるまったき無心
無限の存在をはるかに超えるまったき空無
無限の行為をはるかに超えるまったき無為
礼奈、これらのものはそれぞれ二つでありながら一つであり、一つでありながら二つです。そして、それらのものは人間の真精神において自覚的に統合され、その本来あるべき姿に帰るのです。存在の大海と原初の渾沌の水がその本質において一つになるのです。
―――礼奈、わたしたちは個人的、社会的生活のあらゆる場面において、自然と調和した全一的な生き方を、わたしたちの知恵の限りをつくして創り出していかねばなりません。そのために人はまず、宇宙140億年と地球46億年の物質的、生物的な歴史的変遷の中に正しく人間を位置付け直して人間の大自然に対する依存性を認識し、人間の分限をわきまえる必要があります。又、同時に、人間も地球も太陽もこの宇宙すらもまだ存在しなかった時の果てのことをも想い、もともと無であったところから今このように存在していることの不思議をも思い、自己自身を空しくしてひとたびは必ず自己の本質に帰らねばならないのです。
礼奈、考えてみれば、わたしたちのあらゆる活(はたら)きは、つまるところ浄らかな無へと引き上げられるのではないでしょうか。わたしたちのあらゆる行ない、あらゆる感情、あらゆる感覚、あらゆる思考、あらゆる祈りと希いは、結局わたしたちみんなの故郷(ふるさと)である浄らかな無すなわちPLEROMAへと回帰していくのではないでしょうか。
礼奈、わたしたち在りと在るもの、生きとし生けるものは、その始まりであるとともにその終りでもある浄らかな無へと精神を同調させて浄らかな無そのものとなって生きるとき、最上の実存を体験するのではないでしょうか。小さな我執の殻から解き放たれて無心となった実存は、『PLEROMA=宇宙=自己』へと融合して全一的な純粋体験者となるのではないでしょうか。
そして、礼奈、あなたの心は超越的無の完全性――PLEROMA――に住していらっしゃった。あなたの心は純粋で、無心の知恵と慈しみに満ちあふれ、この世に在りながらすでにこの世をはるかに超えたまったき無の高みに生きていらっしゃった。
―――礼奈、本来この上ない価値を持つ自然に対して、わたしたち人間は自己中心的都合に合わせて価値付けし、値段をつけます。さらには人間の労働も、挙句の果てに心さえもが商品化され手段化されて、今や手当たり次第に、無上の価値を持つ本質そのものが安っぽく濫用され汚されてその果てに廃棄物とされてしまいます。そんな中で生きる人間たちも、いつしか力と金に操作され飼いならされて自分本来の無上の価値を見失い、価値のない非本質的な儲け仕事に生命をすりへらし、つまらない気散じや享楽に大切な時間を空費して生涯を終えるのです。至上の本質存在が空しくつまらない存在へと堕落してしまっているのです。
礼奈、ほんとうに人はどれほど無雑作に、過ぎてしまえば二度と帰らぬこの一回限りの生命の永遠を過ごしていることでしょうか。祈りのない、真実のない、空しいときを過ごしていることでしょうか。
―――礼奈、あらゆる時と場所において全一的調和が実現されなければなりません。人間の聖なる生のエネルギーをそのためにこそ使わなければならないのです。本質的な価値を奪われてしまった大自然と人間社会にふたたび本質を回復し、又、われわれ一人一人が自らの本質を回復して清らかな永遠に生きなければならないのです。
―――礼奈、真実の眼によって視る時、この宇宙で生起するあらゆる現象は神秘に他なりません。現代科学はすでにこの宇宙の誕生や歴史的変遷や法則について多くの発見を重ねてきました。しかし、それにもかかわらずこの宇宙はどこまでも神秘的であり、人間の言葉や数式によって表すことのできるような平板なものではありません。極小の素粒子から極大の宇宙まで、一切は無窮の神秘そのものであり、人間の浅い思考などの金輪際届かない聖性の現われであり、それはどこまでも畏怖と畏敬と感謝の念とによって拝受されねばならない絶対の宝珠なのです。なぜ絶対の宝珠かといいますと、それなくしてはわたしたちの生命そのものが在り得ないからです。わたしたちの存在に関わる一切はそのまま絶対的宝珠なのです。
礼奈、私は感じます、この永遠の生命の窮めることのできない神秘を感じます。この宇宙の窮めることのできない神秘を、この銀河系の、この太陽系の、この地球の窮め尽くすことのできない神秘を、この水の惑星の40億年の生命の歴史の神秘を感じます。この自分の生命の、このようにあるそのあるがままの神秘を、この全一的な神秘を、その神秘中の神秘を感じます。そしてその神秘に感謝の祈りを捧げます。このように存在していることがすでに無上にすばらしいのです。そしてまた、この生命の本来の全一的真実の流れのままに清らかに生きていくことがこの上もなくうれしいのです。
礼奈、一切が精神によって真に統合されている時、わたしは深い神秘に包まれた至福に浸されます。
―――礼奈、わたしはあなたに永遠の感謝を捧げます。そして、あなたの『青い睡蓮』に永遠の感謝を捧げます。あなたとの出会いがなければわたしは今の認識に導かれることはなく、あなたの『青い睡蓮』がなければ今のわたしに到ることができなかったのですから。あなたとの出会いが縁となって、あなたと、あなたの本質の表現である睡蓮の絵をめぐる30年に及ぶ長いモノローグの果てに、あなたの真実に迫ることができたのでした。あなたはわたしの中でいつまでも十九才の姿のまま、わたしの心を照らし、導き、目的の地を指し示す灯火と成り続けられたのでした。
――― 礼奈、自分自身に対する誤った認識から、また自分と世界との関係に対する誤った認識から、この世の諸々の問題が生まれたのですね。そして、人類的な自己認識、すなわち人類と大自然との本質的関係の見損ないから現代の諸々の悪弊が生じたのですね。
しかし、この世のあらゆるものはもともと原初の浄らかな真空=PLEROMAから立ち現われたものであり、それ故この世の一切がほかの一切に関係しており、又大自然と人類と自己とは一体であり、全ては全一的連関と調和の中で生成し、変容し続けています。また、この自己=世界の一切を全一的に統合している自己の内なる真精神がこの命の窮極の主体であり、この主体もまたこの永遠の今とともに変容し続けており、この無なるPLEROMAの上に立ち現われているこの全一的かつ主体的生命は至高時に住しており、至高時に住していることはそれだけで十全であり、無限の感謝の対象であり、この上さらに利己的欲望に迷うことは永遠の罪であり、清らかな全一性をそのまま自己展開していくことが本来の在り方であり、永遠に叶う本質的な生き方なのですね。 まことに、礼奈、この世界の本質の正しい認識に基づいた正しい行動こそが真の自己の実現に外ならず、この宇宙の本源であるPLEROMAからこの自己に連なる正しいいのちの流れに沿って生きることが真実の生き方であり、無から生じたこの無上の生時に限りない感謝を捧げつつ、この無の上の永遠の今が生の至高時に外ならないことの気づきの中で、全てが全てに等しく、清らかに連関して転じていくことが永遠に叶う無上の幸福であることを、真精神において統合的に認識し、主体的に行動していくことが大切なのですね。
そして、礼奈、私が変わればわたしの関係している世界が変わります。一人が変わればその関係世界が変わるのです。ところでこの世界は一如であり、一切が一切に連関しています。それ故、わたしが変われば一切が変わり、一人が変わればやはりこの世の一切が変わっていきます。この永遠の今とともに一切が変容していきます。
―――礼奈、この世のあらゆるものは、この永遠の今とともに変容しています。この世のあらゆるものは永遠の今とともに創造的に転じています。PLEROMAの超越的エネルギーも、宇宙も、銀河も、太陽も、地球も、生き物たちも、もちろん人間も、その精神も、そのほかあらゆるものが全一的連関の中で、またそれぞれがその独自の本性に従って刻々と転じています。
礼奈、この世の全てのものは、この永遠の今へと刻々と全一統合的に立ち現われ続けています。あらゆるものは永遠の今から永遠の今へと生成し変化し続けています。一切万象は永遠から永遠へと全一的に変容し続けています。この後戻りすることのない生成の永遠の流れの中に一切万有は自らの本質のままに転じています。
―――礼奈、今ここに現前しているこのいのちの全的顕現そのものと成り切ること、それが、礼奈、あなたに融け込むことに外ならなかったのです。
礼奈、これこそがこの世のPLEROMA,永遠一如の真実世界の真の現前なのですね。
―――礼奈、あなたは精神としての光――睡蓮――と、自然としての水とを一体のものとして描かれることによって、結局は有機的に統合されたこの世の全一的な真実のいのちそのものを描かれたのでした。そして、さらに、この世的なものを超えて、画面全体を包み込む透明感によって、まったき無の本源へと、この世のいのちをお帰しになったのでした。
―――礼奈、あなたには「私」という思いがまったく無いのでした。それゆえ、私有という思いも、権利という思いも、生死という思いも、美醜という思いも、善悪という思いすらも無いのでした。あなたは浄らかな心で、永遠現在の現前世界を、ただ純粋に経験なさっているだけなのでした。
モンテヴェルディ『聖母マリアのための夕べの祈り』
「聖マリアによるソナタ」
Sancta Maria, ora pro nobis.
(聖マリアよ、われらのために祈りたまえ。)
―――礼奈、あなたは人生の花のさかりに、身も心も清らかなまま、永遠PLEROMAへとお帰りになられたのでした。
礼奈、あなたはどこまでも清らかな愛でした。そして、礼奈、あなたは祈りに外ならなかった。宇宙の祈り、いえ、PLEROMAの祈りに外ならなかった。清らかな完全性、原初の超越的な完全性の祈りに外ならなかった。一切の始原の完全性への永遠回帰の祈りに外ならなかった。いえ、より正確には、始まりのない過去から終りのない未来へと連なるこの永遠の全一的瞬間の完全性成就の祈りに外ならなかったのでした。
―――礼奈、わたしは夢見ます。いつの日にか人が真の精神性に目覚めて、もはや欲望のためにではなく本質のために生きる時が来るようになることを。人が大自然の本質と一体となって生き始めるようになり、ふたたび山々がその豊かな緑を回復することを、地球をへめぐる水がふたたびその清らかさを回復することを、大地もそれを包む大気もその汚れを清められることを、そして、本来の清らかさを取り戻した大自然とともに、心を清められた人々が穏やかで美しい調和の中で生活するようになることを。
―――礼奈、ほんとうにこの永遠の一瞬が全てなのですね。このPLEROMAなる全一的瞬間が全てなのですね。この世的な相対的なことの一切を超えた、この絶対的瞬間が全てなのですね。この清浄空、すなわちこの清らかな完全性が全てなのですね。
―――礼奈、あなたの絵は完全調和の地上的PLEROMA,清浄なる無の充溢、物質的自然と生命的自然と人間的精神とのまったき統合、そしてその全一的調和は祈りとなってこの精神性低き時代に滲透しなければならないのです。
そして、礼奈、わたしはあなたのその聖なる祈りと一つとなって、この命のつきるまで働き続けたいと希うのです。
―――礼奈、あなたの永遠の希いは、この世に生きる人々がそれぞれの精神の花を咲かせ、生きとし生けるものたちとのまったき調和の中に生きることなのでした。 いかなる不公平も搾取もない桃源郷、誰もどんな生き物もどんな物も搾取されたり浪費されたりすることなく、清らかに調和している世界、何ものもその全一的価値を引き下げられることなく、あらゆるものが本質的な平等と調和の中で生き生きと活動している世界、全ての人が欲望の長い夢からさめて全一的な意識を養い、全ての人や生き物や自然を自分自身のように感じながら、慈しみと知恵に満ちて生きる世界、そんな世界に生きることなのでした。
礼奈、それでは現実世界に全一調和世界を実現するためにわたしたちはどのようにはたらきかければいいのでしょうか。本質豊かな無限の多様性そのままに、清らかな自然そのままに、精神性豊かな世界を実現するためにわたしたちはどうすればいいのでしょうか。エゴイズムと物質主義と享楽主義と競争主義と拝金主義の渦巻く現代世界にいったいどう働きかければいいのでしょうか。祈りを込め思いを込めて一人一人の人の心に呼びかけることによって、あらゆる時と場面において、さまざまな本質的方法と手段を用いて、一人一人の精神を全一的本質へと開花させていくことによってそれは為されなければなりません。
そして、やがて人の心が変わり、社会のシステムが変わり、教育が変わり、生活環境が変わり、人と人との関係が変わり、人と自然との関係が変わり、それらの全てが相互に影響し合いながら、本質的で清らかな循環をもたらす因子となって関係し合う永遠の桃源郷へと近づいていく。そして、それはやがて、無限の祈りと、無限の学びと、無限の活動の果てに、永遠の真っただ中に現前する......
―――礼奈、あなたへの長い長い夢から今ようやく醒め、長い夢路の果ての平常の意識に戻って思い返してみれば、礼奈、あなたは睡蓮の花を唯無心に描いていらっしゃるばかりなのでした。それをわたしはいたずらに聖性の幻影で包み込んでみたり、精神の厚い膜でおおってみたりしたのでした。しかし、あなたは、眼前に唯無心に咲いている睡蓮の花を、やはり唯無心に描いていらっしゃっただけなのでした。
礼奈、あなたと睡蓮は、どこまでもどこまでも浄らかな無の風光なのでした。
そして、礼奈、わたしが長い夢から醒めて、この平明な真実世界においてあなたと完全に一つと成る時、あなたはもはや存在せず、わたしもまた存在せず、唯無心のPLEROMAのみが、永遠の寂けさの中で輝き始めるのです。
モンテヴェルディ『聖母マリアのための夕べの祈り』
「マニフィカト」
12. 初めにあったように
Sicut
erat in principio
et nunc, et semper,
et
in saecula seaculorum.
Amen.
( 初めにあったように、
今もいつも、
世々とこしえまで。
アーメン。)