ロータス200年7月4日の夕暮時、JP−136地区の山本さん宅のリビングで、セレステさんのピアノ演奏をモニターを通して聴きながら、山本さん父娘と語り合って過ごすこの時間は、これまで生きてきたわたしの三十年の人生の中でもかつて味わった事のない、精神的な幸福感に満ち満ちたものだった。素晴らしい知恵と優しい心に溢れた、それでいながらいざとなればもっとも大切なもののために自分の命を投げ出す覚悟のある人々によって成り立っている、物質的・身分的平等が保障され、精神的・本質的自由を楽しむ事のできる社会が現実に眼の前にある…。
最初から永遠本質に基づいた人類全員の自由平等を目指した地球社会がここにある…
それは、わたしがこれまで生きてきた社会の現実からは想像すらできないような理想郷であった。できることなら目の前のこの世界から、かつて居た世界へ二度と戻りたくないと思った。これが夢ならいつまでも醒めてほしくないと切に願った。わたしもこの地区の住人の一人になっていつまでも山本さんたちと共に親しく生活していきたいと祈った。わたしもピアノを習ってセレステさんのようにバッハの平均率が弾けるようになりたいと思った。わたしも美沙さんと一緒に地区改善員の仕事がしたいと心底思った。私も理沙ちゃんのようにいろいろな生き物たちと一体化してみたかった。そして、純粋で自然で精神的な一生を送りたいと思った。
「小山さん、なに考えてるの?」
「あ、いや、なに、なんにも…。 なんだか、あんまり皆さんが親切で善い人たちなので、そしてあんまり素晴らしいピアノ演奏なので、そしてあんまり素晴らしい世界なんで、なんだかボーッとしてしまって…」
「ふふふ、変なの。」
「もう、正直なところ、昔の西暦2003年の世界には戻りたくないですね。いつまでもこの世界にいたいです。人間として生まれてきた以上、人間に相応しい最高の生き方を求めるのは人間として当然の願いでしょう。それがこの世界では叶えられ、昔の世界では叶えられないということが口惜しいんです。」
「小山さん、この地区に引っ越してくればいいじゃない。委員会に申請を出してこの近くの空き家に住めばいいじゃない。そうすればいつでもわたしたちと会えるから。小山さんが分からないことわたしがなんでも教えてあげるわよ。庭の手入れの仕方や、この地域の決まりやその外なんだって教えてあげるわよ。わたしがわからないことはお姉ちゃんやお父さんに教えてもらえばいいじゃない。ねえ、そうしなさいよ、そうすれば理沙も嬉しいし…」
「ありがとう。理沙ちゃん。ほんとにそうしたいなあ。」
「そうしなさい、ねえ、きっとそうしなさい、小山さん。」
「そうなれば、わたしたちも嬉しいですわ。」
「美沙さんも、どうも、ありがとう。」
「そうですね、まあ、明日も、もっといろんなことを聞いたりいろんなところを見たりして、それで気に入っていただければ、それもまたいいでしょうね。」
「はい、明日もいろいろ拝見させていただきます。そうすればきっと、ますますこの地区が好きになってしまうでしょうね。」
「ホントにそうなればいいな。うん、きっとそうなるわ。」
「ところで、山本さん、なぜこの世界はロータス暦なのでしょうか。そのことに何か特別な理由でもあるんでしょうか。もしあればぜひ教えてください。」
「そうですね、ロータス暦には象徴的な意味が込められているんですよ。ロータスはこの現実世界と永遠の真実世界を結びつける聖なる花なんです。そしてそのようなロータスは永遠そのものを表しているといってもいいのです。永遠は、真実世界の真のあり方であり、それは完全な、すなわち何一つ欠ける事のない全一的な真実世界の相(すがた)なのです。永遠には本質が充満しており、いかなる部分的な偏りもありません。そんな世界に生きているということの象徴としてロータス暦が使われているのです。西暦時代に生きていた人たちは、部分的個人的な人間的時間の中に生きていたのですが、わたしたちは今、全一的普遍的な永遠そのものの中に生きているんです。永遠そのものの中には時間というものがありません。ですから、ロータス200年という言い方には矛盾があるのですが、まだわたしたちは人間的な時間概念を引きずって生きているので今は仕方がないのです。しかし、いつの日にか完全に時間概念を払拭した日には、暦そのものがなくなり、歴史というものもなくなってしまうでしょう。それほどまでに人間の意識が精神化し完全なものになるにはまだ何千年何万年とかかるかもしれませんね。しかし、今もうすでにわたしたちの多くは、永遠感覚の中に生きています。永遠観ないしは永遠視座から、この世界全体と自分自身を一体的に見ているのです。もはや、普遍的な全体観がわたしたちの日常的なものの見方となっていて、個人的部分的なものの見方、すなわち、過去現在未来に分かれた時間的な見方や死によって区切られた人生といった見方もいたしません。全ては永遠の中では一体であり、ただ、時間や生死を超えた全一的な変化だけがあるのであって、その永遠の変化そのものと一つに融けあって生きていくことだけが真の生き方であると考えているのです。それをある人は永遠即如の実存と言い、またある人は絶対実存と呼んでいます。」
「永遠ですか…、絶対実存ですか…」
「永遠であり全一的な絶対世界なのです。」
「そのようなことはこれまで一度も考えたことがありません。」
「西暦時代に住んでいる人では無理もありません、その時代で永遠を生きていた人はごくわずかなのですからね。それも非常に初歩的で中途半端な永遠を生きていたに過ぎないのです。ロータス暦に入ってからも、本当に永遠感覚が一般化し、深まってきたのはここ数十年のことに過ぎないのですよ。しかし、今では相当レベルの高い永遠感覚を生きる人が増えてきました。また、人は競って自己の永遠視座を高めようと精進しています。それでますます社会全体として永遠観が浸透し、深まっているのです。正しい環境がととのえば、人々の正しい意識と正しい生き方もととのってくるのですから。」
「技術的な進歩だけじゃなくて、精神的な向上も著しいのですね。」
「もちろん、まだまだ完全性からは程遠いのですが、それでも本質的な正しい方向に着実に向上しているものとわたしたちは信じています。」
「本当に、聞けば聞くほど感心させられます。本当に生きているって素晴らしいことなんですね。」
「本当にそうですわ、小山さん。生きていることは素晴らしいことですわ。」
「わたしもその永遠感覚を味わえるようになれるものでしょうか?」
「もちろんですとも。もともとだれにでも生まれつき永遠感覚が備わっているのですから、ただそれを引き出してやるだけでいいんです。すぐにそのコツが飲み込めるようになりますから、何の心配も要りません。しばらくこちらに滞在しているうちに自然と味わえるようになりますよ。」
「そうでしょうか。それなら嬉しいのですが。」
「小山さんなら大丈夫よ。理沙が太鼓判を押してあげる。」
「理沙ちゃんはまったく心強い味方だなあ。ほんとに助かるよ。」
「うふふ。」
わたしはこれまでまったく知らなかった新しい世界が次々と眼の前に開かれていくことに本当に圧倒されていた。そしてこれまで生きてきた世界だけが世界だと思っていた自分の愚かさ加減に腹が立った。今ではこれまで生きてきた世界が本当につまらない欠陥だらけの偽りの世界だと思われてきた。そしてそんな世界に生きている人間の不幸を哀れんだ。人間は社会システムと意識のあり方次第で全ての人がもっとずっと幸せに暮らせるのだと思うと腹立たしかった。一体誰がこのような利己主義と偽善に満ちた世界を作り出したのか自分なりにその原因を追究してあらゆる人の前にそれをあばいてやりたいと思った。そうしないではいられないような気持ちだった。何者かに騙され思うように操られている自分自身に対してと同時に同じように騙され操られている社会全体に対しても腹立たしい思いがした。自然と人間を搾取する社会システムの中に、これまで何も知らずに生きてきたことを一人の人間としてまったく不甲斐ないと思った。しかし、そう思いながらも、今はもっとこのロータス世界について知りたいと考えさらに訊ねた。
「山本さん、実際に永遠感覚というのはどのようなものなのでしょうか。どのような心の状態になるものなのでしょうか。」
「そうですね、永遠感覚というのは、自分が世界そのものと一体化してしまう感覚なんですけれども、世界そのものは永遠無限でどこまでも人間の認識の手に届かない神秘的なものですから、イメージ的には自分も世界そのもののように無限大になり、心は透明に無心の状態になり、時間的には過去も未来もなくなってただ一体的に展開している現前の今だけがあり、恐怖心もなければ幸福感もなく、あるのはただ純粋な生命の充実感だけといったような状態とでもいいましょうか。まあ、実際のところ永遠感覚は言葉で表現できるようなものではないので、おおよその感じをお話するだけなのですが、いずれにせよ、精神的に世界と自己とが完全に一体化し統合された状態を生きているということは確かだと思います。そのとき、人は利己的になるかというとそうではなく、偏執的な自己中心性は消え失せて、全一調和的な直感世界に生きるようになります。それはそのまま宇宙万象の本質的な姿であり、生きとし生けるものたちの本来の姿でもあります。いわば、永遠感覚は人間本来の本質的な姿なのです。永遠感覚において、わたしたちはこれまでそれから離脱してしまっていた人間本来の本質状態に帰ることになるのです。ただし、人間の本質状態は、他の動物たちのような純粋な生命世界に、新たに人間の本質的属性である精神機能が加わった世界なので、それは精神的本質状態とでも名付けたいようなものなのです。ですからそれはエゴイズムの浄化された、純粋な精神的生命世界に生きているとでも言えるでしょうか。まあ、おおよそそのような状態だと思います。小山さんも、そのうちぜひ一度ご自分で体験なさってみて下さい。そうすればわたしが今説明している事もお分かりいただけると思いますから。」
「ええ、はい、ぜひそうしたいものですね。」
「まあ、また、これだけは言えると思います。つまり、永遠感覚には、あらゆる部分的偏りがないということです。永遠感覚は無限に向かって開かれていて、個人的なエゴも、地域的なエゴも、民族的なエゴも、宗教的なエゴも、人種的なエゴも、国家的なエゴも、人類的なエゴもないということです。全てが一体であり、公平であり、本質的・全一連関的に自由だということです。ですから、永遠感覚はこのロータス世界の基盤ともなっている本質的全一的世界観の日常的なあり方でもあるということです。」
「なるほど、永遠感覚の持っている個人的ないし社会的な意味のようなものが少し理解できたような気がします。」
「わたしたちはあらゆる形の部分思考の呪縛を超えて、全一思考による全一調和世界の構築を究極的目標の一つとしているのです。そのためにも永遠感覚をより一層人々の間に広め、浸透させていくことが大切なことだと考えています。」
わたしは山本さんの話に頷き返しながら、モニターの中のセレステさんを眺めていた。十年前のセレステさんが少しも気負いのない自然な動きの中で、バッハの深い精神的な音の世界をわたしたちに伝えてくれる。わたしはしばらくそのままその音の世界に浸っていた。しかしそのうち唐突に登校拒否の問題が頭に浮かんできた。
「ああ、そうだ、ところで理沙ちゃん、今中学校で登校拒否の子は何人ぐらいいるのかな。」
「ええ、何、それ。」
「登校拒否、それとも引きこもりの子といった方がいいかな。」
「理沙それ何のことか分からないわ。」
「小山さん、こちらでは登校拒否児童は一人もいませんわ。引きこもりの子供も大人もいません。昔はそのような問題が日本にあったようですけど、今はまったくそのような問題はないのです。みんな楽しく学校で学んでいます。家庭でも学校でも職場でも、誰も、人をいじめたり、暴力を振るったりいたしませんし、リストラもなければ出世競争のようなこともないのです。みんながお互いに助け合いながら勉強したり子育てしたり仕事をしたりしていますから、登校拒否や引きこもりや家庭内暴力や党派争いや根拠のないうわさを流したりや中傷し合ったりということがないのです。」
「そうでしたか。そうでしょうね、まったくわたしももうそろそろ、今の社会と昔の社会の状況の違いを認識して、そのことに思い至ってもいい頃ですよね。しかし、なにしろわたしの生きている社会ではそのような問題がいつまでも続いていていつ終わるとも知れないのですから、ついついこのロータス社会にもそのような問題があるのではないかと思ってしまうのです。まあ、それほどにもわたしたちの生きている社会が愚かしく不完全だということなのですが…。
それにしてもそのような社会に住んでいることは人間として悲しいことですし、情けないことです。」
「そうですね、まったく昔の世界は、王侯貴族や大地主や大資本家などを頂点とした強欲で利己的で反本質的な階層を頂点として、巧みに国家や軍隊を利用し、あるいは金の力や脅しや情報操作などさまざまな手段を駆使して、善良な庶民を騙して戦争を頂点としたあらゆる種類の害毒を直接的間接的に世界中に撒き散らしていましたが、そして、登校拒否や引きこもりの問題などもその派生的な問題の一つともいえるのですが、今ではそのようなこともなく、みんな絶対的平等の中で本質的な自由を楽しんでいるのです。もはやどこにも帝国主義的な反本質的社会を生み出す勢力も主義主張もないんです。女性に対する男の横暴もありません。いかなる差別もありません。そのような愚劣な精神性は徹底的にこの地球社会から駆逐されてしまいました。今は、愚かしい武器を作る人間もいなければ騙されたり強制されたりしてそれを使う人間もいません。また、お金のために愚かしい製品を作る人間もそれを買う人間もいませんし、愚かしい遊びに現を抜かす人間もいないのです。もう、地球社会は本質的なことを中心として統合されているのです。アフリカですら今はその社会状態が大きく改善されました。何千年にもわたる人類史の、自己中心的で反本質的な悪の連鎖はことごとく断ち切られてしまったのです。全一調和に反する世界中のあらゆる勢力は駆逐されてしまったのです。」
「ええ、そうでしたね。本当にそうなんですねえ。そして今は多くの人が永遠感覚を生きているんですねえ。もう、つまらないことに貴重な人生の時間を浪費することもなく、真に本質的なことに打ち込んでいらっしゃるんですねえ。」
「はい、その通りなのです、小山さん。」