LOTUS 200-10

 

 

 

本質が輝いている世界、本質を最優先(さいゆうせん)する世界、自己中心的な()のスパイラルが寸断(すんだん)されてしまった世界、永遠感覚にあふれた世界、一人の悦びがみんなの悦びとなる世界、生きとし生けるものたちが協奏(きょうそう)しあう世界、本質的生産と分配のシステムが確立した世界、本質的自由と平等が保障された世界。わたしがつい数時間前まで生きていた、自分勝手な欲望の自由を生きる西暦世界と比較するとき、このような永遠本質に(あふ)れたロータス世界に生きていることが一人一人の人生をどれほど違ったものにするか容易に想像できた。(ゆが)みのない円満な、精神的光に満ちあふれた永遠がこの世界にはあった。そしてその時ふとわたしは、このロータス世界と対比するように、いつも通勤している渋谷の駅前の様子を思い浮かべていた。また、時々用事や買い物で足を伸ばす新宿や池袋、それから町田や川崎の駅前の様子を思い浮かべた。そして(ひし)めき合うコンクリートビルと欲望の自由を生きる人々によって()り成されるその(きら)びやかさと猥雑(わいざつ)さの(こん)(こう)した情景に、これまで感じたことがないほどの激しい嫌悪感を覚えた。そしてこのロータス世界に生きる人たちが考えているように、わたしたちの生きているこの地球世界が本来いつも永遠の中にあるのだとしたら、渋谷や新宿や池袋や町田や川崎の駅前の情景は、(いびつ)にねじけた永遠であり、汚濁(おだく)にまみれた永遠であり、そのあまりの醜悪さに思わずうめき声を上げてしまうような永遠であった。同じ永遠でも、それは本来の浄らかで伸びやかな永遠ではなかった。本質に満ち溢れ、悦びにはじける永遠ではなかった。そこには、享楽(きょうらく)退廃(たいはい)(むしば)まれた心、淫靡(いんび)な欲望と暗いエゴイズムの蔓延(はびこ)るにまかせた心が渦巻く、(しゅう)(かい)きわまる永遠が(うごめ)いているのだった。わたしは脳裏(のうり)に浮かぶ欲望の自由を生きている西暦世界の人間の醜さに思わず心の目を(そむ)けた。そしてコンクリートビルと欲望に眼の(くら)んだ人間とで織り成される、そのおぞましい現代的都会の情景を脳裏から振り払おうとして思わず、頭をわずかに、しかし激しく左右に振っていた。

「どうしたの、小山さん?」

「あ? うん、いや、なんでもないんだ。 そうだ、理沙ちゃん、さきほどお父さんが言ってらっしゃったけど、理沙ちゃんは小さい頃から花や鳥や蝶が次から次へと好きになっていったんだってね、どうしてそんなに花や鳥や蝶が好きになったのかな?」

「だって、お花も鳥も蝶もみんな嬉しそうに咲いてたり飛んでいたりするんだもの。それを眺めていると、お花や鳥や蝶が悦んでいる気持ちが理沙にも伝わってきてとっても楽しくなってくるんだもん。それで好きになったのよ、きっと。」

「花が嬉しそうにしているのかい?」

「ええ、とっても!」

「鳥も蝶もかい?」

「ええ、そうよ。」

「ふーん、そうなんだ。理沙ちゃんには花や鳥や蝶の気持ちが分かるんだ。」

「小山さんには分からないの?」

「うん、あんまり良く分からないなあ。まあ、だけど、理沙ちゃんにそう言われると、なるほど、そうかも知れないな、という気もするけどね。」

「ふーん、あんまりお花の気持ちが分からないんだ。」

「うん、これまで仕事に追われていて毎日が忙しくて、そんなこと考える(ひま)がなかったからね。」

「小山さん、可哀そう。」

「………」

「小山さん、あんまり幸せじゃないみたい。きっと、今住んでいるところ小山さんに合わないのよ。やっぱりこっちに引っ越してきてわたしたちと一緒(いっしょ)に住んでもっと幸せにならなくっちゃいけないわ。」

「うん、そうかもしれないね。」

「そうよ、そうに決まってるわ。人はみんな幸せに暮らさなくっちゃいけないのよ!」

「うん、そうだね、ほんとにそうだね。」

「小山さんが不幸せだなんてわたし耐えられない。」

「ありがと、理沙ちゃん。」

「ほんとよ、小山さん!」

「分かっています、理沙ちゃんの気持ちは。」

「それならいいけど…」

「わたくしも、小山さんにはきっと幸せになっていただきたいですわ。」

「ありがとうございます、美沙さん。」

「人は誰も、不幸な生活から多くの(わざわ)いを呼び込んでしまうものですから…。それに、いつの世でも不幸な生活から多くの悲劇や犯罪が生まれてしまいますから、より良い社会のためにも、一つの小さな不幸もあってはいけないんですわ。」

「なるほど、不幸は個人的にも社会的にもあってはならないものなんですね。」

「はい、わたくしたちはそう考えています。」

「不幸は個人的にも社会的にもより大きな不幸を引き寄せるものですからね、小山さん。」

「ああ、なるほど…。 そうですね、この一つながりの世界では幸福は幸福を呼び、不幸は不幸を呼び合うものなんですね。」 そう言いながら、わたしは不幸と犯罪とエゴイズムに満ち(あふ)れた西暦世界を思って情けなくなってきた。

 

「小山さん、わたし大きくなって結婚したら、蝶や鳥の喜ぶお花や木をいっぱい植えて蝶々や鳥たちの飛び交う、お花でいっぱいの庭を造りたいの。お父さんはトンボが好きだからここのお庭はトンボのお庭になっているけど、わたしはチョウチョのお庭を造りたいの。蝶々の幼虫が食べる草木を植えて、蝶々が吸う(みつ)の花もたくさん植えるの。キャベツを植え、カラタチの生垣を作り、菜の花やアリウムやヒャクニチソウやブッドレアなども植えて、春から秋にかけて毎日チョウチョが舞い、鳥が集まるお庭を作るの。モンシロチョウやモンキチョウ、しじみ蝶やアゲハチョウがたくさん舞うお庭を作るの。」

「それは素晴らしいね。この町は、トンボや蝶や鳥やお花で一杯になるね。」

「ええ、町中がトンボや蝶や鳥で一杯の花園になるわ。いえ、もう、花園よ、ここは。」

「そうだね、ほんとに緑と花の多い町だからね。」

「わたしほんとにこの町が好き。」

「この町の住人はみんなこの町が大好きなんですよ、小山さん。」

「まったく信じられない世界ですね、このロータス世界は…」

「そうでしょうか。わたくしたちには当たり前のことなんですけど…。」

「まあ、西暦の時代から比べると今はほんとうにいい時代になったからね。小山さんが信じられないとお感じになるのも無理はないことかもしれません。わたしたちはこのロータス時代に生まれてきたことを感謝しなければなりませんね。それから、理沙、結婚してからなんて言わないで、これからすぐにでもこの庭のキャベツ畑の近くにチョウチョの好きな草や花を植えればいいさ。今年は無理でもきっと来年からはもっと多くのチョウチョがこの庭に住み着くようになるよ。」

「ホントー、お父さん!それじゃ、これからキャベツ畑の近くはわたしの蝶のお庭にするからね。嬉しいな。ありがとう、お父さん。」

「理沙ちゃん、よかったね。」

「ありがとう、小山さん。わたしホントに嬉しい。」

「もっと早く気が付いていればよかったね、理沙の蝶の庭作りのこと…。 自分のトンボやめだかのことしか考えていなくて悪かったな、理沙。」

「ううん、いいのよ、お父さん、わたしホントに嬉しい。今はキャベツ畑にモンシロチョウやしじみ蝶なんかしかいないけど、来年からはアゲハチョウやなんかもたくさんいるようになるわ。今から楽しみだな。いろんな蝶が花から花へ蜜を求めて舞う様子を見ているとホントに幸せになる。花も蝶も鳥もみんな大喜びよ!」

純粋で自然で、それでいて精神的なことにも明るく、お互いが思いやりに(あふ)れて幸せに生きている人々の世界がここにはある。皮肉(ひにく)にも本質以外のものなら何でもあった西暦世界の、混乱と欲望と不幸にまみれた時代からは想像もつかない世界がここにはある。利己的欲望に閉じ込められた世界ではなく、永遠に向かって開かれた心と、永遠に向かって開かれた(せい)なる世界がここにはある。

 

「ところで、山本さん、ここには出版関係の仕事はあるでしょうか。」

「出版?ですか。今は紙に印刷するということはなくなりましたので、出版の仕事はありません。いろいろな芸術作品も全てテレポーターを通して個人的に世界に向かって発信しますから…。どうしてですか。」

「いえ、わたしの今の職場が小さな出版会社なので、もしこちらに引っ越してくるようなことになれば、それを生かす仕事があるかどうか気になったものですから。」

「お仕事の心配はご無用ですわ、小山さん。こちらにはあらゆる種類の公務がありますから、その中から自分ができる事を選んで登録して働けばいいんですわ。」

「小山さん、出版って何? 小山さん何の仕事してるの?」

「うん、いろんな本や雑誌を出している会社で編集(へんしゅう)の仕事をしているんだ。間違った表現や不適切(ふてきせつ)な言葉が使われていないかどうか原稿をチェックしたり、ゲラ()りを校正(こうせい)したり、写真の(いろ)校正(こうせい)をしたりその他本や雑誌を出版するために必要なあらゆる仕事をしているんだよ。小さな会社だから何でもしなくっちゃいけないんだ…。」

「理沙、ちっとも解んない!」

「うん、解りにくいだろうね、理沙ちゃんには。」

「どんな種類の雑誌や本を出していらっしゃるんですか。」

「はい、花のランや盆栽(ぼんさい)の本や、さまざまな仏教の本や、有機農業の月刊雑誌や、その他頼まれればなんでも作ります、他の中堅(ちゅうけん)どころの出版社の下請(したう)けもやっていますから…。つい先日は仏教の戒名(かいみょう)の本を出したばかりなんですよ。ところで、ここでもお亡くなりになった方には戒名をお付けになるんですか?」

「いえ、今はほとんど戒名をつけません。生前の名前が生死を超えて永遠の名前として使われています。」

「では、お葬式(そうしき)もないのでしょうか?」

「いえ、お葬式はいたします。ただ、今は昔ほど墓地を持っている人は多くありません。ほとんどの人が川や海での散骨(さんこつ)を希望しますから。しかし墓地に葬られたいと希望する人には地区で管理している墓苑(ぼえん)に1平米の墓地が用意されます。しかし、それもそれを守る子孫がこの地区に生活している人に限られます。墓を守る子孫がいなくなればそれも共同納骨所(のうこつじょ)に移されます。」

「そうですか。亡くなった人に対する考え方も変わったのですね。」

「そのうちに、あの世とこの世との区別もなくなってくるのかもしれませんね。亡くなった人も生きている人もいつも一緒に生活しているような、全てが永遠の中で一つに融け合っているような、そんな世界になるのかも…。」

「ああ、なるほど、そうかもしれませんね。」

「みんながまったく差別のない一つの全き永遠世界に生きられるようになれば一番いいんですがねえ。」

「そんな時代がいつか来るでしょうか。」

「きっと来ますわ、わたくし信じています。」

「そうでしょうか。」

「わたくしたちの多くは全き永遠世界の到来(とうらい)を信じているんですよ。いえ、というよりは、わたくしたちはすでに全き永遠世界に生きているのだとすら信じているのですよ、小山さん。」

「そうなんですか、それじゃ、きっと来るんでしょうね、そんな時代がいつか。そしてその時人類はふたたびエデンの園に、それも最高の知恵といっしょに戻るのですね。純粋性と自然性だけではなく、その上に精神的な知恵を身につけて(いにしえ)のすべてが調和していた理想郷に帰るんですね。」

「そうですね、そうなればいいですね。」

「すばらしいことですね、ほんとにそれは。」

 

わたしはこのロータス世界がこれからもますます精神的に成長し続けていくに違いないと思った。科学技術だけではなく、いや、科学技術以上に精神性が高まり、人々の心がより一層深まり豊かになっていく。そして、ますます真実世界の本質そのものに近づいていき、それと一体化していく。それは、わたしが今は想像することもできないような世界に違いないと思われた。そして、夢の中でもいいからそのような世界に一度住んでみたいと思った。今まで生きていた西暦世界の状態が、人間的な心の(こわ)れてしまったようなおぞましい世界と見えてくればくるほどその思いは強くなるのだった。

 

「小山さん、わたくしたちの多くは今すでに永遠世界に生きているように感じているのですけど、そうするとなんだか、『無のかなたへの祈り』ではなく『無のかなたからの祈り』を日常的に生きているようにも感じているのですよ。昔の人が無のかなたへの祈りとともに生きていこうと呼びかけたその祈りの多くが現実生活においてすでに実現され、そうするといまはその祈りを超えて、無のかなたなる(しん)実在(じつざい)永遠(えいえん)本質(ほんしつ)と一体化した、精神の眼からこの世の人生を眺め返して、その眼に自ずから(うつ)し出されてくるこの世のあるべき姿や有りようを自分の人生において実現したいという、まさに(ぎゃく)()きの祈りを生きているように感じているのです。わたしたちは無のかなたからの祈りを通して、この世において、昔の人たちが望んだように自己を実現するのではなく、自分を超えた永遠そのものの本質を自分の生命を通して実現していきたいと願っているのです。自己実現というのではなく本質実現(・・・・)を、あるいは自己の本質の実現ではなく永遠そのものの本質の実現を自分の心身を通して日常的に生きていきたいと祈っているのです。」

「本質実現ですか....無のかなたからの祈りですか。なんだか余りに高遠(こうえん)すぎて、今のわたしにはよく理解できないですね。」

「小山さん、わたしだってお姉ちゃんの言うことはあんまり理解できないのよ。分からなくっても気にすることないわよ。」

「あら、ごめんなさい、わたくしまだ自分の思っていることを人に分かり(やす)く説明ができなくって。まだまだ駄目ですねえ、わたくし。」

「いえいえ、こちらこそすみません。わたしの理解が浅いのでなかなか美沙さんのお話についていけなくて。」

「まあ、あんまり精神的な世界の話に深入りし過ぎるときりがなくなってしまいますから、今はほどほどに切り上げましょうか。なんといっても精神世界は真実世界そのものと同じくらい広大(こうだい)無辺(むへん)ですからねえ。」

 

わたしは美沙さんの話を聞きながらふと、自分がまだ、人間にのみ許されたその永遠の精神世界へと開かれた扉の前にすら立っていないのだといったような淋しい感覚に襲われていた。しかし、考えてみればそれも無理からぬことだった。わたしと美沙さんとの間を、精神の世紀と呼ばれている21世紀あるいはロータス1世紀が、さらにはそれに続くロータス2世紀の、都合200年以上にわたる人類史的な精神的(せいしんてき)変革期(へんかくき)(へだ)てていたのだから。そしてまた、まだ二十歳とはいえ、美沙さんは将来の公務に備えて、大学でいわば専門的にこの世界の本質について、そしてまた人間の精神的本質について学び、日々それを深めているのであってみればなおさらであった。

 

 

 

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