そのとき、モニターの中のセレステさんが、ショパンとメシアンの小品を弾き終えて、いよいよ『平均率クラヴィーア曲集 第一巻』、前奏曲とフーガの第一番から第二十四番までの演奏に取り掛かろうとしているところだった。誰からということもなく、わたしたちは皆いったん話を切り上げて、その演奏のはじまりに注意を向けていた。わたしはといえば、先ほど聴いた美沙さんの演奏を脳裏に呼び起こしながらその演奏の始まるのを待っていた。
やがてピアノの鍵盤をたたくセレステさんの指先から立ち上がってきた第一番の前奏曲のリズムと調べが室内に響き始めた。しばらく聴いているうちに、わたしは先ほどの美沙さんの演奏とどこか共通する音楽的性質(たち)を感じていた。その思いはやがて次のような言葉になって表れた。
「やはり血のつながりというようなものが音楽にも現れるものなんでしょうか、先ほどの美沙さんの演奏と非常に良く似た音楽的感性を感じます。とてもピュアで、とてもナチュラルで、とてもスピリチュアルな演奏ですね。本当にいつまで聴いていても飽きのこない、心に優しい演奏ですね。本当に良いものはやはりいいですね。」
「小山さん、今の言葉、妻が聞いたらきっと喜ぶと思います。小山さんは意識されていないかもしれませんが、今おっしゃったことはわたしたちにとって最高のほめ言葉なのです。つまり、純粋で自然で精神的ということは、本質を最高の価値として生きているわたしたちにとって、永遠の努力目標であり、永遠の祈りであり願いなのです。わたしたち人間にとって、この世界の本質は、さまざまな物質やいろいろな生き物や人間の子供たちのように純粋で自然であり、また、本質的に成熟した人間のように精神的なものなのです。いえ、もっと正確に言えば、わたしたちはこの世のあらゆるものの中に、自己中心的な汚れの無い純粋性と、作為的でない自然性と、全一統合的な精神性を観じるのです。一つ一つの素粒子の中にも、原子の中にも、分子の中にも、また、この地球上に生きているあらゆる生き物たちの一つ一つの細胞の中にも、器官の中にも、個体の中にも、もちろん一人一人の人間の中にも、すなわちこの世のあらゆるものの中に純粋性と自然性と精神性を観じています。ですから、わたしたちは、いつも、あらゆるものの本質的性質である、ピュアでナチュラルでスピリチュアルなあり方を生活の理想としているのです。何をしている時でもそのように生きることができるようにと工夫しています。そしてそのような工夫の中にまた生きる悦びも楽しみも幸せもあると考えているのです。」
わたしは自分の言葉に対する山本さんの思いも掛けない反応に少なからず驚きながらも、その言葉が図らずもセレステさんの演奏に対する最高のほめ言葉になっていると知って嬉しかった。そしてそれが同時に美沙さんの演奏に対しても間接的に最高のほめ言葉になっていたことがさらに嬉しかった。
「小山さん、今わたしが言ったことは、これらの絵の中にも象徴的に表現されているんですよ。」 と言って、山本さんは、部屋に飾ってある例のレオナルド=ダビンチの
『 モナ・リザ 』 とパウル=クレーの 『 アド・パルナッスム 』 を指差した。
「このレオナルドの絵は、自然と人間とが相互に切り離しがたく一体的に照応していることを、また、こちらのクレーの絵は、人間精神の神秘的な諧調を描いているとわたしたちは考えているので、多くの人たちがこれらの絵を家に飾っています。日常生活の中でこれらをいつも目にすることによって、わたしたちは自然の純粋性と作為的でない自然性と、わたしたち人間に特に豊かに恵まれている精神性の全一統合的な諧調をつねに思い起こすようにとの願いからなのです。そして、わたしたちは日常の生活の中でそのような純粋性と自然性と精神性を無意識裡のうちに表現できた時はほんとうに嬉しくなります。それはわたしたちにとって、この時間的世界に今存在している事の本質的悦びを無限に増幅してくれる心の糧なのです。」
わたしは改めて壁に掛かっている二枚の絵を眺めていた。そしてそれらの絵がそこに掛けてある意味を知ってさらに感慨を新たにしていた。
「小山さんって案外すごいかも!ちっとも意識していなくても、わたしたちにとって最高の言葉が自然に出てくるなんて、ほんとにすごい!」
「いやあ、それほどでもないよ理沙ちゃん、ぼくは心に浮かんだことをそのままただ正直に言っただけなんだから…」
「いえ、小山さん、ほんとうに素晴らしいことですわ、わたくしたちがいつも心に掛けている三つの言葉をみんなさりげなくおっしゃるなんて、とっても素敵なことですわ!」
「いやあ、美沙さんにまでそんなに言って頂けるなんて、チョット照れちゃいますね。」私は嬉しさのあまり自分の頭をごしごし掻いていた。
「いや、まったく素晴らしいことですよ、小山さん。いやぁ、きっと家内も驚きますよ、そして大変喜ぶと思いますよ。」
「早くお母さん帰ってくればいいのに…」 理沙が呟いた。
「今何時かしら。あらもう六時を過ぎてるわ。今日の夕御飯はどうなっているのかしら。もしまだ用意できていないのだったら今から何か準備しなくっちゃいけないわ。」
「ああ、お母さんが何か準備したものを冷蔵庫の中にしまってあると言ってたけど、チョット見てくれないか、美沙。」
「はい、ちょっと見てみます。」と言いながら、美沙は台所へ入っていった。
「あら、もうすっかり用意されているわ、あとはちょっと火に掛けるだけの状態になっているから、お母さんが帰ってきてから始めてもいい位だわ。」
「ああ、そうかい、それならお母さんが帰ってくるまで待とう。そんなに遅くはならないはずだから、今日は。」
「そうね、そうしましょう。」
「だけどわたしチョッとおなか空いちゃった。何か他に食べるもの入ってなかった?」
「理沙は少しお行儀が悪いですね。」
「ああ、そうだ、わたくし今日大学からの帰り道でクッキー買ってきたんだわ、それをみんなで食べましょうよ。理沙ちゃんの減った小腹もこれできっと満足するでしょうよ。」
「ワァー、クッキー!? どんなクッキー買ってきたの? 早く食べましょうよ、お姉ちゃん。」
「はい、これよ。 ちょっと理沙ちゃんも手伝って、お茶を入れるから。」
「ハーイ。」
そのまま二人は台所へ入っていった。
残された二人は、セレステさんのピアノ演奏を聴きながらさらに話し続けた。
「山本さん、皆さんが求めていらっしゃる社会というのはどんなイメージの社会なんでしょうか?」
「そうですね、いってみれば、世界中の人々があたかも暖かい一つの家族であるかのような、そして地球全体が桃源郷あるいはエデンの園であるようなそんな地球社会でしょうか。つまり、この世のあらゆるものが調和して一体となっているような世界とでも言えるでしょうか。それは結局、この宇宙の本質である全一調和状態の地球生命系的実現状態といったようなものなのです。つまり、何度も繰り返し言っていますように、あらゆるものが本来あるべきその本質状態にあることなのです。どこにも偏りの無い、全てのものが公平な状態にあって、それぞれがそれぞれ固有の本質を十全に発現しているようなそんな世界なんです。」
「なかなか実現の難しい世界ですね。」
「ええ、もちろんこれは人類永遠の見果てぬ夢なのです。見果てぬ夢には違いないんですが、それでもそのような理想状態に一歩でも近づきたいという願いと継続的な努力があれば、昔のような私的欲望を中心とした不公平制度の中の、混乱と対立の悲劇でいっぱいの社会に逆戻りすることも防げますから…」
「ああ、なるほど、そういう効果も期待できるんですね。」
「はい、そうなんです。わたしたちの心の持ち方次第で世界は変わりますから。正しい心の姿勢を保っている限り、良くなることはあっても悪くなることはありませんからね。わたしたちは今の社会制度にほんとうに満足しているので、どんなことがあっても昔のような愚かしい社会制度の下で生活したくは無いのです。それを防ぐためにはこの命を投げ出しても惜しくはありません。美沙や理沙たちのためにもきっとそうするでしょう。」
そこへ理沙が菓子盆にクッキーを盛って運んできた。
「なあにお父さん、わたしとお姉ちゃんのためにきっと何してくれるの?」
「いや、なんでもないよ、こちらの話だよ。」
「ふーん、なんだか気になるなあ…」
「理沙は気にしなくてもいいんだよ。それより理沙、お前の同級生の和ちゃんその後元気になったのかい。」
「ああ、和ちゃん、和ちゃんはもう元気に学校に来てるよ。こじらしてた風邪ももうすっかり治ったみたい。」
「そう、それは良かったね。」
「うん。 小山さん、もうすぐお姉ちゃんが紅茶入れて持ってくるからね。」
「あ、どうも、ありがとう。」
ほどなくして美沙がティーカップに入れた紅茶を運んできてそれぞれの前に置いて言った。
「クッキーはそんなに甘くないので、紅茶にイチゴジャムを入れて飲むとおいしいと思います。お父さん、紅茶にジャムを入れましょうか?」
「ああ、すまないね。」
「小山さんもジャム入れるでしょう。わたしが入れてあげる。」
「ありがとう、理沙ちゃん。理沙ちゃんにはお世話になりっぱなしだなあ。」
「いいのよ、小山さん。こんなことお安い御用だわ。」
「さあ、どうぞクッキーも召し上がれ!このクッキーはいろんな木の実の入ったクッキーなんですよ。橡の実や椎の実や団栗やクルミや栗などの砕いたものや粉に轢いたものが入っているんですよ。」
「うん、これはうまい。なかなかいけるよ。いつでもお茶請けにおいしくいただけるね。うちの地区ではこれはまだ作ってない筈だ。こんど『三十人委員会』にこの地区でも作るように提案してみよう。」
「そうね、それがいいわ。この地区にも多くの山林があるからいろんな木の実が採れる筈よね。」
「ここで作られたら理沙たちいつでもこのクッキー食べられるようになってうれしいな。」
「このクッキー、ほんとに紅茶に合いますね。そのアイデアいいですね、山本さん。きっと、採用されると思いますよ。」
私はこちらの事情があまりよく分からないままそう言った。
「小山さんもそう思いますか。それじゃさっそく申請してみましょう。」
「これは、万一の食糧難のときなんかも活躍しそうですしね。」
「ほんとに。」
わたしたちは紅茶とクッキーを味わいながら上機嫌で話を続けた。理沙がもっとも上機嫌だったのは言うまでもない。そして、クッキー談義も一段落したところで、美沙さんがさきほどの授業の話を続けた。
「小山さん、来週の『本質理解』の授業でわたしたちはちょうど西暦2003年に発表された『無のかなたへの祈り』を取り上げるんですよ。この小さな作品の作者は、この世界の究極の実在をPLEROMAであると考えているんです。そしてそのPLEROMAはこの世の一切の源である完全に統合された純粋エネルギーだと考えています。それはこの宇宙の物質概念にも時間概念にも空間概念にも当てはまらない場ないしは状態なので、物質的、時間的、空間的に言えば『無』なのですけど、その中からこの宇宙の一切が生まれる万象の源という観点から考えると真の『実在』に他ならないものなのです。そしてそれがこの世の本質であり、その完全統合状態がこの世の本来あるべき状態だと考えるのです。そして、この地球世界もその本質状態を維持するべきであって、そのような本質の実現状態が桃源郷であり理想世界であると考え、そのような状態に限りなく近づけていくために、その本質を正しく直感する事のできる人間にとって唯一つの機能である精神機能をできる限り高めていきながらその実現に向かって生きるのが人間として最高の生き方であると考えています。そしてこの作者の考え方が今やわたしたちのこのロータス社会の基本的思想ないしは世界観の一つとなっているのです。わたしたちはもう何度もこの作品を読んでいるのですけど、再度この作品を取り上げてその基本の考えを新たにするのです。これは、いつも基本に戻って決して基本から外れる事のないようにとの配慮からなのです。人間て、案外忘れっぽい生き物ですから、放っておけば好き勝手なわがままを始めてしまうものですからねえ。」
「ええ、ほんとにそうですね。」
「小山さん、この作者はわたしが先ほど話した、例のユートピア小説の作者と同じ人なんですよ。『無のかなたへの祈り』は実際の発表よりは大分前に書かれたものらしいのですが、発表の場を持っていなかった作者がようやくインターネットを通じて発表できたのが西暦2003年だったというわけなんです。もちろんこの作品も例のユートピア小説と同じように2013年頃まではほとんど注目を浴びることはなかったんですが、ユートピア小説が注目を浴びると同時に読まれだしたのです。」
「そうですか。」
わたしは山本さんと美沙さんの話を聞きながら、一方では密かに山本さん一家の外面的な遺伝的関係を観察していた。モニターの中のセレステさんも含めて、四人ともその目元と口元が非常に上品であった。そのことはなんとなくこの一家の精神性の高さのようなものを思わせた。そしてそれは、なぜともなく人の心の様子はその目元と口元にもっとも顕著に表れるものだというような思い込みがあったわたしにはなるほどと納得できるのだった。
山本さんと理沙ちゃんとの間には、先ほど感じたような遺伝的な類似性がはっきりと見て取れた。しかし、山本さんと美沙さんとの間にはそれほど顕著な親子の類似性が認められなかった。それでは、セレステさんに似ているかといえばそうでもなかった。美沙さんにはなぜか他の三人の家族との明らかな遺伝的類似性が見当たらないのだった。わたしにはそれが不思議でならなかった。そして、その不思議な思いのまま、また抗いがたく美沙さんの目元と口元、そしてその天上的な声音に心を引き寄せられていた。