LOTUS 200-7

 

 

 

「ああ、そうだ、山本さん、テレポーターの事もっと教えていただけませんか。エアーカーに信号を送ったり、通訳させたりのほかにどんなことができるのでしょうか。」

「そうですね、地区のさまざまな委員を選んだりするときはテレポーターを通して投票できますし、また、地区のさまざまな改善案などもテレポーターで提出できます。もちろん世界中の人とテレビ電話で話ができますし、世界中のニュースを見たり、スポーツや映画や演劇などの観戦や鑑賞、それにさまざまな人々の自発的な自己表現のパフォーマンスを見ることができますし、それから毎月の公務の報酬を振り込んでもらえますし、あらゆる支払いもできます。また、先ほども言いましたように週二回の食料品の注文や、必要な場合には外食の予約もできますし、そのほかさまざまな乗り物の予約や宿泊(しゅくはく)施設(しせつ)娯楽(ごらく)施設(しせつ)やスポーツ施設の予約などもできます。また、世界中のあらゆるジャンルの作品を原語(げんご)でも翻訳(ほんやく)でも読むことができますし、ああ、それから先ほど言い忘れましたが、テレポーターは通訳した言葉を画面に字幕(じまく)表示(ひょうじ)させることもできますので、耳の不自由な人も何の支障(ししょう)も無くコミュニケーションできるんです。それから、目の不自由な人には点字で表示させることのできる機種も用意されています。そのほかさまざまな調べものやコミュニケーションに関するあらゆることに利用できます。また、近隣の人や地区の委員会からの緊急(きんきゅう)()の連絡などにも利用されているんですよ。」

「ああ、すごいですね。もうテレポーター一つでほとんどのコミュニケーションが図れるようになっているんですね。テクノロジーの素晴らしい進歩が今もなお続いているんですね。」

「はい、本質的な事柄、つまり本当に必要な、人と人との間の連絡機能をできるだけ備えられるように今も研究され続けています。ああ、そうだ、ひとつここでテレポーターを使って、そうですね、わたしの家内のピアノ演奏でもそこのモニターでご覧いただきましょうか。」

山本さんは、そう言うと、ご自分のテレポーターを操作して目の前の大きなモニターにスイッチをいれ、奥様がピアノを演奏される姿を画面に呼び出された。

「これが、今から十年前の家内です。この演奏は当時わたしが録画したものなんですが、小さい頃の美沙も理沙もそのとき一緒(いっしょ)に手伝ってくれました。」

 

モニターでは正装(せいそう)姿(すがた)のセレステさんがコンサート・ホールのグランドピアノを前に演奏を始められた。リビングルームの音響効果は驚くほど素晴らしいものだった。あたかも本当のコンサート・ホールで聞いているような臨場感(りんじょうかん)あふれるピアノの音が豊かに室内にこだました。

そのときの演目(えんもく)はショパンとメシアンの小品と、バッハの『平均率(へいきんりつ)クラヴィーア曲集 第一巻』の全曲だった。そして最後にもう一曲、ご自分が作曲されたという愛らしい小品一曲が演奏された。合わせて一時間二十分近い演奏だった。

モニターの中のセレステさんは、どちらかといえば小柄な、品のいい顔立ちの、知的な中にも情感的(じょうかんてき)雰囲気(ふんいき)(ただよ)わせた人だった。そして、山本さんがそんなセレステさんに一目(ひとめ)()れしたのも無理はないと思った。そしてわたしのその感想を率直(そっちょく)に山本さんに伝えた。山本さんは少し照れるようにしながらも満更(まんざら)でもなさそうな様子であった。

 

わたしたちはそのセレステさんの心のこもった素晴らしい演奏に耳傾けながら、さらに話しを続けた。

「ところで、山本さん、皆さんはとても(おだ)やかな、満ち足りた生活を楽しんでいらっしゃるようなんですが、皆さんでも時には激しい感情に()り動かされるようなことがあるんでしょうか。こんなユートピアみたいなところに住んでいらっしゃる人はどなたも怒りに()られるようなことなど無いんでしょうか。」

「いえ、小山さん、わたしたちにも激しく怒り、抵抗するようなこともあるのですよ。というよりも、その覚悟(かくご)ができているといったほうがいいでしょうか。つまり、わたしたちにもこれだけは(ゆず)ることができないといった最後の一線というものがあるんです。それが何かといえば、大自然の本質状態や社会の本質状態あるいは自分自身の本質そのものが侵害(しんがい)されるときなんです。その時はわたしたちも命懸(いのちが)けで闘います。わたしたちにとって大自然の本質や社会の本質、また自分自身の本質権(ほんしつけん)は自分の命よりも大切なものなのです。自分の本質が生きられないのであれば死んだも同然だという考えからです。本質こそが命の命なのであって、つまり本質があればこそわたしたち一人一人の命も在るのであって、その命の源である本質が汚され、破壊され侵害されるような状況を(だま)って見過(みす)ごすわけにはいかないのです。母親が最愛のわが子を命懸けで守るように、わたしたちも本質を守るためにはこの命も惜しみません。わたしたちは小さい頃から家庭において、学校において、また社会において、この本質に(じゅん)ずる覚悟だけは例外なく植えつけられるのです。ほかに掛け替えの無いこのわたしたちの大切な命よりもさらにもっと大切なものがこの世にはあり、それこそはこの宇宙(うちゅう)万象(ばんしょう)の本質であり、命を懸けてその本質を守ることはわたしたち自身およびわたしたちの子供たちの未来を守ることにも等しいと確信しているのです。この信念が住人一人一人の心の中に刻み込まれている限り、わたしたちの社会が精神的に堕落(だらく)することはありえないと考えます。」

「そんな激しい精神的な信念と覚悟があるんですか。それは何よりも堅固(けんご)な社会的(とりで)になりますね。そんな人々の住むところには利己的ないかなる悪意も策略(さくりゃく)も入り込む余地は無いでしょうからね。」

「はい、その構成員(こうせいいん)である住民に、いざとなれば本質のためにその命を捨てる事のできる精神的な覚悟のある社会はもっとも安定です。結局のところ、人間世界のあらゆることはわたしたちの精神次第でどうにでも変わるものなのです。なんといっても精神が人間世界の中心なのですから。だからこそ、わたしたちは精神的な自己(じこ)啓発(けいはつ)を社会生活の最も中心に()えてもいるのです。」

「お話を(うかが)っていて、わたしの生きている時代を振り返りますと、わたしたちの多くは、自分のエゴイズムや面子(めんつ)や欲望追求のためには命懸けになれても、自然や社会全体や自分の本質のためには命を懸けることはほとんどありません。また、多くの人は、たとえそれが本質的に大切なことであるとわかっていても、ただ自分が生き長らえるためだけに多くの面倒(めんどう)を避けて通ります。恐怖心からくる臆病(おくびょう)自己(じこ)保身(ほしん)のための無責任な事なかれ主義に(てっ)しているのです。そこには本当に人間らしい精神的に高貴なものはまったく感じられません。そしてその結果として社会全体が精神的に病んでいるのです。」

「その精神性において旧世界と新世界との間には大きな開きがあるとわたしたちも思います。住民一人一人の自覚的な精神的向上なくして今のこの世界はありえませんからね。そして精神的なものは子供の頃から社会的に植え付けられなければなかなか人の心に根付きませんからね。だからこそわたしたちは、中学生時代から集中的に始まり、それ以後一生涯続く精神的な学びを重要視しているのです。」

「なるほど…。 ところで美沙さん、先ほど大学で今は歴史とフィールドワークのほかに本質理解を学んでいて、その中でもその本質(ほんしつ)理解(りかい)が最も大切なのだと言っていらっしゃったように思うんですが、具体的にその本質理解の授業ではどんなことを学んでいらっしゃるんでしょうか。」

「はい、本質理解の授業では、かつて中学時代に習った『心の理解』の延長のような形で学んでいます。もちろん今は、より体系的に、より目的意識を持って、より深く学んでいます。将来、わたくしたちが地区改善の仕事に実際に(たずさ)わったときに、住民の方たちにその改善の必要性を理解してもらい納得(なっとく)してもらった上で変えていかなければなりませんから、そのとき説得力のある議論ができるためにも今のうちに自分自身が十分に本質を理解し、さらにその理解した本質をしっかりと身に着けておくことはとっても大切なことなのです。そのためには、本質的な世界観と本質的な価値体系が確立していなければなりません。そしてそのような世界観と価値体系とを確立するためには、何よりもまず本質、すなわち、この世で一番大切なことは何か、この世の真実とは何か、というようなことに対してわたくしたちの能力の限りを尽くして追求し、それに肉薄(にくはく)していなければならないんです。本質あるいは真実そのものに対する最もそれらしい理解と説明が用意されていなければならないのです。その本質理解に基づいてこの地球社会のあらゆることがらが価値付けられ、秩序付けられるのですから…

わたくしたちは、人類の過去の最高の精神的遺産である、神話や宗教や哲学やそのほかのさまざまな学問や芸術作品や科学的真理や生活(せいかつ)形態(けいたい)習俗(しゅうぞく)習慣(しゅうかん)といったような多方面にわたる多くのことを学びながら、もっとも真実に近い真理の体系を構築しようとしています。それによってこの世界が成り立っている根源的(こんげんてき)理法(りほう)といったようなものを明らかにしようと努めているのです。今はだいたい一週間に一冊ないし一つのテーマの割合で討議(とうぎ)を重ねています。授業の前までに指定された本やテーマに対して自分なりの調べを終えて、授業においてみんなで徹底的にその本質について分析し、統一的な見解へと導いていきます。そういう作業がほとんど毎週継続的に続けられていきます。そして、次の授業においては、これまでの研究の積み重なりの上に新しい題材による討議の成果が積み重ねられていきます。本質理解がさらに広く深く高いものになっていき、真実そのものによりいっそう近づいていきます。これは、あの『百人委員会』別名『哲学委員会』で討議されていることと基本的には同じことなのです。一般の住人たち同士の間でもよくこのことは話題に上ります。人それぞれの宗教的科学的哲学的立場から意見を出し合い、より普遍的(ふへんてき)な真理に近づこうとしています。本質を理解することは人間として最も大切な義務の一つなのです。住民一人一人のその本質の理解の程度に応じてその地区の精神風土が決まってきます。本質理解が深ければ深いほどその地区は精神的に豊かな環境を形成します。そして住民はその分だけ精神的な悦びをより深く感じることができ、また、その悦びをお互いにより多く分かち合うことができるのです。」

「なるほど、美沙さんたちはそれほど徹底して本質理解に励んでいらっしゃるんですか。ところで、これまで、一人一人の本質権や本質理解やそのほか多くの本質に関わることがらの大切さなどを伺ってきたのですが、それでは、その本質そのものはいったいどういうものなのか、皆さんが本質というものをどのように理解していらっしゃるのか大変気になるんですが、どなたかお話いただけませんでしょうか。まあ、本質そのものは真実そのものが人間の理解の届かない永遠の神秘であると同じように、いつまでもその本当の姿は分からないものなんでしょうが、それでも今の時点で理解していらっしゃる本質とはみなさんにとってどういうものなのでしょうか?」

「そうですね、今わたしたちの多くは本質について次のように考えています。まず、本質そのものですが、ある者はそれはブラフマンであると言い、またある者はそれを(タオ)であると言い、または純粋エネルギーであると言い、(くう)であると言い、無であると言い、またあるものはエホバやアッラーあるいはまた(かく)れし神であると言い、ある者はPLEROMAであるとも言います。その他その呼び名はそれぞれの信仰によってさまざまに異なっているのですが、それは皆、この世界の本質そのものであり根源の根源であると考える点では同じものなのです。それはそれぞれの視点の違いから、究極的(きゅうきょくてき)実在(じつざい)であったり、まったき無であったり空であったりします。しかし、いずれの場合も、その本質がこの世界の根本原因であり、そこからこの世界のすべてがはじまるという点では同じなのです。そしてそのように本質とはこの世界の根本原因なのですから、わたしたち人間にとって本質は絶対的な至上(しじょう)価値(かち)に他ならないのです。まさに本質は文字通り、わたしたちにとって本質的な、無上(むじょう)の絶対的価値を持っているのです。だからわたしたちはどんなことがあろうともその価値を損なってはならないのです。本質は聖なるものであり、それを畏敬(いけい)し感謝することは他のなにものにもまして守られなければならない第一の律法(りっぽう)なのです。本質はどこまでも絶対的であり完全であり(きよ)らかであり神聖です。ところでまた、その根本原因である神聖な本質からこの宇宙の一切が生じたのですが、その現象には根本的な法則ないし本来の状態と言うものがあり、それを宇宙の法則と言ってみたり、根本(こんぽん)(りつ)と言ってみたり、本質状態と言ってみたり本来の姿と言ってみたりしているのですが、その本来あるべき真実の姿をわたしたちは、全一性ないし一体性において(とら)えています。つまり、すべてのものは本来一体であり、一体であるものは自ずから全一的調和状態ないしは全一的バランス状態にある、と考えるのです。その中ではあらゆる部分的(かたよ)りは自ずから解消されるのです。しかし、その本来の姿が、われわれ人間の手によって、この地球上で(ゆが)められ、汚されてきました。人間の本質的な無知とエゴイズムとによって、また、本質を十分に理解することのできない知性の暴走によってそれはこれまで限度をはるかに超えてなされてきたのです。そのような人類の本質に対する無知と、偏頗(へんぱ)な知性の高慢(こうまん)とによって汚され歪められてきた自然と社会をその本来のあるべき姿に引き戻すために、わたしたちは、ロータスネットワークの先人たちの時代からずっと今日まで、多岐にわたるさまざまな活動を続けてきたのでした。そして何千年にもわたって積み上げられてきた本質に反する、あらゆる人間中心主義と利己主義的慣習や社会制度を突き(くず)してきたのです。このような活動のすべてはその根本のところで、わたしたちの本質そのものの理解の深まりと(あい)(おう)じているのです。わたしたちは本質をより深く理解し、その理解に相応(ふさわ)しい状態へとこの地球社会をさらに近づけていきたいといつも心に願いながら生活してきているのです。そして、そのような生活は、本質の本来の活動のあり方である全一(ぜんいつ)展開(てんかい)という形をとります。つまり、すべてのものが一体的に、あるいは全一連関的に展開すなわち変化していくのです。そのとき、あらゆるものの間にはいつも全一調和状態が保たれます。すべてのものは大自然本来のそれぞれのあるべきテンポで(てん)じていきます。このように、わたしたちは今では自覚的に、この世界の本質状態を最優先にした、いわば、本質主義社会とでも名づけたいような社会システムの中に生きています。それは王制(おうせい)社会(しゃかい)でもなく封建(ほうけん)社会(しゃかい)でもなく資本主義社会でもなく共産主義社会でもありません。まさに、宇宙(うちゅう)万象(ばんしょう)の本質状態を基盤(きばん)()えた社会なのです。本質を社会の基盤に据えることによって、これまで人類が積み重ねてきた自然的および社会的な数え切れないほどの反本質的問題を解決することができたのでした。そして今わたしたちは、それが本質に反したものでない限りは、過去のさまざまな社会体制の中から本質的に良い部分だけを引き続き継続的に生かしています。」

「ああ、なるほど、大変よく分かりました。この社会にとって、本質と、その本質を理解することがどれほど大切なことなのか今ようやく分かりかけてきたような気がします。」

「それはよかった。」

「ええ、ほんとに。わたくしも嬉しいですわ, わたくしたちのことが分かっていただけたようなので…」

「よかった、よかった、小山さん、ほんとによかったね。」

「はい、おかげさまで。 理沙ちゃんも、ありがとう。」

 

わたしはモニター画面でひとりピアノを弾き続けていらっしゃるセレステさんの、その真剣な中にも優しさの(ただよ)う姿を眺めながら、自分が今いるこのロータス200年という時代が本当に分かり始めてきたような気がしていた。

 

 

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