「しかし、それにしてもやはりまだ信じきれません。たとえば、私有権や相続権の問題、それから、なんといっても戦争を頂点とした暴力の問題、それに言葉の壁のような問題はどのように解決できたのでしょうか。」
「小山さん、言葉の問題はこのテレポーターが解決してくれたのですよ。このテレポーターはまさに万能のコミュニケーション ツールでして、このテレポーターを使えば世界中の言語のさまざまな方言ですら通訳することができるんです。このテレポーターは地上局と衛星局とを結んで瞬時にあらゆる言語を通訳してしまいますから、これさえあればいつでもどこでも誰とでもコミュニケーションが可能になるんです。この通訳機能のおかげで、世界中のニュースをそれぞれの言語で直接知ることもできます。だから今では何年間も学び続けなければならない根気のいる語学学習はまったく必要なくなってしまいました。そのほか、このテレポーターにはさまざまな機能があります。これなくして今のわたしたちの生活が成り立たないくらいなんです。」
「テレポーターがあればエアーカーにも乗れますしね。」
「ええ、その通りです。」
「しかし、私有財産権や相続権の問題はどうでしょうか。これらの権利を放棄させることは容易なことではなかったと思われるのですが…」
「まったく、おっしゃるとおりです。私有権と相続権がこの世界から完全に無くなったのはつい20年ほど前のことなんですよ。それほどこの自己中心的権利意識は人間の心に根深く巣食っていたのです。それでも、長年にわたる根気強い、理性的かつ精神的な説得によって徐々にそれは成し遂げられました。それは地域によって、それぞれの自然的精神的風土の違いによって、非常に早い段階から実現した地区もあれば、それより百年、百五十年と遅れて実現した地区もあるんです。しかし、結局は人類全体が利己的な私有権や相続権よりも全一調和的な本質権のほうが自分と自分の家族、それからさらに子々孫々の代にいたるまでをより幸せにしてくれるということが納得できたので手放すことができたのです。わたしたちの先駆者は、決して人々に強制しませんでした。どこまでも説得と十分な本人の納得の上で変えていったのです。結局、強制的に上から変えてみても、人が心の底から納得しているのでなければ、何事も本当には変えることができないのですからね。一時的に、そして表面的には変わったように見えても、心の底では不満がくすぶり続けていて、いつの日にかその不満が爆発するのです。そしてふたたび社会に波風が立ち、混乱が生じます。結局のところ、上から強制するあらゆる形の暴力によっては、本当には何一つ変えられないのです。そのことを人々に繰り返し説明し、納得してもらうことによって、戦争を頂点としたあらゆる暴力の問題も解決できたのだと思います。もちろん、国家が解体したことによってその問題は加速度的に改善され、勢いづいたのも事実ですが。何しろ国家の持つ軍隊こそが人間の暴力主義の究極的な形態であり、その象徴でもありましたからね。そして、国家がなくなり国家間の戦争も無くなったのですから、軍需産業も死の商人たちもいなくなってしまいました。あらゆる種類の核兵器もその他の武器も廃棄されました。そして、今は『百人委員会』の下に遠隔操縦によるレーザー兵器だけが万一に備えて確保されているだけなのです。もちろん今は、戦争による難民問題もありませんし、戦争孤児もいなければ共有財産の破壊もありません。そして何よりも社会のあらゆる場面で暴力沙汰が劇的に減ったのです。」
「ふーむ、そうですか。私有権も相続権も、さらには戦争や暴力沙汰までも無くなってしまったんですか。まったくわたしの時代からは信じられないような変化ですね。 …うーん、しかしそれでは、中小企業から大企業、世界企業などの私企業はどうなったのでしょうか。何しろ経済至上主義時代の私企業の問題は超難問としてユートピア建設の前に大きく立ちはだかったはずですからね。」
「ええ、小山さんのおっしゃるとおりですわ。それもやはり一筋縄ではいきませんでした。でも、結局は、NPOやNGO、それから同じような草の根の、下からのさまざまなボランテア活動によって、しだいに私企業が地域社会を中心とした公的な生産機構へと変化していきました。そして、それまで私企業においてさまざまな形で働く人たちを苦しめてきた労働環境問題や労働の本質的な意味や価値といったような根本的な問題を解消し、ほんとうに生産する意味と価値のあるものだけをもっとも本質的な方法で生産する体制ができ上がってきたのです。」
「へえー、そうなんですか。」
「ところで、小山さん。わたしたちは歴史を眺めるとき、ルネッサンス期から20世紀までを知性の時代と捉えます。この時期には華々しく人類の知性の花が咲き誇りましたからね。そして近代的な科学や技術の大きな進歩が見られました。そして、近代化した社会においてはさまざまな利便性を享受することができるようになりました。しかし、その一方では、個人間、地域間、国家間において貧富の格差がはなはだしくなり、人類と自然界を破滅に導くような核兵器が開発され、それが一見もっともらしい理由付けをされて実際に使用され何十万人もの人命が一瞬にして奪われ、その後も多くの人が何十年にもわたってその後遺症に悩まされ続けました。それからまた、乱開発や化学物質などによる汚染などで自然がほとんど回復不能な状態にまで破壊され、多くの野生動物たちが絶滅していきました。そして、21世紀に至って、わたしたちはようやく人類の知性の持つ限界、すなわち宇宙万象の全一的な統合性や一体性といった本質を直感する能力に欠けた、人間中心的、自己中心的な偏った性向を本当に深く自覚できるようになり、そしてそのような知性に内在する自己破滅的な機能的限界から抜け出すために、より本質的な意識機能である精神の大切さと必要性に目覚め、さらにはその精神の全人類的向上に力を注ぐようになったのです。その結果、西暦21世紀あるいはわたしたちの暦法で言えばロータス1世紀は人類にとって真に精神的な目覚めとその向上の世紀になりました。この精神的向上がなければ、今の社会は実現していなかったと思います。その意味で、この百年は人類史上特筆すべき時代なのです。そのことはわたしたちの今の社会を理解する上で忘れることのできないもっとも大切なことなのです。」
「ああ、そういうことが21世紀に起こっていたのですか。それなら、わたしにも納得できそうな気がします。それは本当に素晴らしいことです。人類もまだ捨てたもんじゃありませんね…」
わたしは正直なところ、21世紀に起きていた夢のような社会的変化に少々興奮気味であった。
「ところで、もう一つ、老後の年金問題はどうなっているのでしょうか。もう、破綻してしまったのでしょうか。」
「おや、小山さん、わたしたちの社会では年金制度というものはありません、その必要がまったくないのです。衣食住そのほかあらゆる社会的なサービスが無料で受けられるのですから… ただ、外食を楽しんだり新しい洋服を作ったり、そのほか趣味などで楽器などを購入するような場合にだけロータス貨が必要になります。そのようなささやかな自分の好みの自由行使のために、月々5,000ロータス支給されるのです。それが、昔の時代で言えば年金と呼べるものかもしれませんね。いずれにしましても、今は誰一人として衣食住に困るような人はいません。一人でもそのような人がいれば、それはその地域全体の恥ですし、ひいては『三十人委員会』の最大の不名誉ともなるのです。そのときには委員会の全委員は職務怠慢の廉で即刻解任させられます。そして、その後長く不名誉な汚名をかぶり続けなければならないのです。これまでに一度だけこの地区でもそのようなことがありましたが、そのとき解任された委員の多くはふたたび禅堂にこもって長年にわたり心の修行のし直しをしました。一人の本質権の侵害に対する地域社会の責任はそれほどにも重いのです。」
「まったくそれは徹底した制度ですね。それなら住民は将来の生活に対する心配もなく、自分の本質活動に専念できるというわけなのですね。」
「ええ、その通りですわ。日々の生活や将来の人生に不安があると人は誰でもその不安に心を奪われて本当の自分を十分に生きることができないものですから…」
「本当におっしゃるとおりですね。ところで、住宅建築や輸送、通信、家庭の器具備品、そのほか衣食住および娯楽やスポーツや福祉などに必要な品物はどのようにして作っていらっしゃるんですか。私企業というものがもうどこにもないのであれば…」
「はい、いろいろな製品は、その製品の性質や製造の難易度などによってそれぞれ適切な地区レベルごとに振り分けて生産管理しています。各地区レベルで作れるものはそれぞれその地区ごとに生産し、地区レベルでは作れないものは、それより上位のレベル、すなわち統合区や地方や大統合地区レベルで生産します。たとえば、大統合地区では、垂直離着陸式ジェット機や通信衛星やスペースシャトルなどが、また、地方レベルでは、エアーカーや、さまざまな精密機器、たとえばテレポーターや自然環境汚染度の検査用機器などが作られます。それから統合区ではさまざまな家庭用の器具備品が主に製造されています。」
「なるほど、そのようなシステムになっているのですか。」
「はい、そして今ではこのシステムで社会的需要のほとんどが順調に満たされています。」
「そんなにも多くのことが順調に進んでいるとなると、今度はあまりに順調すぎて皆さんの生活や人生全般が単調にそしてまた退屈なものになるのではないかと心配になってくるのですが、これは心配のし過ぎでしょうか?」
「まったく、小山さん、おっしゃるとおりそれはまさに心配のし過ぎというものですよ。生活の基礎的な部分の心配が取り除かれると、精神的に目覚めた人間はまた新たな面に意識を向けるようになるものなんです。たとえば、わたしたちが不安のない生活の中で今、日々考えることといえば、どうすればより精神的に豊かに充実して過ごせるかということなのです。どうすればより本質的に価値のある時間が過ごせるか、どうすれば後に悔いの残らない生活ができるか、といったようなことを考えたり工夫したりするようになるのです。物質的な不安が取り除かれれば、後は精神的な充実と豊かさを求める生活が待っているというわけなのです。ですから、わたしたちが退屈するということはまったくといっていいほど無いのです。退屈と感じるのは心ですから、精神的に充実している人には退屈と考える暇がそもそも無いのです。」
「そうですか、そういうものでしょうか。」
「はい、精神的な向上には限りというものが無いですし、精神的充実の工夫にも限界というものが無いのです。」
「山本さん、具体的に精神的な充実と豊かさというのはどういうものなのでしょうか。わたしにはどうも今ひとつよく分からないのですが。」
「そうですね、精神的な充実とか豊かさというのは、言ってみれば精神的な悦びに満ち溢れた状態といってもいいと思います。たとえば、人の喜んでいる姿を見て自分の心が嬉しくなったり、犬や猫や鳥や虫や草花などが満足している様子や生き生きしている様子を見て自分の心が嬉しくなったり、もちろん自分の子供や親兄弟が幸せにしている姿を見て自分の心が嬉しくなることも当然その中に含まれます。つまり、自分や自分の家族だけでなく、あらゆる人々、あらゆる生き物、あらゆる物事の中に本質的な、全一調和状態を見ることにこの上も無い幸せを感じることなのだ、といえると思うのです。精神的な悦びはこの世のあらゆる物事の本質的な状態の中にいつでも見出すことができるものなのです。」
「はあ、そういうものでしょうか。美沙さんもそう思われますか?」
「ええ、わたくしも父の考えに賛成です。精神的な充実や豊かさは精神的な悦びの中にあると思います。そして、その精神的な悦びはこの世のあらゆる物事の本質状態、つまり生き生きとした全一的調和状態の中に満ち溢れていると思います。ですから、この地球世界のあらゆる場所にそのような本質状態を創り出し、それをいつまでも維持していく仕事の中にもやはり精神的な充実と悦びがあると思うんです。」
「ああ、なるほど、美沙さんは今それで地区改善学を学んでいらっしゃるんですね。」
「ええ、その通りなんです。」
「そうですか、それはやはり素晴らしいことなんですね。とっても素敵なことなんですね。わたしも美沙さんのためにそのことが本当に嬉しいです。」
「ありがとう、小山さん、そのように考えていただけてわたくしもほんとに嬉しいですわ。」
「小山さん、わたしだって小山さんが私たちのことを分かってくれてとっても嬉しいのよ。」
「理沙ちゃん、あははは、どうもありがとう。理沙ちゃんにそう言われるとなんだか本当によかったと思われてくるよ。ほんとにありがとう、理沙ちゃん。」
「そんなあ。お礼なんかいいのよ、本当のこと言ったまでなんだから。」
「いや、理沙ちゃんには本当に負けるよ。」
「うふふ。」
「小山さん、少しはわたしたちのことが分かっていただけましたでしょうか」
「はい、おかげさまで朧気ながら今の時代の様子が見え始めてきたような気がします。そして、わたしの生きている時代からは大きく精神的な方向に変化してきたということが確認できて大変よかったです。殊に、軍事力を中心とした力の政治が影を潜め、また、利己主義と無知による欲望の自由ではなく、全一調和と本質的知恵に基づく真の自由が世界を覆っているということが分かって嬉しかったです。利潤や私益のためではなく、精神的豊かさや生きとし生けるものたちの真の悦びのために生きていらっしゃることに感心しました。わたしたちの時代は一人一人がばらばらに、お互いがお互いのライバルや敵ですらあるような意識の中で生きていたのに対して、皆さんは一人一人が本当の家族のような、さらには地球上の生きとし生けるものたちが一つの大きな命の仲間であるような、そんな一体的、統合的な本質的知恵を生きていらっしゃる。それはあの宮沢賢治や、そのほか世界中の多くの理想主義者たちが思い描いたようなユートピアに近い世界とすら言えるでしょう。まったく素晴らしいことです。今までわたしには、人間の社会というものは変わらないもの、変われないものだというような思い込みのようなものがあって、ユートピアの実現など夢のまた夢に過ぎず不可能なことなのだと諦めていたのですが、今ここに現実としてあるのだと知ることができて本当に嬉しい驚きでいっぱいなのです。そして明日、美沙さんと理沙ちゃんにこの地区を案内してもらってその様子を具体的に目にすることができるかと思うと楽しみでしょうがありません。また素晴らしい体験ができるに違いないと、もう今から期待で胸が膨らみます。」