「お父さん、コーヒーでも入れようか。それともお茶がいい?」
「ああ、そうだね、ちょうど飲みたいと思っていたところだ。小山さん、コーヒーとお茶、どちらがいいですか。」
「あ、わたしはどちらでも構いません。皆さんと同じものをいただきます。」
「そうですか、それでは… お父さんはコーヒーがいいな。」
「それじゃ、コーヒーにしましょう。小山さんもね。」
「はい、すみません。」
「じゃあ、チョット待っててね。」
理沙は手早くテーブルの上のものを片付けるとそれを持ってキッチンに入っていった。それからしばらくすると香ばしいコーヒーの香りがリビングに漂ってきた。
「山本さん、明日はどちらにお出かけですか。さきほどなにか御用があるとおっしゃっていましたが。」
「ああ、はい。明日はこの地区の水質管理委員会の月例報告会がありまして、それに出席しなければならないんです。今年その委員の一人に選ばれたものですから、今年と来年の二年間、その勤めを果たさなければならないんです。」
「水質管理委員会ですか? それはどのような活動をしている委員会なんですか。」
「この地区の水質に関する全般的な管理をおこなっています。上水道の水質管理はもちろんのこと、川の水や農業用水、それから雨水や池や沼などの定期的な水質検査もおこなっています。なんといっても水は、人間だけでなくこの地球に住むすべての生き物にとってもっとも大切な、命の母なるもののひとつですから、その管理にわれわれは最善の注意を払っているんです。」
「めだかの会やトンボの会の会員の山本さんなら水質管理委員はまさにうってつけのお仕事ですね。」
「ははは、いや、恐れ入ります。」
そこへ理沙がトレイにコーヒーをのせて入ってきた。
「お待ちどうさま。」
テーブルにトレイを置き、コーヒーカップをそれぞれの前に並べながら…
「小山さん、お砂糖とミルクは?」
「いえ、僕は入れません。」
「お父さんも入れないのよね。わたしはお砂糖を少しとたっぷりミルクを入れるわ。それじゃ皆さん冷めないうちに召し上がって。」
「はい、じゃ、いただきます。」
「うーん、おいしい。やっぱり理沙に入れてもらうコーヒーが一番おいしいな。」
「まあ、お父さんたら、あんなこと言って、うふっ。 小山さんはどう?
おいしい?」
「あー、とってもおいしいです。こんなにおいしいコーヒー飲むの初めてだなあ。」
「ほんと? ほんとなら嬉しいけど。」
「いや、ほんとにほんと、ほんとにおいしい。これはぼくにとって初めて味わうコーヒーの味だなあ。」
「そーぉ、それはよかった。」
「先ほど頂いたハーブティーもこのコーヒーも、どちらもわたしにとって初めて味わう新しい味です。いえ、実際ここで体験することはどれもこれもまったく新しいことばかりなので驚いてしまいます。
…ところで山本さん、皆さんはこういったコーヒーをどのようにして手に入れていらっしゃるんですか。この地区でコーヒーができるとも思えませんが。」
「そうですね、ここで採れるのは温室栽培のものがごく少量だけです。この地区で自給できない品物は皆ほかの地区とのバーターで手に入れています。こちらで収穫したり作ったりした食料品や日用品などにロータス価格をつけてまとめたリストがありまして、それをコーヒーなどこちらの欲しい物を作っている地区に提示してお互いに必要なものを物々交換し合うんです。わたしたちの社会では物の値段に利潤の上乗せをしませんから、すべての物の値段は本質的な価値をそのまま反映しています。わたしたちは歪みのない真実と絶対的な公平性を地球社会全体が守るべき普遍的ルールの中心的なもののひとつと考えていますから、一方的な利益追求に走るようなつまらない駆け引きや虚偽、欺瞞、そのほか利己的な情報操作といったようなことは地区と地区との間の交換の場に一切入り込みません。わたしたちは皆、非本質的な虚偽や情報の操作が大嫌いなのです。それはひとりひとりの貴重な生命エネルギーの無駄使いにつながるものだと考えるからなのです。わたしたちはみな人生を大切に生きたいので、非本質的なことはできる限り生活の中に入り込まないようにしているのです。」
「なるほど。わたしの生きている時代とはその考え方に相当開きがありますね。今の皆さんの時代と比較してみると、わたしの時代はどうも利己主義者全盛時代だったかのように思われてくる位です。」
そのとき、例のお掃除ロボットの鼻歌が廊下の端から次第に大きくなりながら近づいてきた。と思うまもなく、そのロボットが体をかすかに左右に振りながらリビングに入ってきて、そのまま元の場所に戻ったかと思うとすぐに静かになった。
「お掃除が終わったようですね。ほんとに便利ですね、このお掃除ロボットは。」
「二階にもあるのよ。いつも一階と同時にお掃除を始めるの。」
「そう。いいなあ、ほんとに。」
「小山さんの家にはまだないの。」
「うん、まだないんだよ。」
「小山さんはどんなお家に住んでるの。」
「うん、小さなアパートに住んでるんだ。」
「アパート?なに、それ。」
「あはは、理沙ちゃんはアパートを知らないんだ。」
「ええ、いままで一度も聞いたことないもん。」
「アパートっていうのは家賃を払って住む木造の集合住宅なんだ。一つの建物にいくつもの独立した部屋区分があって、何世帯もの家族がそれぞれその独立した部屋区分の中で生活するんだ。狭いのに家賃が高くてね。大げさに言えば、ぼくらの人生、その家賃を稼ぐために働いているみたいなところがあるんだ。自分の家を持っている人たちもそのローンを払い続けるために一生働き続けるみたいなものなんだ。」
「ふーん、なんだかよく分らないけど、大変そうね。」
「理沙ちゃんに同情されちゃぼくも形無しだなあ…」
「うふふ、小山さんって、ほんとに変わってて面白い、なんだか地球人じゃないみたい。」
「いや、わたしは確かに地球人ですよ、理沙ちゃん。」
「いやね、冗談よ、小山さん、本気にするなんて…」
「いえね、ほんとに冗談じゃなく、ときどき自分が一瞬わからなくなってしまうようなときがあるんですよ。何か別世界に紛れ込んでしまって、その世界と自分がどこかチグハグで、意識が混乱してしまうような気がする時が…」
「理沙、少し言葉に気をつけなさいって言ってるでしょう。
いや、小山さん、人は誰でも急に環境が変わればそんな風に感じることがあるものですよ。小山さんの場合それが人より強く感じられるということだろうと思いますよ。」
「はあ、そうかもしれませんね。」
「あまり深く気になさらないことです。そのうちすべてが普通に戻ってきますからね。なにも心配要らないですよ。」
「はい、ありがとうございます。」
わたしはコーヒーをすすりながら、自分が少し心の平静を失いかけていたことを恥じた。そしてこれからはしっかりと自分をコントロールしていこうと心に誓った。
「ところで、山本さん、話は変わりますが、国連はまだありますか。」
「国連?ですか。」
山本さんと理沙ちゃんがかすかな驚きの表情でお互いの顔を見合わせた。
「国連はもうありません。昔の国連に変わって今は『百人委員会』が世界の統合、管理の任に当たっています。」
わたしは自分がこれ以上おかしなことを言わなくてもすむように、あらかじめ今の国際政治の制度や情勢を知っておきたいと思って尋ねた。
「山本さん、いま世界の政治制度はどのようになっているのか説明していただけませんか。本当にあらゆることがこの二百年ほどですっかり様変わりしてしまったようなので…」
「はい、いいですとも。今あなたがお尋ねになった国連は、もう170年ほども前になるでしょうか、国連を構成しているメンバーだった国家そのものがなくなるとともに自然消滅しまして、それに変わる組織がやがて世界中に細分化された多くの地区を構成メンバーとした『百人委員会』として再構築されました。それまでの国連はさまざまな矛盾を抱えながらも世界の平和的統合のために多くの成果を挙げてきたのですが、何しろ、国益追求という名の下で多くの災いをもたらす国家という政治形態を基本的構成メンバーとして抱えていましたので、どうしてもその果たす役割には最初から限界が付きまとっていたのです。その矛盾と限界を、国家の解体という大きな時代的趨勢の流れにうまく乗り、やがては自ら脱皮しながらまったく新しい組織へと変わっていったのです。いわば、今の『百人委員会』は、かつての国連が発展的に解消して成った機構といえるのです。国連はその任務を十分に果たし終えて新しい組織へと発展的に解消したのです。」
「しかし、地区を統合するといっても、何万もある世界中の地区を統合することなどできるものなんでしょうか。」
「それはほとんど問題ありません。『百人委員会』の下には三段階の下部機構がありまして、その間で大抵の問題は吸収されて、実際には『百人委員会』にまで上ってくる問題はほとんどないのです。それで、いまや『百人委員会』は別名、『哲学委員会』とも呼ばれているんです。というのも、もはや現実的日常的な問題を討議する必要がほとんどないので、定例委員会において話し合われるのはもっぱら、人類の究極の問題である、真実とは何か、真の自己とは何か、そしてまた、真の自己を生きるにはどうすればいいか、などの哲学的宗教的問題が延々と話し合われるのです。もちろん、究極的な真実を言葉で定義し、それを実践することは永久に不可能なことなのですが、その究極の真実世界に限りなく近づいていくことが人間の永遠の勉めであると考えられているのです。そして、人類社会を統合している最高の意味と価値の体系が、その究極的真実の定義にかかっているのですから、考えてみれば、地球社会の最高統治機関である『百人委員会』においてそのような哲学的議論がなされることはもっともふさわしいことだともいえるわけなのです。」
「はあ、そうなんですか。お話をうかがっていると、なんだかあのプラトンの哲人政治の話に似ているようですね。」
「はい、そのとおりなのですよ。実際わたしたちの政体はプラトンの『国家』の影響も少なからず受けているんです。もちろん、奴隷制を前提とした貴族政治的な側面や、婦人と子供の共有制や、生産労働を奴隷が担うべき卑賤で苦痛に満ちたものだというような考えは今の時代にまったくそぐわないものとして退けていますが、それでも、教育を重要視した点および理性を重んじたという点ではほかの誰にも負けない功績だと思います。」
「ああ、なるほど。ところで、山本さん、『百人委員会』の下の三段階の下部機構というのは具体的にはどういうものなんでしょうか。」
「はい、実際には四段階といったほうがいいかもしれませんね。まず、一番下の社会単位であるそれぞれの地区には、もちろん一番下といっても最も重要なものなのですが、その地域を理想的な社会にしようと奮闘している『三十人委員会』があります。この委員会を中心として、各地区は地球社会の普遍的なルールに従いながら、それぞれの風土にもっとも相応しい生活形態を細心の注意を払いながら創り上げていきます。このことに各地区が成功すればもう理想的地球社会の実現もほぼ成功したようなものです。ところで、食料やそのほかの生活必需品のすべてをひとつの地区内で調達することは無理なことです。それで、まず、近隣の十地区をまとめて構成された『四十人委員会』を統合区と名づけて相互に連携し、融通し合います。そしてさらにその上に、そのような統合区を十区まとめて地方と名づけ、その統合機関である『五十人委員会』を通して連携、協同し合います。そして、その上にさらにそのような地方を十地方まとめて大統合地区とし、『六十人委員会』を通して連携させます。そして、そのような大統合地区が三十まとまったものが世界中のすべての地区を最終的に統合した『百人委員会』であり、それがこの地球社会の最高統治機関として地球社会全体の秩序を維持しているというわけなのです。」
「しかし、ほんの二百年余りの短い期間にどうしてそのような理想的な地球社会が実現したのか、にわかには信じられませんね。何か人間の想像を超える特別な奇跡的な力でも働いたのでしょうか。なんと言っても、わたしの知っている世界は、欲望と権力と欺瞞と暴力とエゴイズムと、まあ、手っ取り早くいってしまえば人間の愚かしさに満ち溢れた世界でしたからね。理想的な社会を実現しようという動きもなかったわけではありませんが、なんといってもそれはほんとに弱々しいものでしかなかったのですからねえ。」
「はい、本当に。
わたしたち自身にもどうしてこのような本質的自由と、物質的に、また身分的、権利的に平等な世界が実現したのかはっきりとはわからないんです。時代の流れというのか、機が熟したとでもいうのか、ある時期からはっきりと時代の流れる向きが変わりはじめたのです。その原因といっても、無数の要因が絡まりあって複雑すぎて誰にも説明がつかないようなものなのですが、いずれにしても、人間同士の何千年にもわたる無益な争いに嫌気がさしたことや、人間と自然環境との関係に対する本質的な理解が深まったことや、物質的な幸せの限界と空しさのようなものを感じ始めたことや、不安定な政治経済情勢を子や孫たちのためにもっと安定なものに変えたいといった願いが強まってきたことや、そのほか、子供たちの非行問題や、老後問題、また人類の未来に対する漠然とした不安や何やかやがひとつにまとまったりなんかして、いつのまにか理想的な地球社会実現への機運が盛り上がってきたといった具合なのです。もちろんそのような流れの中で、ロータスネットワークが中心的な役割を果たしたことは事実なのですが、それもどれだけ実質的な働きを担ったかはよく分からないのです。歴史は後から振り返ってみてどのようにでも筋立てて説明することはできるのですが、現実の流れのなかでどのようであったかは誰にも本当のところは分からないのではないでしょうか。しかし、時代が進むにしたがってロータスネットワークが理想社会実現のための明確な思想的指標を与えたことは事実なのですが…」
「しかし、それにしてもまだ理解できないのは、この地球上から国家がひとつ残らず消えてしまったということなのです。あのアメリカや中国やロシアやイギリスやフランスやドイツそれに日本はどこへ行ってしまったのでしょうか。」
「みんな自然消滅してしまったのです。それぞれの国はそれぞれの経過を辿っていつの間にかその必要性を失ってしまい結局消滅してしまったのです。それぞれの国民がそのほうがいいと思い始め、その消滅に際しても何の不都合も感じなくなってしまったからなのです。むしろ国家がなくなっていいことのほうがよほど多いことが実感されてきてから、それはもう後戻りすることのない決定的な歴史的流れになったのでした。」
「へえ、そうでしたか。
本当に人類の歴史においては将来なにが起きるかだれにもわからないものですねえ。」
「この世にはだれも、正確に未来を予測できる人などいませんからね。」
「ええ、ほんとにそうですね。」
そのとき、玄関先から耳に快い若い女性の声が聞こえてきた。
「ただいま。」
「あ、お姉ちゃんだ。お姉ちゃんが帰ってきた。」
と言いながら、急いで理沙は玄関口へ姉を迎えに行った。