その時キッチンからセレステさんがお茶を持ってリビングに入ってきた。
「お早うございます、小山さん。
昨夜はよく眠れましたか。」
「お早うございます、セレステさん。はい、おかげ様でぐっすり...」
「それはなによりでした。さあ、お茶をどうぞ。」
「はい、どうもありがとうございます。」
「朝ごはん、すぐ用意できますから、しばらくお待ちくださいね。」
「はい、どうも、すみません。 ...ああ、そうだ山本さん、今朝、温室の黄色い睡蓮の花びらの上で雨蛙が寝ていましたよ。」
「ははは、温室の雨蛙をご覧になりましたか。 小山さん、どうもその雨蛙は黄色い睡蓮の花びらが大好きなようなんです。よくその上で寝ているんですよ。」
「そうですか。しかし、睡蓮の花びらで寝ている雨蛙って可愛いものですね。」
「ええ、ほんとに可愛いものです。
考えてみれば、この世に生きているものはどれもみんな可愛いですね。 グッピーも、メダカもゲンゴロウもドジョウもみんな可愛いです。 ところで小山さん、モニターで今日のわたしたちの小区の予定を見てみましょうか。どこで、どんな催し物があるかひとつ見てみましょう。
えーっと、そうですね、今日は公園で俳句会に、大道芸に、テニス大会に、バザールに、公園の樹木の剪定と整姿のボランティア活動、そのほか釣り大会などいろいろありますね、まあ、今日は土曜日ですからね。」
「すみません、山本さん、今、わたしたちの小区、と言われたでしょうか。そうしますとこの地区はいくつかの小区に分かれているのですか。」
「はい、そうなんです。この地区は17の小区と5つの山里地区に分かれています。一番大きな小区は中央公園を中心とした中央区で人口は2万人です。残りの16の小区の人口は九千人から一万二千人までの間にあります。山里地区は千五百人から二千人までで、主にそれぞれの近くの山林の管理にあたっています。それで、17ある小区はその中心にそれぞれの地区の公園があって、その公園を中心に円形や馬蹄形に住居が取り巻いているのです。そして、地区ごとにテレポーターによる連絡網が築き上げられています。そしてそれぞれの小区はそれぞれ特色のある公園を造り、それを管理し、また独自のコミュニティー運営を行っています。それから、小区にはさらに千人単位のサブ・コミュニティーがあって、その中心に食品集配所が設けられているのです。」
「ああ、なるほど、やはり生活の実情に合わせてそれぞれの小区も適切な規模の区分けがなされているのですね。 そして、その一番身近なコミュニティーがサブ・コミュニティーであり、その他に五軒の緊急連絡網もあるんですね。」
「はい、そうなのです。そして、小区やサブ・コミュニティーで何か住民の意見を聞かなければならないようなことが起きると、その都度、臨時委員会の委員が選挙あるいは抽選によって選出され、その臨時委員会によってさまざまなことが取り仕切られて一つの結論へと導かれていきます。そして、いったん結論に達すると臨時委員会は解散するのです。」
その時、姉妹が揃ってリビングに入ってきた。二人とも普段の部屋着らしいゆったりとしたワンピースを身につけていた。
「お早うございます。」
「あ、お早うございます美沙さん。今日はよろしくお願いします。」
「こちらこそよろしくお願いいたします。」
「小山さん、今日はいろんなところへ行きましょうね、きっと楽しいことがいっぱいあるわよ。」
「ほんとに楽しみだな。」
「小山さん、今日は九時頃に、中型のエアーカーに乗って一・二時間ほど、高度百メートルから五百メートル位のところからこの地区のパノラマをご覧いただきます。その後は、小型のエアーカーを使ったり自転車に乗ったりしながら、いろいろなところを目の前で見ていただきながらご紹介していく予定です。」
「そうですか。それではまずこの地区の全体の様子を空から眺めることが出来るのですね。」
「はい、それがこの地区を知っていただくのに一番理解しやすい方法だと思いますので...」
「いやあ、ほんとに楽しみになってきました、上から眺めたこの地区のパノラマはどんなものでしょうかねえ。」
「小山さん、高い空からこの街を眺めるのはわたしも今日が初めてなのよ、だからとっても楽しみなの。」
「えっ?
理沙ちゃんもまだ見たことが無かったの?」
「そうよ、写真で見たことはあるけど、実際に見るのは初めてなの。」
「そうなんだ。」
「美沙、理沙、もうすぐごはんだから、食卓の用意をして頂戴。」
「はい。」
二人は台所に入っていった。
それからまもなく食事になり、納豆に焼きタラコにあさりの味噌汁に焼きのりに隣のキムさんから戴いたキムチのおかずでおいしく頂いた。
食後しばらくして, 着替えを済ませた山本さんが、自転車に乗って委員会の会場である中央公園へと向かった。
それからしばらくはモニターで世界のニュースを見ながら取り留めもなく話しながら過ごしていたが、やがて二人の姉妹は着替えやそのほかの仕度のために二階へ上がっていった。
「ああ、そうだわ、小山さん、一つお願いがあるんですけどよろしいかしら。」
「はい、セレステさん、何でしょうか?」
「わたくしは今日10時頃におじいさんの家に行くのですが、たぶん美沙たちもこの地域の案内の途中でその家に立ち寄ることになると思います。それで、実は、今年80歳になる義父は少しボケが始まっていまして、小山さんにお会いしても少しとんちんかんな受け答えをすると思うんです。その時、申し訳ないんですけど、すべて義父の世界に合わせてあげていただきたいんです。どうか、よろしくお願いします。義母の方はしっかりしていますので問題は無いのですが...」
「はい、分かりました、もちろんです。」
「義父は、暴力を振るうとかという事は無いのですが、時々、人を取り違えてしまうんです。ですから、あるいは小山さんを誰か義父の昔の知り合いと取り違えて話しかけてくるかもしれませんが、その時はどうか義父の世界に合わせて振舞っていただきたいのです。」
「はい、お安い御用です。」
「どうもありがとう、小山さん。ボケの始まった人たちにも、いつまでも自尊心は残っているんです、そしてその自尊心が傷つけられるとその人はたちまちそれに敏感に反応して、子供のように反抗したり暴れたりしてその感情を表わそうとするものなのです。ですけど、どんなに痴呆症が進んでしまった人でも、その人の自尊心を傷つけるようなことさえしなければそれほど凶暴になることもないのです。」
「なるほど。どのような人でもその人の人間としての尊厳を尊重して接してあげなければいけないんですね。」
「はい、おっしゃる通りなのです。どのようなことも環境しだいで良くも悪くもなるのです。老人のボケ症状もまた同じなのです。今は義母がまだ達者で、また元来しっかりした人なので、わたくしたちも週に一、二回お見舞いがてらお手伝いするだけで済んでいるのですが、これからどのように症状が進行していくか分かりませんので、その時その時に応じて最善の方法と環境を整えていきたいと思っているのです。そして、出来るだけ身内の者で、自宅で介護していきたいと思っています。それでもどうにもならなくなれば、施設にお世話になろうかと考えているんです。しかし、それはあくまでも最後の最後の手立てなのです。」
「皆さんにそれだけ手厚く思われていらっしゃるのであればお義父さんもお幸せですね。こちらでは、健康なときも病気のときもそしてきっとこの世に別れを告げるときにも、いつも人間としての尊厳を失うことがないのですね。」
「はい、それはわたしたち住人一人一人がいつも心掛けていることなのです。人間としての尊厳を失ってはこの世に人間として生を受け、人間として生きていく価値がありませんからね。これはわたくしたちにとってもっとも基本的な、大切に守られなければならない本質権の一つなのです。」
「なるほど...。ところでセレステさん、昨日いろいろなお話を聞かせていただいたんですが、最後にもう一度PLEROMAについて教えていただきたいのですが。
」
「はい、どのようなことでしょうか。」
「結局、PLEROMAって何なのでしょうか?」
「そうですね...、PLEROMAって結局のところ、この世のすべてのものの源なのですが、それはつまり浄らかなエネルギーが充満している世界なのです。ですから、そのようなPLEROMA世界から生まれてきたこの世のあらゆるものも皆、同じように浄らかなエネルギーなのです。それで、もちろん、一人の例外もなくわたくしたちすべての人間の心も体も浄らかなエネルギーですし、浄らかなエネルギーで作られたいのちなのです。
ですから、わたくしたちはその浄らかなエネルギーに相応しく浄らかに生きていかなければならないのです。そのためには自分たち一人一人が自分自身の心を浄らかにし、自分たちが住んでいる社会のシステムを浄らかにしていく必要があるのです。そして、そのような考えを基にして、ロータス元年から二百年掛けて築き上げられてきた社会が、わたしたちが今生きているこの社会なのです。」
「ああ、なるほど、よく分かりました。皆さんにとってこの世のすべては浄らかなエネルギーなのですね。
結局、すべては聖なるものなのですね。 つまり、時間も空間も物質も生命も精神も、この世の何もかもが...」
「ええ、まったく小山さんのおっしゃる通りなのです。」
その時、これからわたしにこの地区の案内をしてくれる姉妹が二階から揃って下りてきた。美沙さんは黒のタンクトップに白のスラックス姿で、そして、理沙ちゃんの方はと見れば、黄色いTシャツに同じ色合いのキュロットを身につけていた。そして、それは全体がまるで蝶のような形をしており、またそれらにはモンキチョウのような模様がプリントされているのだった。
「理沙ちゃん、今日はモンキチョウだね!
可愛いね、すごく似合っているよ。」
「そうよ、わたしは今日はモンキチョウなのよ!」
「この調子じゃ、理沙ちゃんそのうち大きくなったら、アゲハチョウや大紫蝶に大変身しそうだな。」
「うふふ、さあ、どうかなあ。
小山さん、わたしにアゲハチョウになって欲しいの?」
「うん、そうだな、理沙ちゃんがアゲハチョウになったらどうなるか見てみたいものだな。」
「そう、それじゃ、いつかわたし小山さんのためにアゲハチョウになってあげてもいいわよ。」
その理沙ちゃんの話し振りにはどこか大人のわたしをからかう様な調子があった。
「んーん? いやあ、どうも理沙ちゃんには負けるよ、今からこれじゃ、僕なんかとうていいつまでも太刀打ちできそうにないなあ。」
「なあに、小山さん、それ何のこと?」
と、理沙は少しとぼけた口調で言った。
「小山さん、今から十五分ほど後にエアーカーが表の通りに来ますから、それに乗ってわたくしたち出発することになりますので...」
「あ、そうですか、十五分後ですね。分かりました。ありがとうございます。いよいよ出発ですか。」
「ええ、もうすぐに出発ですわ。」
「いやー、何かほんとにワクワクしてきますね。この先なにがわたしを待っているんでしょうか。」
「それは見てのお楽しみですわ。でも、わたくし上手くご案内できればいいんですけど...」
「とんでもないです。美沙さんに案内してもらえるなんてわたしもまったく運のいい男ですよ。」
「まあ、そんなに言っていただいて、わたくしも光栄ですわ。でも、その分だけプレッシャーも感じますけど。」
「まあ、わたしなど、美沙さんが未来の地区改善員さんになるための練習台のつもりで気楽に案内していただければもう十分ですから。」
「ほんとに小山さんて優しい方ですね。」
「いやー、そんなことないですよ、あはははは。」
「小山さん、理沙がちゃんと案内してあげるから心配しないでね。」
「................」
「さあ、出発前に、お茶をもう一杯召し上がれ!」
「はい、ありがとうございます。
じゃ、いただきます。 なぜか、ちょうど咽喉が渇いていたところなんです。」