「お姉ちゃん、エアーカー、もう来てるよ。」 玄関先から理沙の明るい声が響いてきた。
「はーい。 では小山さん、そろそろ参りましょうか。」
「はい。 いよいよ出発ですね。」
「気を付けて行ってらっしゃい。」 セレステさんが玄関先でわたしたちを送り出してくださった。
「行ってきまーす。」 理沙の元気な声が答える。
「行ってきます、お母さん。 それじゃ、また後で、おじいさんの家で、ね。」
「行ってきます。」 わたしもセレステさんに挨拶を返しながら山本姉妹と共に庭の細い道を通りへと歩き始めた。
庭の門の前には、きのう山本さんと乗ってきたものよりは一回り大きいエアーカーが待っていた。
美沙さんがテレポーターからシグナルを送ると、エアーカーの透明な両翼が静かに開いた。
わたしと美沙さんが前の座席に、そして理沙ちゃんが後ろに座った。
翼が閉じるとまもなくエアーカーは高速エレベーターのようにまっすぐ上昇し始めた。見る見るうちに高度300メートルに達すると、さらに上昇し続けながら南の方角に向かって滑空し始める。
後部座席の理沙ちゃんの、嬉しさに興奮した声が車内に響いた。
「わあー、写真で見たのとそっくり。ほんとにきれい。ねえ、小山さん、きれいでしょう!」
「うん、ほんとにきれいだね。 美沙さん、ほんとに素敵な町の眺めですね。こんな町がこの世にあるとは信じられないくらいです。」
「ええ、ほんとうに。 この景色はなんど見ても美しいですわ。見るたびにますますこの町が好きになる。」
エアーカーはさらに高度を上げながら広い田園地帯のようなところを過ぎて、やがて眼下に植林された山々が見える地点に差し掛かった。高度計を見ると600メートルを指していた。
「小山さん、わたくしたちの地区はこの下に見える山々から北に向かって広がっているのですよ。西側には川が流れていて、ほらあそこに光っている一本の筋が見えるでしょう、あの筋がずっと北の海岸線にまで伸びているのです。丁度あの川がわたくしたちの地区の西の境界線になっていて、その対岸には生き物たちのサンクチュアリがずっと隣の地区まで広がっています。サンクチュアリには許可をもらった生物学者などが研究のために入ることが出来るだけで、一般の人が入ることは禁じられているのです。ですから、あの川には一つの橋しか架かっていなくて、その橋も研究者が使う時以外は閉ざされているんですよ。」
「あの川の向こう側ですね。見渡す限り自然の森が広がっているんですね。ほんとに広いですねえ。」
「ええ。あの広いサンクチュアリで、いろいろな種類の動物や鳥たちが、自然のままの豊かな森の中で自由に生きているんです。」
「いろんな蝶々や昆虫もたくさんいるのよ。」
「ああ、きっとたくさんいるだろうなあ、ぼくがまだ見たこともないような蝶や虫たちが...」
わたしは理沙ちゃんの顔を肩越しに見ながら言った。
理沙ちゃんの紅潮した笑顔が頷く。
「小山さん、この下に見える二つの植林された山までがわたくしたちの地区で、その奥にある緑のよりいっそう濃い山々はそのままあのサンクチュアリに続いているのです。わたくしたちはなるべく広く連続したサンクチュアリを野生の生き物たちに与えてあげたいと考えているのです。ひいてはそれがわたくしたち人間にとっても安全で豊かな自然環境を保障してくれると考えるからなのです。自然と人間はどこまでもつながり合った一つのものですし、お互いがお互いに影響し合っているものですからね。それから、わたくしたちと同じ今を生きているあらゆる生き物たちは、わたくしたちと同じように、この地球上に命が誕生してから38億年の長い年月を、さまざまにその姿や形を変えながら、それぞれの道を連綿と生き継いできたいのちの兄弟姉妹たちやいのちの同士たちなのですものね。」
「ええ、本当にそうですね。」
「それから、あの山のふもとに広がっている集落がわたくしたちの地区に五つある山里地区の内の一つなのです。そしてあの散在して見える、小さな四角い区画がこの山里地区の家なのです。山里地区だけは一つの区画が700u、昔の坪数に換算すると200坪ほどになるのですけど、それだけの広さの土地が特別に割り当てられているのです。その代わり、家の周りの丘陵には牛やニワトリなどが放し飼いになっていて、また、住宅地区ほどには娯楽施設や運動施設などが充実していないのです。ですから、ここには自然の中で自然とともに生活したいという思いの強い人たちが住んでいるのです。山里地区の人たちは主に林業や牧畜や養鶏の仕事に従事しています。もちろん、希望すれば他の地区に移ることも出来ますし、また、他の地区のさまざまな施設を利用することも自由にできるのですが...」
「山にはいろんな種類の樹が植えられているのですね。」
「ええ、昔のように杉などの一つの種類だけを植えると花粉の季節にはアレルギー症状で悩まされる方なども増えますから、一つのものに偏ることなく、いろいろな種類のものを植えています。わたくしたちの社会ではどのような形でも一方に偏ることや部分的に偏ることを注意深く避けているのです。社会問題の多くは一方への偏りから生まれるものですからね。わたくしたちは何事にも全一的な調和を心掛けています。ところで、全ての山里地区に生えている樹木の種類や樹齢やその大きさなどが一本一本記録管理されています。そしてそれらが必要に応じて伐採されて住宅の建築などに使われるのです。ほら、あそこに大きな屋根が見えるでしょう。あそこが製材所兼材木置き場になっているのです。新しい木材だけでなく、取り壊された建物などのまださまざまな用途に使える古材なども蓄えられています。」
「全てが無駄なく管理されているのですね。それにしても、見渡す限りどこまでも緑、緑、緑ですね。」
「はい、わたくしたちはできる限り、住環境などにも緑を多くしたいと思っています。草木の緑は空気を新鮮にしてくれますし、気温の変化なども穏やかなものにしてくれますし、なによりもわたくしたちの眼にも心にも優しいですからね...」
「なるほど、そうですね。」
「なるほど、そうですよ、小山さん。」
「ん。あ、理沙ちゃん、ぼくをからかってるな。」
「え?なんのこと?」
「理沙ちゃんたら。駄目よ、大人の人をからかったりしちゃ。」
「好いもん。ねえー、小山さん。」
「まあ、理沙ちゃんならいいか。」
「ほら、ね。 だからわたし小山さん大好き。」
「あはははは。参ったね、これは。 ところで、美沙さん、いたるところで何かきらきら光って見えるんですが、あれは何でしょうか。」
「ああ、あれですか、あれは水路が光っているんですよ。田園地帯や住宅地のいたるところに水路が張り巡らされているのです。」
「水路ですか。」
「はい、水路なのです。 でも、コンクリートで造られたものは一つもありません。みんな、石造りのものや木などで造られたものなのです。自然によりなじみやすいように造られているのです。その水路にはたくさんの魚やえびやカニや水生昆虫などが棲んでいます。蛍もたくさんいるのですよ。それから、子供たちの魚釣りや川遊びの格好の場にもなっているのです。」
「それなら子供たちも大喜びでしょうね。」
「わたしも小さい頃よくお父さんに連れられて川で遊んだわ。今でも時々友達同士で遊んでいるのよ。川遊びはみんな大好き。透き通った水の中で魚が泳いでいるのを見てるだけでも楽しいわ!」
「それから今の季節は蛍がとてもきれいなのですよ。」
「蛍ですか、もう長い間見てないから久しぶりに見てみたいなあ。」
「今夜一緒に見に行こうよ、小山さん。ほんとにたくさん蛍が飛んでいるのよ。」
「ええ、そうね。 今夜みんなで蛍を見に行きませんか、小山さん。きっと小山さんにも気に入っていただけると思いますわ。」
「はい、ぜひ見てみたいです。きっと美しいだろうなあ。」
「とってもきれいよ、小山さん。」
「水路については、エアーカーでこの地区の上空を一巡りし終えた後、小型のエアーカーや自転車に乗ったり、歩いたりしながらご案内するときにじっくり見ていただきますわ。それではこれから少し北に向かいます。ご覧のように、山里地区に引き続いて田園地帯が広がっています。田園地帯にはまず広い水田地帯があり、それから麦や蕎麦や粟や稗などのほかいろいろな豆類の畑地が続き、さらには果樹園とイモ類やさまざまな野菜類の畑が縞状に続いています。」
「ああ、素敵な眺めですね。」
「水田はすべて無農薬の有機栽培で、さまざまな品種の普通米のほか陸稲やもち米なども耕起栽培や無耕起栽培で作っています。ですから、水田にはタニシやドジョウやめだか、そのほかいろいろな虫たちが一緒に住んでいます。タニシやドジョウなどは時々わたくしたちの食卓にも上るのですよ。」
「タニシですか。わたしはまだタニシを見たことがないんですよ。」
「え? 小山さんまだタニシ見たことないの。じゃあ、まだ食べたこともないのね。あんなおいしいものまだ食べたことがないなんて...」
「小山さん、また、水田にはカルガモやサギやトキなどの鳥たちもたくさんいるのですよ。ですから、田園地帯は生き物たちの本当に豊かな生活の舞台にもなっているのです。その様子はいつまで見ていても飽きないくらいですわ。」
「それでは今はここにも、あの遠い昔にあったのと同じような本物の自然が帰ってきたんですね。上から見てもほんとに穏やかでいい眺めですね。たくさんの生き物たちの集う自然の景色は遠目にもほんとうに美しくて豊かなんですね。」
「ああ、ほんとにきれい!」
「きれいだね、理沙ちゃん。」
「小山さん、あの右側に続いている山々のふもとには、残り四つの山里地区が海岸線の真近くにまで続いているのですよ。そしてその内お気付きになると思いますが、あの山々と西の川筋とに枠取られたこの地区の平地部分はちょうど瓢箪のような形をしているのです。」
「瓢箪ですか、それは面白いですね。」
「はい、ちょっと歪な形の、細長い瓢箪のような形をしているのです。」
「あ、あそこに住宅地が見えてきた。」
「あの住宅地はこの地区の一番南側にある小区なのですよ。あの住宅地の真ん中辺りにある広場があの小区の公園です。公園の中やその周囲には運動用や娯楽用のさまざまな種類の施設があります。」
「あれ、あの小区全体が何か花のような形に見えますね。それともこれはわたしの眼の錯覚なんでしょうか。」
「いいえ、小山さん、実はあれは咲きかけの黄色い睡蓮の花を模ってあるのです。上空から眺めると、公園と住宅地と道路の全体の配置がちょうど咲きかけの睡蓮の花に見えるように最初から設計されているのです。他の16の小区もみんないろいろな種類の睡蓮の花を模っているのです。ですから、天気の良い日に、この地区全体が見渡せるほどの高さから見下ろしてみると、いろいろな色の睡蓮の花咲く瓢箪池が見えるのです。」
「まったく驚きますね、皆さんにそんな遊び心があるとは。」
「ええ、わたくしたちは本質的なことの中に遊び心をそえることも忘れません。本質的なことはその究極的な形では純粋な悦びに他ならないとわたくしたちは考えているのです。ですから、本質を生きながらわたくしたちはみんな生きていることの純粋な悦びをも味わっているのです。」
「ああ、なるほど、皆さんの中に本質的な緊張感のようなものの中にも大らかなゆとりを感じるのはそのせいなんですね。皆さんは本質を生きながら同時に純粋ないのちの悦びを味わっていらっしゃる。」
「はい、その通りですわ。」
「小山さん、生きているってほんとに楽しいことよ。」
「まったく、ここでは生きていることがそのまま純粋な悦びなんですねえ。わたしはこれまでいつも何かに追われるように生きてきてそのように感じたことがほとんどなかったようにすら思えてきます。まったくこれまでの人生はなんといういのちの無駄遣いだったのでしょうか。わたしはこのLOTUS世界に来ることができて、そのうえ皆さんに会うことができて本当によかった。皆さんは大自然との調和の中で、本当の自分を生きながらその生きることを本当に楽しんでいらっしゃる。」