第二部
LOTUS 200 U-1
翌朝、戸外で雨が降っているような音で眼が覚めた。すでに室内は外からの光で明るくなっていた。時計に目を遣った。5時半だった。温室のガラス戸越しに外を透かし見ると、青い空が目に映った。少しも雨が降っているようには見えなかった。
わたしはベッドの上でゆっくりと上半身を起こした。そして、まだねむい眼を凝らして外を覗い、その雨音のような音の正体を見極めようとした。やがてそれが庭の草木に散水している音らしいと思い至った。しかし戸外に人影らしきものはなかった。どうもそれは決められた時間に自動で散水されているもののようであった。ここではほんとうにいろいろなものが自動化されていて、科学技術の便利さを十二分に享受しているらしかった。
ベッドから抜け出すと廊下に出た。まだ山本家の人々は誰も起き出してはいないようだった。わたしはトイレに入って小用を足した。そしてまた部屋に戻ると温室を眺め始めた。
きのう美事に開いていた夜咲きの睡蓮はその花びらを閉じかけていた。一方、すみれ色や黄色の昼咲きの睡蓮がその花弁をきれいに開いていた。その様子には、昨晩見た紅白の花が鮮やかに咲いている趣とはまた違った華やかさが漂っていた。
その時ふと、黄色い睡蓮の大きな花びらの上で、一匹の小さな雨蛙が、その手足をきれいに折りたたんで眠っているのに気が付いた。その雨蛙のつややかな黄緑色の肌が美しかった。さらに視線を池水の中に向けると、睡蓮の大きな浮葉の下で、形も色も大きさもさまざまな、熱帯魚のめだか、グッピーが、さかんに尾を振りながら泳いでいた。
そんなグッピーたちの泳いでいる様子を眺めながら、わたしは山本さん一家と共に過ごした昨日の不思議な時間を静かに反芻していた。そしてこのロータス世界では、この世のありとある一切のものの根源的な母胎である全きPLEROMAそのもののように、あらゆるものと一つになろうとする愛の働きを通して、すべてのものとの間にいかなる差別もいかなる偏りも無い完全バランス状態を築き上げようとしているのだ、ということを思い返していた。セレステさんの、この地球世界をPLEROMAのように愛が充満する完全調和世界に変えていきたいという祈りが、そのままこのロータス世界全体の祈りでもあるに違いないと思った。そしてその祈りとともに、それぞれの家庭のみならず、地域社会と、ひいては地球社会全体のあらゆる物事を理想的な状態へ近づけて行こうという努力が、住民全員の手によって日々積み重ねられているのだと想われた。それが当然のことのようにして行なわれるさりげない愛と知恵の働きによって、住民一人一人がその精神性をお互いに高め合い、ひいてはさらに、地球社会全体のシステムを完全化していこうとする本質的で生き生きとした生活がここにはある。そして、今日はそんな理想的な世界を実際に見てまわるのだと思うとやはり心が躍るのだった。
わたしはそのまま着替えを済ませてしまった。
それからほどなくして部屋の外で人の動き出す気配がし始めた。
ドアを開けて部屋の外に出てみると、廊下の向こうからやって来る山本さんの姿が眼に入った。
「おはようございます、山本さん。」
「あ、小山さん、おはようございます。昨夜はよく眠れましたか。」
「はい、おかげさまでぐっすり眠れました。」
「それはよかった。小山さん、こちらに歯ブラシとタオルがありますので、どうぞお使いください。」
「すみません。ありがとうございます。」
「それから、朝食は7時頃になりますのでそれまでは自由にしていてください。」
「はい、分かりました。」
「それから、わたしは食事をしてしばらくしたら出かけますが、小山さんたちは多分9時ごろに家を出ることになると思いますから...」
「そうですか。分かりました、ありがとうございます。」
わたしはさっそく洗面所に行き、歯磨きと洗面を済ませた。それからまた部屋に戻ってきて温室のランの花や睡蓮の花を眺め始めた。そのうちふと外でしていた散水の音が消えていることに気が付き、庭に出てみた。庭の土はもう隅々まで水を撒かれて黒く湿っていた。菜園の様子や果樹の様子を眺めながら、LOTUS
200年7月5日のすがすがしい朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。
「おはようございます。」
すぐ近くからの声だった。急いで声のする方に顔を振り向けると、右隣の庭の通路に、五十代半ばと思われる優しそうな眼差しの女性が一人、こちらを向いて立っていた。
「おはようございます。」
「山本さんの家のお客様ですか?」
「はい。昨日お邪魔して泊めていただいた者です。小山といいます。」
「小山さんですか。ああ、そうですか。わたしはキムと申します。」
「キムさんですか?」
「はい。三年前に一人娘がこちらの地区の人と結婚したものですから、そのとき夫と共に半島の北の方からこの地区に引っ越してきたのです。」
そのときはじめて、その女性の日本語に少し韓国語訛りのようなものを感じた。
「ああ、そうですか。こちらの生活はいかがですか?」
「こちらは向こうに比べると気候が穏やかな分だけ過ごしやすいようです。」
「そうですか。わたしは今日、こちらの美沙さんや理沙ちゃんに、この地区の案内をしてもらうんです。」
「おや、そうでしたか。ここにはいろいろ面白いところもありますから思う存分楽しんでいってください。」
「はい、ありがとうございます。ところで、キムさんのお庭にはどんな果樹が植えられているんですか?」
「みんなわたしたちの前に住んでいた人から受け継いだものですが、栗や胡桃や柿や花梨や枇杷などがありますよ。みんなよく実を付けてくれます。ご近所の人たちとお互いの果実を分け合っているのですよ。」
「それはいいですね、季節ごとにいろんな果実が楽しめて...」
「ええ、ほんとうに。それでは、ちょっと失礼します。」 と言いながら、キムさんは菜園の方に足を向けた。
わたしは通りに面した入り口近くにあるキャベツ畑のところに来た。その辺りを眺めながら、ここがこれから理沙ちゃんの蝶の花園になるのだと思った。今はモンシロチョウや小さなシジミチョウしかいないこの辺りに、来年からはいろいろな種類の大きなアゲハチョウなども飛び回るのかと思うと何となくわたしまで嬉しくなってきた。そして理沙ちゃんの輝くような笑顔が脳裏にハッキリと浮かんできた。
通りを眺めてみたが、まだまったく人の気配は無かった。ここには新聞配達人もいないようだった。通りの幅は6メートルくらいで、30センチ四方のオリーブ色のセラミックタイルのようなものがきれいに敷き詰められていた。そしてどこにもコンクリートやアスファルトのようなものは見当たらなかった。
あたりからはスズメやキジバトやヒヨドリや尾長やカラスなどの鳴き声が頻りに聞こえてきた。どこで飼っているのか、うずらやニワトリの鳴き声も聞こえてくる。それから驚いたことに、左隣の庭のすぐ近くの木に、枝をつつきながらすばやく動き回るコゲラの姿が目に入ってきた。その可愛らしい姿に引き付けられてしばらくその姿を追い続けた。ここでは濃い緑の中で、生き物たちも生き生きと暮らしているようだった。
わたしは踵を返して庭の通路を引き返し始めた。そして、昨日見たヒメスイレンの咲いている池の前に立った。
黄色や白色のヒメスイレンの花を見ているうちに、池の縁の方に少し大きい白い睡蓮の花を見つけた。それはどうもヒメスイレンとは違う種類のものらしかった。わたしはその清楚な感じのする花にしばらく見惚れていた。
それから池の生き物たちの姿に目を向けた。池の中のいたるところに黒メダカが泳いでいた。また、ヤゴの姿もあちらこちらに見受けられた。あめんぼも水面を滑っていた。それから、水澄ましも泳いでいた。カエルやゲンゴロウもいた。また、池の周りにはトンボやトカゲやバッタなどもいた。
その時、背後からまた女性の声がした。
「小山さん。」
「はい。ああ、キムさん。」
「これ、わたしが漬けたキムチです。少ないですが、皆さんと朝ごはんにでもどうぞ召し上がってください。」
と言いながら、垣根越しにキムチを入れた容器を手渡してくれた。
「ああ、すみません。それじゃ、遠慮なくいただきます。これはおいしそうなキムチですね。」
「ちょっと辛いかもしれませんよ。」と言うと、キムさんは微笑みながらふたたび家の中に戻っていった。
わたしもそのキムチを持って、山本さんの家に戻った。廊下を歩いていると階段からパジャマ姿の理沙ちゃんが下りてきた。
「あっ、理沙ちゃん。お早う。」
「お早う、小山さん。もう起きてたの。」
「うん。庭の水撒きの音で目が覚めたみたいでね。あ、それで、これ、お隣のキムさんの奥さんからいただいたキムチ、朝食にでもどうぞって。」
「うわー、キムさんとこのキムチ? わたし大好き。これとってもおいしいのよ。ラッキー!
後でみんなといっしょに食べましょうね。 あっと、それから小山さん、今日わたしたち9時ごろに出発しますからね。」
「はい、そうらしいですね。先ほどお父さんから聞きました。」
「あっ、そう、お父さんから聞いたの。それならいいけど。それから、うちでは朝食はいつも7時頃になるから、まだゆっくりしててもいいよ。」
「はい、分かりました。それじゃ、また、後で...」
わたしは理沙ちゃんと別れてまた部屋に戻った。
ガラス戸の隅においてあった腰掛に座って温室を眺めているうちいつしか、自分の記憶の糸を手繰り始めていた。しかし、その糸は7月1日あたりで切れているらしかった。アメリカから日本政府に、日本企業とイランとの間のアザデガン油田開発事業の契約の調印を延期すべきだと言ってきたところまでの記憶は残っていた。しかしそれから以後の記憶は個人的なものも社会的なものもまったく無かった。それから何が自分に起きたのか皆目見当が付かないのだった。しかし、今の状況が悪夢のようなものであればわたしも慌てふためいて嘆かなければならないところだが、その逆に今は居心地のいい理想世界にいるのであってみれば、過去の記憶の無いこともそれほど気にはならないのだった。そして今はこのような絶好の機会をできるだけ楽しんでみようと思った。記憶が戻って昔の世界に帰ったとしても、今より何一ついいことはなさそうに思われるのであってみればなおさらそう思われてくるのだった。そして、このロータス世界から日本社会を眺めてみると、物はあふれているが、心はひどく貧しい国のように見えてくるのだった。
そのとき、ドアをノックする音がして、山本さんが部屋に入ってきた。
「小山さん、朝食の支度ができるまでリビングに来てニュースでも見ませんか。」
「はい、すぐ行きます。」
リビングへ行くと、台所からセレステさんが朝食の用意をしているらしい物音が聞こえてきた。
ソファーに腰掛けている山本さんの隣に座ると、モニターのニュースを眺め始めた。
「今日は何か特別なニュースはありますか?」
「いえ、とくに無いようですね。全ては順調に行っているようです。世界の他の委員会のニュースも見てみたんですがとくに変わった様子はないようですね。」
「山本さんの委員会の会合は今日何時から始まるんですか。」
「九時からなんですが、今日はわたしが司会の任に当たっているので、少し早めに行こうかと思っているのです。」
「そうですか、ごくろうさまです。場所はどちらですか。」
「はい、中央公園にある委員会事務所です。わたしたちが昨日降りたあの駅のある公園です。今日はそこまで自転車で行きます。」
「自転車だと大分掛かるでしょう。」
「ええ、20分ほどかかります。しかしちょうどいい運動になりますから。」
「そうですね。そのほうが体にいいですからね。ところで、山本さん、今朝、ヒメスイレンの咲いている池に行ってみたのですが、そこにヒメスイレンよりは大きい、それでも清楚な感じがする白い睡蓮が咲いていたのですが、あの睡蓮はなんという種類のものでしょうか。」
「ああ、あれは未草といって日本の山地の池や沼地に昔から自生している睡蓮なんですよ。わたしもあの素朴な感じがなんともいえず好きなんです。」
「睡蓮といっても、ほんとにいろんな種類のものがあるのですね。そして、みんな美しいですね。」
「ええ、それで、仏典の浄土三部経や法華経などに出てくるいろいろな色の蓮華も、その多くが睡蓮なのですよ。あのいわゆる蓮と呼ばれているものもスイレン科に属しているのです。」
「なるほど、睡蓮は仏教とは切っても切れない関係にあるのですね。」
「はい。それから、古代のエジプト神話においても、ナイル川に咲いていた青い睡蓮と白い睡蓮は神に関わる聖なる花として中心的な役割を担っていたのですよ。」
「やはり、睡蓮は永遠を表わすロータスとして、精神世界にとってなくてはならない象徴的な花なのですね。」
「はい、小山さんのおっしゃる通りなのです。」