LOTUS 200-15

 

 

 

「わたくしには小山さんが具体的にどんなことをお考えになってそう言っていらっしゃるのかよく分からないのですが。」

「ああ、はい、わたしの考えでは、セレステさんが毎日気をつけていらっしゃること、たとえば自分に対する(いまし)めとか、何を一番優先(ゆうせん)していらっしゃるかとか、何に一番価値があると考えていらっしゃるかとか、なにかそのようなことをお聞かせいただければ、このロータス世界のことが日常生活の中で具体的(ぐたいてき)なイメージとしてつかめてくるんじゃないかと思っているんですが。」

「それではわたくしが日ごろ気を付けていることとか大事にしていることなどをお話すればいいのですね。」

「はい、そうしていただければ、大変(うれ)しいのですが。」

「はい、それではうまくお話できるかどうか分かりませんけどお話してみますわ。そうですねえ、まずは、自分自身に対する(いまし)めのようなことからお話しましょうか。わたくしが一番気を付けたいと日ごろ考えているのは、自分の心の世界を(せま)くしないことでしょうか。ついついわたくしたちは自分の心の中の世界を自分の都合に合わせた狭いものにしがちですからね。そしていろんな人たちを、たとえば家族やそのほかの親族や友達といったようなわたくしたちに近くて親しい関係にある人たちを、自分のその狭い心の世界に無理やり合わせるように仕向(しむ)けたり、いろいろ批評してみたり批判してみたり、さらには非難したりすらいたします。批評や批判が悪いというのではなく、その批評や批判の基準(きじゅん)となっている世界観が問題なのです。その基準が、本当に客観的(きゃくかんてき)で、さらには全一的な本質に根ざしたものであればいいのですが、さも無い場合には、その批評や批判は単に自分を()するための道具や手段にしか過ぎないものになってしまいます。そして、そのような行為からさまざまな形のつまらない対立や軋轢(あつれき)や争いが生まれてくることにもなってしまいます。わたくしは自分自身がそんなことの原因にだけはなりたくないのです。まあ、結局わたくし、心の狭い利己主義にだけは(おちい)らないようにと心がけているつもりなのです。つまり、自分の言葉や行いが自己中心的な動機から出てきたものではなく、できる限り本質的な真理に基づくものであるように心がけているつもりなのです。それに、人は利己的な下心(したごころ)には敏感(びんかん)に反応し、それをすぐに見抜き、それに反発するものですから、結局そのような言動(げんどう)を取ればそのしっぺ返しがすぐに自分にはねかえってくることになります。まあ、それも自業自得(じごうじとく)なのですけれども...。これがわたくしがいつも最も気を付けていることなのです。それから、次にわたくしがもっとも大切にしていることについてですが、それもやはり本質(ほんしつ)最優先(さいゆうせん)にするということなのです。この世界の本質と自分の中の本質と、つまりこの二つの本質はもともと一つの同じものなのですけれど、その本質を最優先にするような生き方を大切にしていきたいと思っているのです。本質といっても少し分かりにくいかもしれませんが、それは簡単に言えば(もっと)根源的(こんげんてき)で最も基本的(きほんてき)で最も大切なもので、それが無ければそのほかのすべてのものが存在しなくなり、また、その存在している意味も失ってしまうようなものだといえると思います。簡単に言えばと言っておいてこれでは少しも簡単になっていませんわね。まあ、それでもなんとなくこれで少しは本質といわれるものの性質や、なぜそれが最優先に考えられ最優先に取り扱われなければならないかがお分かりになると思います。それで本質をもっと具体的に言ってみれば、これからはわたくしの一つの信仰(しんこう)のようなものになるのですけど、まず、このことは先ほど美沙も言っていたかと思いますが、ほかの多くの人たちと同じように、わたくしもまた、この世のすべてのものの(みなもと)であるPLEROMAと名づけられた超越的(ちょうえつてき)で完全な純粋エネルギー場を絶対的な本質として、そしてまたもっとも(せい)なるものとして信仰的に前提(ぜんてい)しているのです。そのPLEROMAからこの世のあらゆるものが生まれ出たと考えているのです。その結果、この世のすべての物事にはその絶対的な本質である超越的PLEROMAに内在(ないざい)している(ほう)ないし(りつ)ないし性質(せいしつ)といったようなものが同じように内在していると考えるのです。そして、この世のあらゆる物の本質はそのPLEROMAの内在(ないざい)(りつ)に従って変化していくことの中にあると考えます。そして、そのあり方はPLEROMAのように完全であること、つまり、部分的(ぶぶんてき)断片的(だんぺんてき)でないこと、つまり完全に統合(とうごう)された一体のものとして、部分的でありながらも同時に全一的にほかの一切のものと一体的に変化していくことなのです。そして、このことは、自然(しぜん)現象(げんしょう)のすべてに純粋に当てはまるのです。自然現象においてはすべては単に部分的にではなく全一的(ぜんいつてき)に転じていきます。そしていつも完全なバランス状態を維持し続ける方向に向かって変化し続けます。つまり、自然現象のすべては純粋で自然で完全で本質的なのです。そのような自然は、この世で最も高い価値を持つ本質的なものとして、またわたくしたち人間のいのちの(かて)として、さらにまた同時に、わたくしたちの生き方の(かがみ)として畏敬(いけい)感謝(かんしゃ)しなければならないものなのです。また自然は、わたくしたち人間を含んだこの地球上のあらゆる生き物を生み出した直接的(ちょくせつてき)母胎(ぼたい)なのですから、なおさら畏敬(いけい)感謝(かんしゃ)しなければならないのです。ところで、この地球上の生き物たちはみんな自分の生命をより()()()しようとする目的に向かって進化し続けています。この自分の生命をより良く維持し続けようとする働き(・・・・・・・・・・・・・・・・)は、物理的な自然界の原子や分子などがその環境世界の中で常に最も安定な状態を維持(いじ)し続けようとする働きの延長(えんちょう)線上(せんじょう)にある性質だと考えられるのですが、また、それよりも高いレベルの維持(いじ)安定(あんてい)、つまり、自分の意志的な働きかけによって環境を変化させながらその生命の安定をより信頼(しんらい)のおけるものにしようと工夫(くふう)し続けるようなそういう働きなのです。つまり、常により良く生き続けていこうと工夫(くふう)し続けながら、自分自身と自分を取り巻いている環境を変えていきます。そしてその傾向(けいこう)は、生命進化が進むに従ってより強くなっていき、やがてその意志の程度(ていど)相応(ふさわ)しい、より高い身体能力を身につけていきます。そして哺乳類(ほにゅうるい)にいたって、より大きな自由度とより高い知能を持つにいたり、さらには類人猿(るいじんえん)にいたって手で(たく)みに道具を(あつか)えるようになり、わたくしたち人類にいたっては、その能力は日を追うごとに飛躍的(ひやくてき)に高まり、今では地球上の生態(せいたい)(けい)激変(げきへん)させることができる力をさえ獲得(かくとく)するにいたりました。ところで、このような生命(せいめい)(けい)の進化の流れを見てまいりますと、残念なことには、わたくしたち人類において、その生命活動はいちじるしく本質的な方向から逸脱(いつだつ)してしまったように見えます。自己(じこ)維持(いじ)のための本質的生命活動がいつしか自己(じこ)破滅(はめつ)へと向かう活動へと変質(へんしつ)してしまっているのです。その最大の原因は、自己生命の維持(いじ)活動(かつどう)が本質すなわち全一的な完全バランス状態の中でこそ保障(ほしょう)されるものなのに、その本質的な世界との全一的(ぜんいつてき)連関性(れんかんせい)を見失ってしまい、単に部分的で一方的で自己中心的な欲望追求マシーンのようなものに変わってしまったことにあると思うのです。

このような、地球生命系の歴史、さらには人類の歴史の根本的で本質的な観察(かんさつ)反省(はんせい)を通して、わたくしたちはわたくしたち自身を、この大自然本来(ほんらい)の全一調和的な本道(ほんどう)へと引き戻したい、さもなければ、わたくしたちの生命活動の本当の願いとは正反対の自滅(じめつ)の方向へと突き進んでしまうことになると考えて、他にかけがえの無いこの地球社会を一日も早く本質化していこうという願いを胸に改善し続けてきたのです。そして今このように、わたくしたちはロータス世界に生きているのですが、このロータス世界を維持し、さらに末永(すえなが)くより良いものへと改善し続けていくために、わたくし個人としては、本質PLEROMAに内在(ないざい)している性質である、その一体的な完全性から引き出される(ぜん)()(しん)智慧(ちえ)正義(せいぎ)などといった性質をもすべて()かし込んだものとして、すべてのものと一つになろうとする働きである愛あるいは親和的な働きを通して、それを生活の中に(あらわ)して生きていきたいと思っているのです。人それぞれに、その気質(きしつ)や好みなどに合わせて、善を通してそれを表そうとする人もいれば、美や真理や智慧(ちえ)や正義などの形でそれを表そうとする人もいるでしょうが、わたくしは自分の性格にもっとも合った、自分にもっとも相応(ふさわ)しい、自分にもっとも自然なこととして、この世のすべてのものと親和(しんわ)して一つになろうとする愛によって、それを(あらわ)していきたいと考えているのです。わたくしにとって、あらゆる対立や差別を()えて、すべてのものと親しく一つになって生きたいという願いあるいは祈りを生きることは、わたくしの心をもっとも満足させてくれるものなのです。そのような愛の祈りを生きているとき、わたくしはもっとも幸せな気持ちになれるのです。そして、その幸せに包まれるとき、わたくしはいつも思わず生きていることに感謝(かんしゃ)します。わたくしにとって、この世界を愛に満ちたものにしたいという祈りは()むに已まれぬいのちそのものの(うなが)しなのです。それは永遠に変わることの無い、この世の本質だと信じているのです。いえ、わたくしの心と体がそうだといつも内側から訴えかけてくるのです。 そしてもしもこのわたくしたちのロータス世界がいつの日にかより完全なものとなったあかつきには、この世界はきっとあの聖なるPLEROMAのように愛そのものが充満している世界になっていることでしょう。愛はまったく対立のない理想社会実現のための原動力(げんどうりょく)なのですから、その愛を生きることを通して理想的な家庭を作り、理想的な地域(ちいき)社会(しゃかい)を作り、理想的な地球社会を作っていきたいという祈りを生きることは、わたくし自身の本質を生きることにもなるのです。そして、わたくしはこうも考えているのです。人は誰でも、善や美や真実やほんとうの智慧(ちえ)正義(せいぎ)や愛といったものに出会うとき、この世の本質に出会うのであり、この世の本質に出会うということは結局はほんとうの自分自身に出会うことにもなるのだと。そしてあらゆる本質は神聖(しんせい)なものであり、そのような神聖なものに出会った自分もまた(せい)なるものに(ぞく)しているのだと。そしてまた、人は聖なるものの領域(りょういき)においてのみほんとうに幸せになれ、真のいのちの満足を味わうことができるのだと。わたくしはそのように考えているのです。そして、いつもこの世の本質を何よりも最優先(さいゆうせん)に考えて生きていこうと心掛(こころが)けているのです。

ところで、この地球に生きているわたくしたちにとっての最優先の本質は、清らかな自然なのです。清らかな空気であり、清らかな水であり、清らかな土であり、また、そのような自然の中で(すこ)やかに生きている植物であり動物たちなのです。そして、そのような清らかで豊かな自然の中ではじめてわたくしたち人間もまた(すこ)やかに生きていくことができるのです。もしも、このことを忘れて、自分たちの欲望を最優先にして自然を汚し続け自然を(こわ)し続けるなら、わたくしたち自身が汚され壊されていくことになるのです。ですから、わたくしたちは皆、わたくしたちを取り巻いている大自然に感謝し、大自然を常に清らかに保ち、生きとし生けるものたちの健やかな環境とその中での生活を守っていこうと気をつけているのです。そして、そのような生き方の中から、わたくしたち自身の幸せをも築き上げていこうとしているのです。これがわたくしが日頃(ひごろ)から大事に思って生活していることのあらましですわ。」

「ああ、ほんとうによく分かりました。なるほど、そのように考えて生活していけばいいのですね。ほんとうにすばらしいことですね、ほんとうに感心いたしました。」

「ふふふ、また、小山さんの 『なるほど』 が始まった、『ほんとうにすばらしいことですね』 が始まった。」

「いや、ほんとうにすばらしいことです。わたしには、このようなほんとうのことが当たり前のことのように気楽に話し合える家庭や社会や世界がすばらしいと思えるんです。」

「ああ、そうかもしれませんね。昔は、このような本質的なことを話し合える社会的(しゃかいてき)環境(かんきょう)(ととの)っていませんでしたからねえ。いつも、当たり(さわ)りの無い、どうでもいいような、表面的なことばかりが話題になっていたようでしたからねえ。そしていつも一番大事なことが後回(あとまわ)しにされて、結局少しも社会がよくなっていかなかったんですねえ。」

「はい、その通りなのです。ところでセレステさん、もう一ついいでしょうか、これも非常に大切なことなのでお聞きするのですが、育児に大切なことはどういうことでしょうか。もし、気を付けていらっしゃることがあればお話ください。」

「それはいつも気を付けていることですからすぐにお話できますわ。あふれる愛とその愛の中での(しつ)けですわ。愛は親と子を強い信頼感で一つに結びつけ、躾けは子どもたちを社会的に自立させていきますからね。」

「愛と(しつ)けですか。」

「はい、何よりもまずあふれるような無条件の愛によってまわりの世界との一体感を植え付け、世界と自分自身に対する肯定的(こうていてき)心理的(しんりてき)姿勢(しせい)を整えてやります。それから、世界と自分との間の全一的なバランス感覚を(やしな)ってあげる必要があるのです。このとき、愛と(しつ)けの順序を逆にすると、世界と自分自身に対する肯定的(こうていてき)な感情が形成(けいせい)されなくなり、いつまでも自分に自信の持てない、そしてさらには社会的に不適応(ふてきおう)な状態や、最悪の場合には社会を敵視(てきし)するような心の姿勢(しせい)を生み出す結果にもつながるのです。何よりも先に、いやというほど愛情を(そそ)ぎ込むのです。少なくとも二歳を過ぎるころまでは無条件に注ぎつくしてやることです。それから徐々(じょじょ)(しつ)けていけばいいのです。その頃にはもう親子の間に強い信頼(しんらい)関係(かんけい)(きず)き上げられていますから、躾けても余り抵抗(ていこう)()く受け入れてくれるはずです。そして、自我(じが)芽生(めば)え始める頃からは少しずつ責任感(せきにんかん)()えつけてやるために、大人へと自立(じりつ)していく子供自身の成長(せいちょう)過程(かてい)を、後ろからさりげなく見守りながら、その成長のあと押しをしてやればいいのです。それから、最後にもう一つ大切なことを付け加えますと、子供たちに、その時その時にしなければならないことをきちんとし遂げていく生活習慣を植え付けてやることです、この習慣(しゅうかん)さえしっかり身につけば、子供たちもそれからの人生を大過(たいか)なく送れるというものですからね。」

「なるほど。だからこそ、美沙さんも理沙ちゃんもこんなにいい娘さんに成長なさったんですね。」

「はあ、まあ、そう言っていただけるとわたくしも(うれ)しいですわ。さあ、小山さん、もっとお食べになってくださいな。わたくしの話に耳を(かたむ)けてばかりでちっともお食事のほうが進んでいませんわよ。」

「あっ、はい、そうですね。おかずが()めないうちに(いただ)かなくっちゃ。」

「小山さん、もうこれで心は満たされましたか?」

「はい、美沙さん、おかげさまで心は十分に満たされました。後はお腹を満たしてやるだけです。もう、今日は皆さんからほんとうにいろんなことを教えていただいて、わたしもこのロータス世界のことがおおよそ分かってきたようです。」

 

その夜は、食事の後、お茶を飲みながらセレステさんの子供のころの思い出話や、山本さんとの宇宙ステーションでの()()めのいきさつや、美沙さんや理沙ちゃんがまだ小さかった頃の思い出話などを聞きながら十時ごろまで楽しく過ごした。そして、セレステさんに用意していただいた来客用のパジャマに着替えて、睡蓮(すいれん)やランの花の咲いている温室の見える部屋で(とこ)()いたのが十時半過ぎであった。このようにして、わたしのLOTUS200年7月4日は無事過(ぶじす)ぎていった。

 

 

 

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