ふと気がつくと、室内はいつから点いていたのか自動照明装置によると思われる天井一面からの光によって明るくなっていたが、戸外はもう日ざしが陰り始めていた。わたしは時間の経過を感じると同時ににわかに尿意を催して、山本さんにその場所を教えてもらってトイレを拝借した。用を足してリビングに戻ってくると、それを待っていたかのように山本さんがソファーから立ち上がり、わたしを玄関脇の洋間に案内して言った。
「小山さん、今日はこの部屋でお泊りいただきます。この壁にベッドがはめ込まれていますので、後でそれを引き出して、それからその上の戸棚から布団を出して敷いて、ここでお休みいただきます。」
そう言いながら、山本さんはその部屋の反対側へ行き、広いガラス戸のカーテンを一気に引き開けた。するとわたしの目の前に、室内の明かりに照らし出された眼にも彩な花舞台が広がった。まったく思いがけないその夢のような世界にわたしは思わず驚きの声をあげてしまった。小さい色鮮やかな熱帯魚がたくさん泳いでいる温室の池の表面には、のこぎり型の切れ目のある丸い大きな睡蓮の浮葉が拡がり、その浮葉の間から伸びた茎の先端には濃紅色とピンクがかった紅色と純白色の大輪の睡蓮の花が鮮やかに咲いていた。そして、その紅白三種類のあでやかな睡蓮の花を脇から囲むようにして、温室の透明な広いガラス戸の向かい側と左側の二面にわたって上下リズミカルに配置されたさまざまな種類の、これまたあでやかなカトレヤやデンドロビューム、パフィオにシンビジューム、マスデバリアにエビネ、ウチョウランに胡蝶蘭といった大きさも色形もさまざまなランの花々が咲き誇っているのだった。熱帯魚が泳ぐ池の水の薄い青色と、睡蓮の浮葉の濃い緑と、大輪の睡蓮の花のあざやかな紅色に純白、それに加えて大きさも形もさまざまに咲き誇ったランの花々の華やかな色彩のすべてが、たそがれどきの戸外の半透明の空色に溶け込んで、この世のものとも思えない妖しいまでに美しい情景をかもし出しているのだった。
「なんという美しさでしょう、山本さん。これが、あの玄関脇にあった温室でしょうか。驚きました、この世にこんな美しい世界があるとは夢にも思ってみませんでした。そしてこの温室はわたしが思っていたよりもずっと広いのですね。」
山本さんはわたしの驚いた様子に満足げであった。
「はい、あの温室なのです、小山さん。今は夜咲きの睡蓮の花が咲いていますので一日の中でももっとも見栄えのする時間帯なのです。こちらの紅い花はミセス エミリー ハッチングスで、あちらの紅い花はレッド フレアーです。それから、この真ん中の一番大きな白い花はデンタータ マグニフィカです。そのほかの睡蓮は昼咲きの睡蓮なので今はその花を閉じています。」
「ほんとに立派な、そしてあでやかな花ですね...。山本さんが睡蓮の花をお好きになられるのも無理ないですね。毎日こんなきれいな花を眺めることができるとはうらやましい限りです。大好きなトンボとめだかと睡蓮と、さらにはランの花ですか。それに美しい奥様ときれいでかわいい娘さんたちにも囲まれて、もう人生、何も言うことはありませんね。」
「はあ、まあ、そうですかね。まあ、考えてみれば、ほんとに今は恵まれている毎日だと言えますね。」
「それにしても山本さん、この温室はほとんど芸術的な美しさですね。ほんとにすばらしいです、奥様のピアノにも負けないくらいすばらしい芸術ですよ、これは。そして今晩、こんな美しい花たちに囲まれた部屋で寝ることができるとはわたしも幸せ者です。きっと今夜はすばらしい夢を見ることでしょう。いえ、もうすでに現の今が夢のようなのですから寝床の中では夢の夢を見ることになるのでしょうか?」
「はははは。いや、そんなに喜んでいただいて、わたしもお見せした甲斐があるというものです。さあ、じゃ、小山さん、またリビングのほうへ参りましょうか。」
「はい。」
リビングに戻ると、台所の方からおいしそうな匂いが漂ってきた。
山本さんはソファーに座ると、食事時までニュースでも見ていましょうと言ってモニターを操作した。
「これは、三十人委員会が制作、監修したこの地区のニュースです。毎日二十四時間放送されているものです。」
そのニュースを見ていると、西暦世界ではほとんど毎日メディアを賑わしていた争いごとや刑事事件、あるいは政財界などの腐敗堕落振り、また男女間の痴情事件や青少年犯罪などというものはなく、誰がどのような地区環境の改善案を出したとか、以前に住民の意見を求めたさまざまな改善案に対する実施の是非の投票結果の発表、あるいは住民のさまざまなボランティア活動や芸術作品の紹介、それからさまざまな趣味の会などの活動やその会員の手になる作品の特別発表会の場所や日時の紹介などが続いていた。
「ニュースはこのほか、四十人委員会から百人委員会までの各委員会のものや、個人的なものからさまざまな団体のものまでテレポーターを通して無数に見ることができます。意見や情報や作品などの発信は誰もが自由にできるのです。」
そのとき、理沙が台所から出てきて言った。
「小山さん、今晩のおかずは肉じゃがよ。小山さんも肉じゃが好きでしょう。」
「ああ、この匂いは肉じゃがのにおいだったんですね。もちろん、大好きですよ。ほんとにおいしそうな匂いですね。」
「もう少し待っててね、お母さんもすぐに帰ってくるから。」
「はい。」
「あーあ、ほんとにお母さん早く帰ってくればいいのに。」
「ああ、そうだ、理沙ちゃん。理沙ちゃんは学校の勉強以外ではどんなことが好きなのかな?」
「勉強以外?勉強以外では、カラオケで歌ったり、友達と近くの公園や山里を歩いたり、いろんなところへ日帰り旅行したりすることなんか好きよ。交通費が掛からないから学校が休みの日は日帰りで行けるところなら気軽にどこにでも行くわ。だけど、お父さんの言いつけで三人以上の友達と一緒でなければいけないけどね。もう、北海道から九州まで何十ヵ所も行ってきたわ。朝早く出れば北海道の端まで行ってこれるのよ。」
「ええ?日帰りで北海道の先端まで行ってこれるの?」
「ええ。リニア・モーター・カーで行けば速いもの。」
「ふーん、ほんとに便利だね。」
「ええ。一つ一つの地区ごとに自然の景色も家や町並みもまるで違うからほんとに面白いし、ためにもなるのよ。」
「えっ?今は日本はどこに行ってもみんな同じような風景や町並みじゃないんだ。」
「ああ、小山さん、今は昔のように中央官庁の規制などといったものも無いので、地区ごとに自由に環境計画を立てて実行していますから、それぞれが特徴のある風土景観をつくり上げているんですよ。」
「ああ、なるほど、もう国というものも無いのでしたね。あっ、そうだ、ちょっと話は変わりますが、念のためお聞きするんですが、今はどこにも私有地と呼ばれるものは無いのでしょうか、少しも、一平米すら?」
「はい、地球上どこにも私有地といったものはありません。すべては地区ごとの共用地であり地球社会全体の共用地なのです。さらに言ってみれば、この地球上のすべてのものは天からの一時的な借り物なのです。ですから、この地球の自然はわたしたち人間だけのものでもありませんし、そして当然、誰一人として特権を持っている人もいないのです。みんな、永遠本質の前に平等なのです。」
「なるほど、そうでしたね。まったくそのあたりは例外もなく、ほんとに徹底しているのですね。」
「はい、その通りです。そして、このことに不満を抱く人も今はほとんどいなくなりました。みんなそれが当たり前になってしまったのです。」
「そうですか。」
「ああ、そうだ、小山さん。それからわたし季節ごとのお祭りも大好きよ。とくに夏祭りが好き。蝶々のゆかたを着て、みんなと踊れるから。」
「蝶々のゆかたか。理沙ちゃんきっと似合うだろうな。理沙ちゃんかわいいから。」
「うふふ、そのうち見せてあげるね、小山さん。」
「たのしみだな。」
そのとき、山本さんのテレポーターが鳴った。セレステさんからの電話連絡だった。
「家内があと十分ぐらいで家に戻るそうです。」
「ちょうどよかったわ。もういつでも夕ご飯にできるわ。」美沙さんが台所から出てきて言った。
「じゃ、家内が帰ってくるまであとしばらく待っていましょうか。」
「あっ、そうだ、山本さん、ちょっとお尋ねしにくいことなのですが、奥さんのセレステさんはアングロ=サクソン系の方なのでしょうか。」
「はい、その通りです。少しラテン系の血も混じっているようですが、ほとんどアングロ=サクソン系といってもいいでしょうね。それが何か?」
「はい、いえ、あの、まあ、その、先ほどの美沙さんの歴史の話の中で、今は人種的にはアングロ=サクソンを中心としたヨーロッパ人種が最も反本質的な文明を生み出した人種として批判されていると言っていらっしゃったように思うんですが、それで、奥様がそのアングロ=サクソン系の人だったら少し困るんではないかと思ったものですから。」
「ははははは、小山さんはそんなことを気にしていらっしゃったのですか。それはあくまでも西暦時代の話であって、このロータス時代にあっては、人種も宗教も文明も、過去のいきさつはすべて十分な反省と、より高い精神的洞察によって本質的に乗り越えられてしまっていて、今やみんなが一つに調和した世界を作り上げているのですよ。ですから、今ではわたしたちは過去のことはすべて、まだ精神的に未熟な先祖たちが犯した愚かなエピソードくらいにしか思っていないのです。そして、もう二度と犯してはならない愚行として自らへの戒めとしているのです。今じゃ、人種的な偏見やこだわりを持っている人などいないんですよ。昔のアングロ=サクソン系の人たちが悪いのであれば、西洋かぶれして同じように振舞っていたわたしたち日本人だって同じくらい悪いということになりますからね。小山さん、今やまったく新しい世界がまったく新しい歴史を刻んでいるんですよ。それから、どの人種の人間として生まれたかはその人自身に少しも責任は無いのですから。ただその人がどのようにその人生を生きたかだけが問題なのです。」
「ああ、なるほど。そうですよね。ほんとうに今はまったく新しい時代なんですよね。人種的なわだかまりの無い、表面的な人間ではなく本質的な人間同士が交わっている世界なんですよね。」
「小山さんは、気にしすぎなのよ。みんな仲良く暮らしているのよ。」
「あはははは、ほんとにそうだよね、ぼくは何でも気にしすぎる性質(たち)だから。」
「小山さん、ごめんなさい。わたくしの言葉が足りなくて余計な気を使わせてしまったみたいで。本当にわたくしってまだまだ心遣いが足りなくて。」
「いえ、美沙さんは少しも悪くないですよ。みんなわたしが気にし過ぎるから悪いんです。それと、もう少し常識を働かせれば分かりそうなこともなかなかそこまで頭が回らなくて...」
「いえ、小山さんはここの事情にまだ慣れていらっしゃらないのですから無理もありませんわ。わたくしがもう少し気を利かせてさえいればよけいなお気遣いなさらなくてもすんだはずですもの。」
「いやあ、どうも恐れ入ります。わたしもこちらに引っ越してくることになるかもしれないと思うと、ついいろいろなことが気になりまして。」
「小山さん、もう何にも心配することなんか無いんだからね。もう気にしちゃだめよ。みんな仲良く暮らしているんだから。」
「はい、分かりました。ああ、そうだ、もう一つ、ずっと気になっていたんですが、ここでは火事だとか、あるいはひとりで住んでいる人などが心臓発作に襲われたときなどの万が一の緊急事態の時はどうしていらっしゃるんでしょうか。」
「そのときは、自分のテレポーターの緊急ボタンを押せばもっとも近くの五軒の家の人たちに連絡が行くようになっていますからみんなすぐに駆けつけてきて適切な処置をしてくれます。それでも手に負えなくて、さらに人手が必要なら三十人委員会の方に連絡することになっています。この地区では住民全体がそれぞれ近隣の五軒の家の人たちと緊急連絡網で結ばれ合っているのです。まあ、滅多に緊急事態は発生しませんが、それでも何かあればみんなが駆けつけてくれるという安心感がありますから、それだけでも助かります。それにその緊急連絡網で結ばれた人たちの間には特別の連帯感のようなものも生まれてくるのですよ。」
「緊急連絡網ですか。」
「はい、緊急連絡網です。以前は十軒だったんですが、今は五軒に減らされました。余り多くの人が来ても意味が無いということになりまして。何事にも適度というものがありますからね。」
「はい、そうですね。あっと、それからもう一つ、選挙のことなんですが、ここではテレポーターで選挙の投票をおこなっていらっしゃるということでしたが、それはどのような選挙でその投票率は何パーセント位なんでしょうか。」
「住民の直接選挙は三十人委員会の委員を選ぶときと、その三十人委員会から提案された懸案事項に対する賛否の投票ぐらいです。三十人委員会委員の任期は二年で、それぞれ一年毎に交互に改選されます。つまり、毎年半数の十五人ずつ改選されるのです。投票率は毎回ほとんど百パーセントです。投票権のある人が投票することは当然の義務ですし、わたしたちは皆この地区を少しでもよくしたいと思っていますので、日ごろから次の委員の候補者を心に思い描きながら次の投票日に向けて準備していますから。」
「皆さんそんなに熱心なんですか。そして皆さん一人一人が真の意味で精神的に自立した大人なのですね。それに比べると昔の人はまるで子供のように未熟でした。投票率も信じられないくらい低かったですからね。もう半ばあきらめていて、選挙に、ということはつまり政治に何も期待していなかったのですから。政治制度も政治家も選挙民もみんないい加減だったのです。」
「まあ、その反省の上に立って現在の社会が再構築されたのですからね。これは当然といえば当然なのですが...。 ああ、それから、三十人委員会以外の四十人委員会から百人委員会までの委員は、それぞれその下部の委員会から選抜で送り込まれます。たとえば、四十人委員会の場合では、十地区ある三十人委員会からそれぞれ四人の委員が選抜されて四十人委員会を構成して統合区全体の問題について討議しあいます。その上の地方の場合も大統合地区の場合も同じようにして選ばれているのです。」
「ああ、そうなんですか。」
そのとき玄関先に人の声がした。と同時に、山本さんと二人の姉妹の三人が打ち揃って玄関先へと出迎えに行き、わたし一人が後に取り残されてしまった。そして、玄関先で一騒ぎあってまもなく、その三人と一緒にセレステさんが部屋に入ってきた。