―――礼奈、もしもこの地球に水がなかったとしたらどうでしょう。月のように海もなく川もなく湖もなく沼も池もなく雨も降らず雪も降らず雲すらもないとしたらどうでしょう。
この地球をめぐる水の大循環が消滅し、その水によって生命を保っているあらゆる生物の営みが幻のように消えてしまいます。
水の中に生きているあらゆる魚たちがいなくなり、森も林も、熱帯のうっそうたるジャングルも消えうせ、砂漠の生き物たちの咽喉を潤すオアシスもなく、サバンナに生きるさまざまな野生動物たちの姿もなく、南極や北極の氷も消えうせ、ペンギンや白熊たちの姿を見ることもない。
夕焼け雲や秋の紅葉を見ることもない。早春の芽生えを見ることもない。七色の虹が青い空に大きな弧を描くこともなく、滝が音をたてて落ちることもない。
野原を蝶が舞うこともなく、ダイヤモンドダストや樹氷もなく、雪の原野に丹頂鶴が白い息を吐きながら求愛の舞いを舞う姿もない。白鷺や白鳥たちの姿もない。うずらやチャボたちの姿もない。季節をいろどる花々やその花につどう蜜蜂もいない。ぶどう畑もなく、牧場もなく牛も馬もいない。コンドルやワシの空を翔る姿もなく、小鳥たちの愛らしいしぐさや鳴き声もない。
人間世界のあらゆる営みも消えうせる。あらゆる男と女の間の、笑いも涙も、愛や憎しみも、子供たちの無邪気に遊ぶ姿も歌声もスキップする姿も消え失せる。文化的、精神的な営みも消え失せる。もはや音楽も絵画も詩も小説も生み出されることなく、いかなる祈りもない。
えゝ、礼奈、原始海洋の中から始まった四十億年にわたる地球上の生命活動のすべてが消滅してしまい、人間の精神がつむぎ出したあらゆる真実の言葉も消え失せてしまいます。
そして、その後には、月のように乾き切った大地がこの地球を死の静けさとともにおおいつくします。
―――礼奈、わたしたち人間もまた、他の生き物たちと同じように、この地球の一旅人にすぎません。いつの日にか人間もまたこの大自然から消え去ります。そんなはかない一旅人にすぎない人間が、その少しばかり発達した知性に驕り高ぶって、わがもの顔にふるまい、母なる自然に対し勝手気ままのし放題なのです。それはまるで正気を失った酔っ払いのようです。自分さえ一時を楽しむことができれば、他人や次の時代を生きる子孫がどんなに苦しんでもかまわない、他の生き物たちがどうなってもかまわないとでも言うのでしょうか。
礼奈、この宇宙はその誕生よりこのかた、その厳然たる法則に従って浄らかな円環的平衡状態を保ってきたのでした。それはあらゆるものが他のあらゆるものに相互に有機的に関係づけられた全一的統合体であり、そこにはいかなる不平等もなく、一方的な行き過ぎも偏りもないのでした。
しかし、人類がこの地球に出現し、やがてわたしたちの直接の祖先である現生人(ホモ・サピエンス・サピエンス)が都市文明を築き初めて以来ここ五千年ほどの間に、母なる自然に対する感謝を忘れ、愚かにもそれを支配し利用しつくそうとする強欲な種族が現れて森林を破壊し始め、やがて長いさまざまな文明的変遷を経て近代から現代へと時代が進む間に、神からすらも自由になった機械論的世界観を背景にして、人間中心主義的傾向がさらに強まり、あるいは産業革命あるいは自由放任的経済学、さらには帝国主義的植民地主義などの力ずくの国家観を経て、第二次大戦後において、さらに科学技術の加速度的進歩や急激な人口増加などともあいまって、人類による自然破壊の勢いも増し、今やとどまるところを知らない大量生産・大量消費・大量廃棄の世界的拡大によって、地球はそのすみずみまで数知れないほどの化学汚染物質にまみれ、地球の生態系の複雑で多様な連鎖をになってきた多くの生き物たちが死に絶え、何十億年にわたって緊密に織り成されてきた大自然の生態系の網の目がいたるところで寸断され、自然の本質である全一的な平衡状態が大きく乱され、このまま進行すればそれほど遠くない未来のある日突然、生物が生きる環境としては回復不可能なまでに自然が破壊されてしまう危険さえ予想されるのです。
礼奈、自然には自然そのものが定める許容限度があり、その限界を越えてしまったとき、自然はみずからの法則に従って断固とした反撃を開始します。人類はそのことを知らないのでしょうか。あるいはまだまだこの位なら大丈夫だ、大自然の許容能力はもっとずっと大きいはずだとばかりにたかをくくっているのでしょうか。わたしたち人類の自然に対する度を越した甘えと高慢がその命取りにならねばよいのですが。今や宇宙から眺めた地球は、その大地も海も無限に広いものではなく、むしろ無垢な処女のように汚されやすくもろいものでしかないことがはっきりとしてきたのですから......
―――礼奈、汚された川を眺めていると心に悲しみが湧き上がり、やがてそれが怒りに変わります。汚れのない天然の水を穢すのは他の誰でもなくわたしたち人間なのです。
工場や家庭から出る廃水に泡立ちにごる水、紙やプラスチックやゴムや鉄などのさまざまなゴミを浮かべたり川床に沈めたりしてあたりに異臭を漂わせながら流れる川水。 わたしたちは抗議する言葉をもたない生命の母なる水に勝手のし放題なのです。生命の基盤を水に負っていながら何という忘恩行為でしょうか。わたしたち人間の恥ずべき無知、恥ずべき傲慢、恥ずべき貪欲が為せるわざなのです。自分たちだけの一時の豊かさと便利さのために、他のあらゆるものに対する配慮を忘れ、まるで悪鬼のように貪りつくします。火(エネルギー)を濫費し、大地や空気を汚し、水を汚すのです。そして大自然の聖なる調和が乱され、聖なる循環の輪があらゆるところで断ち切られ、聖なる自然のバランスが急速に失われます。
礼奈、水はわたしたち人間のためだけにあるのではありません。水は大自然の中でただその本性のまま全一的に転じているだけなのです。そしてその水が清らかに輝くところに、水から生まれたわたしたち生きとし生けるものの命も輝きます。しかし水が汚されればその汚された分だけわたしたちの生命も汚されます。わたしたちの生命が生き生きと輝くためには水が汚れなく輝いていなければならないのです。
わたしたちは失われてしまった水の聖性を回復しなければなりません。今や汚しの水になってしまった水を一日も早く、その本来の、癒しと清めの水に戻さねばなりません。わたしたちは決して自らの手で、人類の、また生きとし生けるものの未来を閉じてしまってはならないのです。
―――礼奈、世の多くの人々はいつまでも表面的世界に酔い痴れていて真実の深みに心が及びません。人は自分の都合に合わせて、見たいものだけを見て、見たくないものはたとえ見えていても見ようとはしないのです。そしてわたしたちの世界はますます軽薄になっていきます。まるで世界全体が魔法にかかっているかのようです。世界は日々ますます自然から切り離された都市化の方向へと進み、そのような都市化が進行すればするほど人間の欲望の渦が大きく肥大し、その勢いも増していきます。そして大都会においては、人々はいつしかその巨大な欲望の渦中に為すすべもなく飲み込まれ、自分の本来あるべき本質とは別のものとなり、それをそれと意識することもなく、表面的な日常に流されたままその一生を終えてしまうのです。
礼奈、わたしたちの時代は、あるいは最も反自然的な時代ということになるのかも知れません。わたしたちは今、人類が自然の本質から最も遠く離れてしまった時代に生きているのかもしれません。わたしたちは自分たちの生活がどこか反自然的であることを自覚しながらも、現代の便利で快適な文明に酔い痴れ、反自然的習慣から抜け出すことができずにいます。
ところで礼奈、わたしたち生命あるものは大自然と一体の本質的調和を生きてこそその生存を許されるのではないでしょうか。驕り高ぶって自然を浪費し汚す者、自然に対する感謝と畏敬の念を欠く者は、母なる自然の永遠調和を破る者としてこの地に生きる権利を剥奪されても仕方がないのではないでしょうか。
―――礼奈、まことにわたしたち人間の一人一人が小さな宇宙にほかならないのですね。わたしたち一人一人の存在の内には、まずこの宇宙が存在するための大前提として、まだ科学も解き明かすことのできない宇宙創造以前の、根源的な神秘世界が含まれており(あるいはそれはこの世の一切万象を統合した最高次元の純粋エネルギー界であるといえるのかも知れません。それをわたしはひとり、PLEROMA と名づけているのですが......)、その深い神秘世界を母胎として、このわたしたちが生きている大宇宙の、その誕生から現在までの長い長い宇宙時間に生じた全てのもの、すなわち、光やクオークやバリオンやレプトン、それから核子、原子核、原子、分子、高分子といった物質が階層的に含まれており、その物質的階層の上に生命の発達進化に連なる全てのもの、すなわち、原核細胞から真核細胞へと続く単細胞生物、さらには原始的多細胞生物からはるか現生動植物にまで至る多種多様な系統進化に連なる全ての生物が含まれており、またさらに、われわれホモ=サピエンスに特徴的な、旧石器時代から新石器時代、青銅器時代、鉄器時代へと至る火や言葉や道具を伴った文明以前の長い時代の多様な文化的変遷が含まれており、さらにはそれを引き継ぐようにして、それぞれの部族や民族や国家などの集団的な歴史過程が加わり、さらにそれぞれの集団の中の家系的個人的な経験が一人一人に個別的に含まれています。つまり、わたしたち一人一人は、これらの全てを重ね合わせた重層的な統合体として、すなわち、全一的な根源的神秘(PLEROMA)に根ざした宇宙的な物質的階層として、また地球的な生命系として、またホモ=サピエンス的な文化を引き継ぐ部族・民族・国家的歴史に生きる家系的個人的人生のそれぞれに独立した主体として、総合的かつ統合的に、日々変化し続ける世界に反応しています。
礼奈、このように自己は、世界から切り離された単なる部分的存在ではなく、この世の一切と物質的かつ生命的かつ文化的精神的に関連しており、この世においては、直接的にしろ間接的にしろ自己と関係なく存在しているものなど何一つとしてありません。結局、この世界は自己を包み込んだ一続きの物質と生命と精神に満ちあふれた全一的な統合体に他ならないのです。そして、この一続きの自己=宇宙をわたしは『このいのち』として自己自身の内と外に同時的に感受します。
礼奈、考えてみれば、あらゆるものは一体だからこそ存在しているのですね。一体でないものは何一つとしてこの世に存在することができません。
―――礼奈、存在を貧しく卑小にする利己的な言葉ではなく、一切万象と自己との全一的交感から生まれてくる、存在を高め豊かにする本質的な言葉を生み出す精神によって、自己の内なる永遠を限りなく深めていくこと。心の脱皮を無限回繰り返して、至りつくことのできない窮極の本質世界へと限りなく近づいていくこと...... 礼奈、永遠の真実界においては、一切は個別的であると同時に全一的です。一切は一切に呼応しており何一つとして切り離すことができません。本質的な持続すなわち永遠が全一的に展じつつ現前し続けます。そして、この瞬間毎に変容し続ける現下の永遠に、価値を超えた無限の価値があり、意味を超えた無限の意味があります。この渾一的な全き世界ではあらゆるものがそのまま全肯定されます。この全一世界には本来エゴイズムと無知による部分性がなく、否定と対立の泥沼で虚しく苦しむことがありません。ここには清らかな愛と知恵による至福が充満しています。ここでは人は永遠と一体となってその展開を楽しみながら、万物万生とともに本質を支え合い高め合います。万物万生はこの永遠の時間的旅人であり、わたしたち人間もまた永遠の一旅人にすぎないのですが、しかしその本質を生きている限り、そのはかない命も虚しくなることがありません。
―――礼奈、わたしたちの時代は試されています。このまま人間の欲望追求の道を果てしなく押し進めていき、やがて多くの生命あるものたちを道連れに自滅してしまうか、それとも自然との調和を取り戻して、より高い次元の全一調和的な精神的生命進化の道を自ら切り開いていけるか、その二つの道のどちらを選択するか試されているのです。その結果は、これまでのような物欲中心の、一部の人間にのみ都合よく仕組まれた、自然も人も手段化してしまう、力と金によって操作される社会システムを打ち破り、自然も人も手段化することのない全体が一つに調和した絶対平等の、より完全な世界の創造に向けて自らを高めていけるかどうかにかかっています。そしてそれは人類の精神性の向上によってのみ成し遂げられることなのです。部分的な、その場しのぎの技術的改良だけで自然環境の破壊を食い止め、理想的な世界を地球上につくることなど決してできるものではありません。
礼奈、わたしは夢みます、この世に生きる人々が単なる人生の享楽者や利己的な欲望充足者ではなく、この地球世界と一体の本質実存者となることを......あらゆる人々がその持てる能力を、肥大した欲望のさらなる追求に用いるのではなく、この大自然の極めつくすことのできない全一的な真実をより深く理解し、より深く生きるために用いるようになることを......、あらゆる人々が、その自己中心的な欲望によって世界を傷つけ汚すことなく、それぞれの本質を支え合い高め合いながらこの世の全一円環的な清浄本質を生きるようになることを......、限りなく精神を高めて、いつしかこの世に真の桃源郷を、真のエデンの園を、真の浄土を実現するようになることを......、わたしは夢見ます。
―――礼奈、この地球上で今や最高の能力と力を持つにいたった人類には、この地球の自然と、あらゆる生物によって緊密に織り成された生命システムを守る責任があるのではないでしょうか。
自制と責任を欠いた権力は腐敗して無秩序と破壊をもたらします。そして今、節度と責任を欠いた人類はすさまじい勢いで自然を破壊し続けています。
しかし、わたしたち一人一人が慎みと責任をもって大自然に対しなければなりません。また、慎みと責任のない個人や企業や国家に向っては慎みと責任を持たせるように仕向けていかねばなりません。そのことがしいては自分のためにもなり、子孫のためにもなり、大自然の生きとし生けるもののためにもなります。大自然が清らかに調和し、その中で生きとし生けるものと人類とがバランスを保ちつつ全体が繁栄すること、それこそがこの世の桃源郷の姿なのではないでしょうか。
モーリス=ラベル作曲
『 水の戯れ 』
丘の上の公園の小さな泉から、冷たく透きとおった水が、小砂を吹き上げながら湧き出してくる。内に光を融かし込み、限りなく自由な動きとともにあふれ出る水は、あちらで渦巻きこちらで逆巻きながら小さな池となってめぐり、やがて池の縁からあふれ出して、そのまま小川の細流となって流れ下っていく。
細く清らかな一筋の流れは、なだらかな傾斜をささやくように流れていたかと思うと、いつしか傾斜のきつくなった石だらけの浅瀬をざわめきながら流れ下り、小さな淀みに到って小休止をとる。
ふたたび流れの中に押し出され、ねじれ、絡み合いながら下っていくうちに、流れの半ばをせき止めるように横たわった大きな岩にぶつかり、そのまま勢いよく岩の上にせり上がり、弧を描きながら流れの向きを変える......
流れはまたゆるやかになり、川底の凹凸をそのままなぞるように川面を波うたせながらゆったりと流れていく。
やがて、小砂利と小さな岩によって形づくられた段状の浅瀬にさしかかると、また水はしきりとざわめき始め、あちらにはじけこちらにとびはね、陽光にきらめきながらリズミカルに下っていく。
その瀬の先の、やゝ深い淀みとなった緑の水の中から不意に河神が顔をのぞかせると、きらめく光や水草と戯れながら流れに身をまかせて流れていく。
流れは右に左に曲がりくねりながら、ふたたび瀬となり淀みとなり、弧を描き渦となって流れ続ける。
傾斜はさらに増し加わり、しだいに波も大きくなり早瀬となって駆け下り、やがて不意に小さな懸崖にさしかかった流水は一気に小さな滝壺に向って落下していく。
光あふれる空気中でキラキラ煌めき落ちる水の線条......
ふたたび水は渦巻き逆巻きながら流れ下っていき、やがてその流れにもう一つの小さな湧き水が合流し、まもなく公園の谷の、噴水のある大きな池にたどりつく。
池の中央の噴水の噴き出し口からは、水が宙に勢いよく噴き出し、高く低く弧を描きながら光を乱反射させてキラキラと舞い続ける。
ふたたびそこに河神が姿を現わし、光を反射させる水と戯れながら池を気ままに廻っていたかと思うとふと水中にその姿を消してしまった。