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―――礼奈、あなたは臨終の床で、お母さまにコップ一杯の水をお求めになり、その水をゆっくりと飲み干されると、この世での最後の力を得られて大きな息を一つされるとそのまま静かにこの世に別れを告げられたのでした。                     
 わたしたちはこの世に生まれる時は母の水の中から生まれ、この世に別れを告げる時はよくのどを一杯の水でうるおします。

―――礼奈、この世の本質は聖なる全一的調和であり、それはどこまでも浄らかな活きなのでした。宇宙創成から人類誕生までの、多様な物質系と生命系によって織り成されてきた自然界においては、全てがその性質や本質によっておのずから展開する過不足のない調和的循環世界なのでした。ところがわたしたち人類は、その本能の殻から抜け出して、貪欲と知的傲慢とによってみずからの分限を忘れて涜聖の道をたどり始め、やがて聖にして母なる大自然をみずからの都合に合わせて破壊し汚し続けるようになってしまったのでした。人間の本質的無知と傲慢と貪欲とが実体化してさまざまな兵器や機械や化学物質を生み出し、水を汚し大地を汚し大気を汚しそして自らの生命をも汚し始めたのです。
 そして、礼奈、これまでのわたしたち人類の涜聖の歴史の行きつく果てはただ一つ、自滅的な死の世界に他なりません。これまでの、科学という名の全一的世界観の破壊、ヒューマニズムという名の人間中心主義的驕り、自由という名の欲望とエゴイズムの放任、進歩という名の際限なき欲望追求が渦巻くわたしたち現代人による涜聖の社会システムを、一日もはやく、知恵と慎みと感謝に基づく聖性の社会システムへと変えていかない限り、人類にそして地球生命系に未来はありません。あるいはいつの日にか、一部の人間が汚れ切った地球を脱出して宇宙空間あるいは他の惑星で生き続けるようになったとしても、母なる地球を死の惑星にするような人類に一体どのような未来があるというのでしょうか。本質的な根を失った生命活動はしょせん空しい徒花に終わるしかないのではないでしょうか。わたしたちは聖なる本質の根を離れては真に存在することはできません。                       
 礼奈、この世はなんと単純で厳しいのでしょう。聖性・浄化の道は生命の道であり、涜聖・汚染の道は死への道です。便利な文化的生活を楽しみながら時代の流れのままに流されていくわたしたちはそれと気づかずに死へと導く涜聖の道をすべり落ちているのです。

―――礼奈、光と同じように、水も無言で生命あるもの全てに限りない恩恵を与え続けます。水というこの世でもっともありふれた存在が、わたしたちの生命にとってもっとも大切なものの一つであり、それを意識し、それに感謝し、決してそれを汚さないということは、その恩恵を受けているものにとっての当然の礼であり、守るべき戒めではないでしょうか。            
 ところで、そのような生命にとってなくてはならない水を汚さないというもっとも基本的な禁忌(タブー)を犯してまで物質的貪りの道を突っ走る現代人とは一体なんでしょうか。                  
 礼奈、このような水に代表される大自然との真の結びつきを見失ってしまった現代人はもはや物事の本来の価値を知ったり、その価値にしたがって世界を秩序づけたりすることのできなくなってしまった生物ではないでしょうか。大自然の正しい意味や価値を正しく認識することができなくなり、内なる本質的方向付けの器官が病んでしまっているのです。             
 礼奈、哀しいかな、現代はこわれものの時代であり、こわれものの人間でいっぱいなのです。

―――礼奈、純粋な光は透明であり純粋な水もまた透明です。そして宇宙を生み出す無なるPLEROMAも透明であり、人をPLEROMAへと導く真の精神も透明です。                    
 礼奈、人間の精神の階梯を色にたとえると、無知と貪りのためにさまざまな色で濁っていた心が向上し続けて、やがて無垢な純白となり、さらにそれが、透明に限りなく近い天上の青となり、ついには全き透明に至ります。                       
 礼奈、すべての色の中で最高の色は透明すなわち無の色です。また、この世において至ることのできる精神の最高の色は天上の青です。天上の青は、人間的な汚れのない純白から、窮極の完全性そのものである色彩なき色彩すなわち透明へと移る過程において現われる最後の色彩なのです。                  
 礼奈、また、この世的な言葉はおしゃべりにすぎないのですが、一方、本質的な言(ことば)であるロゴスは、この世における最高の言葉であり、存在の本質とPLEROMAの無とをつなぐ窮極の言葉です。PLEROMAそのものは寂静であり、透明な言葉であり、言葉を必要としない完全世界です。そして、本質的な言葉は、いってみれば、そのような言葉なき言葉の世界であるPLEROMAと、雑多な言葉の錯綜するこの現象界との間に咲く聖なる花『睡蓮』すなわち真の精神が語る言(ロゴス)なのです。 

―――礼奈、私は無心にあなたなる一切万象の聖性に憩います。あなたを想えば夜も昼も聖なる時に満たされて、このPLEROMA=宇宙の、無境界・無限底の大海に生死します。聖なる大自然と聖なる精神、それらの統合であるPLEROMA・永遠・現在に、あなたと共に、無心に憩います。それはこの世のものでありながらもはやこの世のものではありません。

―――礼奈、わたしは透明な光と澄み切った水との清らかな戯れの中にこの世の本質を見ます。そして、その透明な光を精神に、一方、澄み切った水を自然に置き換えてみれば、それはこの世での人間と自然との本質的関係とも見えてくるのです。人は単なる欲望としてではなく、汚れのない透明な精神として自然に対する時、そこに自ずから全一的調和と活性が生まれてきます。そしてその清らかな精神と自然との調和の中でこそ、人間を支えてくれる生命ある全てのものとの間に、対立と欲望に醜く歪んだ病的狂騒ではなく、本質的な、真に生き生きとした円環的活性が生まれてくるのです。

―――礼奈、今わたしはいたるところそしてあらゆるものの中にあなたご自身を見ます。あなたの本質である精神と存在とが一体となった無境界の真実在そのものを見るのです。境界のない全一的全体はけっきょくは聖なるものであり、このわたしたちを包み込んでいる宇宙の大自然はどこまでも無境界のPLEROMAより生じたものでありやはりその本質において無境界であり聖なるものであり、そのような本来境界のない世界やものに形や境界があるように見えるのは、わたしたちの意識の表層に結びついた自己中心性の生み出す幻影であり見かけ上のことにすぎないのです。           
 この本来境界のない世界を意識の表層で境界があるように見誤ったまま真実の無境界の深みに至らなかったことから、この世の一切の悪と災いが生じたのでした。無境界性の忘却が最も根源的な無知を生む原因なのでした。 

―――礼奈、あなたの青い睡蓮の絵に描かれた水は、あなたが幼い頃から親しまれた公園のお濠の水であり、お父さまが亡くなられた時に流されたあなたの涙であり、あなたをこの世にもたらされたお母さまの胎内の水であり、あなたの生命を養った血液であり、またこの世との別れの水であり、さらには宇宙を生み出した原初の水ヌンであり、宇宙に遍在する水であり、あらゆる元素を内に融かし込んで循環し続ける生命の母なる海であり、この世の罪のいやしと清めの水であり、そしてなによりも、精神の光である青い睡蓮を咲かせて、ついには精神と存在とが一つとなった真実の全き充満すなわち聖なるPLEROMAへとわたしたち人間を押し上げてくれる存在の中の存在ではないでしょうか。

―――礼奈、あなたはPLEROMA,男性的精神的な光女性的物質的な水とが一つに融け合った光と水のPLEROMA。あなたは単に精神的光としての聖なる青い睡蓮であるばかりでなく、浄らかな物質的存在としての水でもあったのです。            
 そして、礼奈、あなたのあの青い睡蓮の絵は、光と水のPLEROMAなるあなたご自身の肖像画に他ならなかったのです。                 
 そして、礼奈、あなたのその青い睡蓮の孤独は、純粋にして完全なPLEROMA大の孤独、境界もなく、内も外もなく、淋しさもない、真実の充満した無限大の、孤独ならざる孤独――全き、透明なる孤独なのでした。

 

 

 

 

 ドビュッシー作曲  『 海 』

 

 

 第一楽章 「海上の夜明けから正午まで」

 

 空と海と島々の黒い影が、まだ夜明け前の星明りのひっそりとした薄闇の中でまどろんでいる。     
 海は音もなくゆったりとたゆたい、そよ風が時おり洋上を吹きすぎていく。

 東の空がほのかに白み始め、地平線上に棚引く雲にもかすかに暁の気配が漂い始める。         
 時は流れ、雲を染める茜色がその色合いを強めながら、海から射し始めた黄金色の光によって次第に上へと押し上げられていく。               
 それにつれて、洋上にきらめく金色の反映もますますその領域を広めていく。      

 やがて、水平線上の光がプラチナ色へと極まって、ついに太陽の先端が顔をのぞかせる。その瞬間、海上にきらめく光の反映が長く帯状に伸びてくる。     
 朝日によって茜色に染められた雲は、その色や形をさまざまに変えながら次第にその輝きの度を増し加えていく。                      
 空の色も、生気のない白色から、次第に鮮やかな青色へと深まっていく。

 さわやかなエオりードがあたりに吹き渡り、洋上に浮かぶ島々も色付き始め、その磯をなぎさが白くふちどっている。

 水平線上の太陽はさらに昇り、大きくなりながら、洋上全体を光でおおいつくしていく。そして、ついにその全容を現わす......

 

 太陽の上昇とともに、青い空が上天高く拡がり、輝きを増した雲が光の海の中に白く浮かんでいる。   
 高く昇った太陽からあふれる光が、波打つ洋上をキラキラと反射させる。    
 あたりには、風と波と光が織りなす蕩蕩とした情景が拡がる。

 ふと風が止み、不思議な静けさに包まれたべたなぎの洋上に、光と波とが織りなすしなやかでおおどかな幾何学模様がかすかに揺れている。     
 そしていつしか上天に昇りつめた太陽は、広大な空と海を、まばゆい透明な光でおおいつくしてしまう。
 その正午の、広大な光の遍在が、心をかすかにめまいさせる......

 

 

 

 

―――礼奈、わたしはこの宇宙の、この海の星に生まれたことに感謝します。そして、とこしえの乙女にして清らかなる天の門たるあなたに出会えたことに感謝します。                      
 そして、礼奈、聖なるあなたの名を通して、わたしは祈り続けます――この奇跡の海の星に生まれたわれら人間の、罪深き心の鎖を解き、盲いた心に光を与えたまえ、と。そしてまた、われらの悪を祓い清め、すべての聖なる善きものを得させたまえ、と。        
 礼奈、類なき乙女、われらを罪から解き放って、清らかな生命の道を示したまえ、われらがいつかPLEROMA浄土を心に抱き、全一調和の桃源郷に生きられますように。                    
 あゝ、礼奈、あなたの眼差しが透明になり、その聖なる心が今、浄らかに輝き始めます。

 

 

 

 

 モンテヴェルディ『聖母マリアのための夕べの祈り』

 12. 讃歌 : 「 めでたし、海の星 」

 

  1. Ave maris stella

      Dei Mater alma.

      atque semper Virgo,

      felix coeli porta.

   2. Sumens illud Ave

      Gabrielis ore,

      funda nos in pace,

      mutans Evae nomen.

   3. Solve vincla reis,

      profer lumen caecis:

      mala nostra pelle,

      bona cuncta posce.

   4. Monstra te esse matrem:

      sumat per te preces,

      qui pro nobis natus,

      tulit esse tuus.

   5. Virgo singularis,

      inter omnes mitis,

      nos culpis solutos,

      mites fac et castos.

   6. Vitam praesta puram,

      iter para tutum:

      ut videntes Jesum,

      semper collaetemur.

   7. Sit laus Deo patri,

      summo Christo decus,

      Spiritui Sancto,

      tribus honor unus.

      Amen.             

 

 

 

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