―――礼奈、水は無限の深さを幻視させます。原初の水ヌンの境界のない神秘的な深さを幻視させます。そして、その無限の深さの中にわたしたちの宇宙も漂っているのです。また、その宇宙の中であらゆる物質とあらゆる生命がいつ終わるとも知れない相互作用を繰り返しています。
礼奈、わたしはこの無境界の水の中に漂っている自己感覚に陶酔します。母の羊水の中で浮遊していた胎児の頃を幻視して陶酔するのです。
礼奈、あらゆる生命は水の円環(めぐり)の中に生命を保っています。あらゆる生命は水を内に取り込み、それを内にめぐらせ、ふたたび外に排出します。水はある時は水蒸気となりある時は水となり氷となって地球上のいたるところをへめぐります。そしてこの地球上のすべての水は一体であり、その水の円環の中に生命を保っている生命もまたその水を通して一体です。
水はまたその構成元素である水素とも酸素ともなって宇宙に遍在しています。そして、時間をさらにはるか遠くにさかのぼっていけば、水素も酸素も、宇宙に存在する他のあらゆる元素と同じように、想像を絶する高温の中で、クオークやレプトンといった素粒子へと収斂し、さらにはX粒子となり、やがて全き光エネルギーへと高まり、そしてついには、わたしたちの想像をこばむ、宇宙を生み出す根源的母胎である、原初の混沌の水ヌン、あるいは一切万象の完全統合であるPLEROMA,あるいは認識することのできない真空の超越的エネルギーへと吸い込まれてしまいます。この世の一切は、わたしたちの認識のはるかに及ばない究極の神秘の中にその姿を消してしまうのです。
礼奈、この世の水は限りなく光へと高まり、やがてついには無なる神秘へと消え去ります。そしてわたしは今、あなたと共に、光なる精神を通して、その原初の神秘の中に安らかに憩います。光と水のPLEROMAなる原初の全き透明な全一的いのちの中に憩うのです。
―――礼奈、水とはいったい何でしょうか。
エジプト神話の中で混沌の水ヌンは、その上に睡蓮の花を咲かせ、その花の中から創造神を生み出す万物の根源的存在でした。
また、古代インドの『マハーバーラタ』においても、水は、ヴィシュヌ〔創造神であるブラフマーを自分の臍(へそ)から伸びた蓮の花から生み出す眠る神〕が宇宙の瞑想の至福にひたりながらその上に浮かんでいる巨大なロータス池として、神々と万物の根底に拡がっているのでした。
一方、古代ギリシャのミレトスのターレスは、一切の存在者がそこから生成しふたたびそこへと消滅していく万物の本源(アルケー)を水であるとしました。
さらに聖書においては、原初のカオスの水の面に神の霊が動いていたとされ、水は神の霊と密接に結びついています。又それは、ヨハネによる水のバプテスマやイエスによる水と霊のバプテスマに象徴されるように、人間の汚れと罪を浄めるものであり、又、ヨハネは御霊を『生ける水』と呼び、エレミアは主を『生ける水の源』と呼び、第二イザヤは水を『神の救い』そのものに象徴化しています。又、アウグスティヌスは、天地創造において天空の上と下に分けられた水のうち天空の上なる水を天使の世界と解し、それを地上の腐敗消滅から隔てられた不死なる水であるとしています。
このように聖書の中の水は、神の祝福と救いを表わす一方、ノアの洪水などにみられるように神の怒りと世の裁きをも表わしています。
日本の神道でも水は、神に奉仕したり神意を問うために必要とされるハライの中のミソギにおいて人間の罪や穢れを洗い落とす清めの水として用いられています。
また、中国の老子は、「上善(じょうぜん)は水の若(ごと)し、水は善(よ)く万物を利して而(しか)も争わず」として、水を最上の善と称(たた)え、一方、禅宗においては、修行僧を雲水と呼んで、自我を立てることなく、水のように無心無差別の真法界に生きることを目指し、修行の生涯を送るための鏡としています。
又、科学的には、水は、宇宙でもっとも早くできたもっとも軽くもっとも多い元素である水素と、地球の多くの生物の呼吸に欠かすことのできない元素である酸素とが結びついてできた、この広い宇宙に遍在する分子であり、さらには、原始地球を広くおおっていた原始の海の中で最初の生命を生み出したいのちの母胎であり、原始的な単細胞(原核細胞、真核細胞)から多細胞生物を経て魚類へと至る生命進化のゆりかごであり、今もなお地球上を循環して、あらゆる生物を育み続けているもっとも基本的な物質です。
クロード=ドビュッシー作曲 『映像第一集』
第一曲 『 水の反映 』
春のけだるい午後。柔らかな光に包まれた池面が、あたりの空気のゆらめきにつれて、ゆらゆら揺れている。 あたりを時折涼しい風が吹き過ぎ、水面に小波が拡がり、やがて消えていく。
ベンチに背をもたせ、そのような春の日の午後の、ゆったりと水を湛えた池の様子を眺めていると、いつしかその心地よい情景に抱かれてまどろんでしまいそうになる。
その時、風の気配とともに太陽が雲間から顔をのぞかせる。
池面に降り注ぐ春の陽光。複雑に交錯して拡がる細かな波紋に光が乱反射する。
その輝く波紋に波紋が重なり、さらに光が眩しくきらめきはじける。
その光の氾濫の中に不意に風が吹きつけ、圧しつけられたような波紋が拡がっていく。その水のゆらぎにつれて水中の藻が小さく揺れる。
やがて風も収まり、ふたたび細やかな水の動きにつれて濃淡さまざまな影と光の綾なす波模様がゆらめく。
風の向きの変化につれ、光の量の変化につれて微妙にその色相や形や陰影を変えながらどこまでもなめらかに揺れ動く水の紋様......
ふたたび池の端の方から吹き寄せてくる涼しい風につれて、はうように漣がおし寄せてきて、燦燦と降り注ぐ光のシャワーと交錯し光の粒子をキラキラ散乱させる。そしてついに池の中央で太陽の姿そのものを映してまぶしく煌めく円光とそれを囲んで拡がる光の暈の中に溶け込んでしまう。
やがてふたたび太陽は雲の影にかくれて、あたりはおだやかな春の水をたたえた池のたたずまいにかえる。
水辺の樹々や水際のあやめ、水草や睡蓮の浮葉、そして青い空の広がりや白い雲など、あたりのすべてのものがなめらかな自然の鏡面に映ってゆらゆら揺れている。
水の中をのんびりと魚たちが遊泳している。水鳥が一羽、あとにシンメトリカルなくさび形の波紋を拡げながら、静かに水面を滑っていく。
やがて陽も西に傾き始め、大気も光も水もたそがれ時のほの赤い静けさの中にゆっくりと融け込んでいく.....