『全一性』ってなに?

 

 

 

全一性なんていう言葉を聞いても、ほとんどの人は余りピンとこないかも知れないね。それも無理のない話、全一性は普通の国語辞典なんかにも載っていないような特別な言葉だから。でも、この言葉はとても大切な言葉の一つだから覚えておいた方がいいと思う。

それでは、これから、ぼくが理解している全一性という言葉の意味を説明してみよう。まず、全一性という言葉の『全』という字は、もちろん、いろんなものが一つにまとまった丸ごとの全体という状態を表わしている。同じように、次に続く『一』という字も、いろんなものがまとまった一つの完全な状態を表わしている。だから、これら二つの言葉を合わせた『全一』という言葉も、とうぜん、完全に一つにまとまった状態を表わしていることになる。このような一つの完全な状態の中では、ある部分を全体から切り離したり、区別したりすることはできないし、仮にそうしたとしても意味がない。意味がないばかりか、そうしたとたんに本来の完全性から切り離された歪んだ世界に迷い込むことになってしまう。そして、そんな歪んだ世界の中で、もがけばもがくほど、もともとどこにもなかったような無意味で不必要な災いや不幸を招くようなことにもなってしまう。

この言葉には、そのような、完全に一つにまとまった状態ということのほかに、次のような理解もできると思う。つまり、全は全体を表わし、一は個人あるいは自分、または様々な大きさやまとまりのある一つの部分と考えて、そのような一はすべて全体と一体的であり、決して全体と切り離して考える事はできないという風に理解する。つまり、自分は全体と切り離しては生きることができない、同じように他の人たちも一人一人みんな全体と切り離して生きることができない、また、そのほか様々なまとまりを成していると考えられているもの、例えば、会社や村や町や国や人類や生物や地球や太陽系や銀河系や一つの宇宙なんかもみんな全体と切り離して考える事はできないという風に。

このように、全一性という言葉は、この世にあるものはみんなお互いに一つにまとまって完全な世界を作っているものなのだから、何一つとしてそのような全体世界から部分的に切り離して考えてはいけないという、この世の根本的な真理を表わした言葉だと思う。

 

ところで、このように、もともとこの世はみんな一つの大きなまとまりなのだから、人間社会でも、差別や不公平や、利己主義や暴力や、自然破壊や浪費などは、そのような全一性を無視した愚かで迷惑な行いだということができると思う。

 

 

 

 

 

 

本質的完全性

 

 

 

 

 

欠けるものなき全体に真実が宿る。完全性が真実である。真実において一切は完全バランスする。完全バランス状態において一切は最高最善となる。ユートピアは完全バランス世界である。われわれ人類が目指すべきはユートピアであり、ユートピアのみである。

 

 

個別性、特殊性は、全体性、普遍性と一体化してのみ、その本来の本質すなわち完全性を回復し得る。

 

 

 

 

 

 

根源的・究極的・全一的な実体としての完全エネルギー

 

 

 

 

 

この世の一切は完全エネルギーに帰する。時間も空間も、物質も生命も、知性も精神も、さらには神や仏や無ですらも完全エネルギーに帰する。

 

 

完全エネルギーは永遠本質であり、またその内なる法であり機能である。完全エネルギーに相応しい展開は浄らかである。完全エネルギーは歪みなく全一的に転じる。

 

 

完全エネルギーは潜在的であり、形なく、目に見えない。完全エネルギーは宇宙において全一的統合的に顕現(存在・現象・相転移)する。完全エネルギーは地球においてさらに生命的に現象する。完全エネルギーは人間において高次精神として機能する。完全エネルギーはあらゆる存在形態において全一的・一体的であり、常に完全であることがその本質である。

 

 

あらゆるものは一体である。あらゆる素粒子も、あらゆる原子も、あらゆる分子も、あらゆる高分子も、あらゆる原核細胞も、真核細胞も、あらゆる植物も動物も、すべての人間の身体も、すべての人間の意識も、あらゆる家庭も、あらゆる組織も、あらゆる地域社会も、あらゆる国家も、あらゆる国際組織も、あらゆる人種も、人類全体も、地球も、あらゆる恒星もその惑星も、あらゆる銀河も、あらゆる銀河団も、光も闇も、あらゆる時間も空間も、宇宙全体も、すべては根源的本質である完全エネルギーと共に一体である。それぞれが個別的に一体であると同時に全体として一体である。この世に一体でないものは何一つとしてない。この世に相互に関係のないものなど何一つとして存在し得ない。この世の一切は一体である。それゆえ、全体との一体性を忘れたような利己的な個人主義は反本質的である。全体との一体性を生きる全一的な本質実存者こそが真実を生きる者である。

 

 

ユートピアでは人は永遠の中でそれぞれの本質を生きる。

 

 

対象に近付きすぎてはその本当の姿が見えない。対象から適度の距離を置かなければその全体が把握できない。また、さらに距離を置かなければ対象とその対象を包み込む世界との正しい関係がつかめない。人生の全体、社会の全体、さらには世界の全体を正しく理解するためには、時間と空間を超えて、永遠無限の視座から眺めなければならない。永遠無限の究極的全体世界の中でのみ、わたしたちの人生や社会や世界全体のあるべき真実の姿が理解できる。そして、その理解の上に真実の人生を生き、真実の地域社会と真実の地球社会を築き上げることができる。

 

 

意識にとって『自己=世界』は本質的な意味と価値の体系である。

 

 

本質実存は完全エネルギーの人間的展開である。完全エネルギーに相応しく生きることが人生の本質である。本質実存は全一性を生きる。

 

 

完全エネルギーは本質展開する。完全エネルギーは、人間においては、完成された精神においてのみ完全に、すなわち、全一統合的に展開する。真の精神に至った者のみが、その感覚においても、感情においても、知性においても完全に展開することができる。

真精神のみが真に存在する。完全エネルギーは人間においては真精神であり、絶対主体である。

 

 

真精神による完全な社会システムによってのみ人類も本来の完全性を生きることができる。

 

 

完全エネルギーの展開に相応しい地球社会システムとしてのユートピア。

 

 

あらゆる形の完全性の欠如 (歪み・偏り) は反本質的である。ところで、人類において、当然そうであるべき完全性 (全一性・完全バランス状態) が時代を追うごとにさらに失われていく。人類のまだ未熟な知性が反本質的な歪みと偏りを生み出しているのだ。自己中心的偏り、物質中心的偏り、感覚的享楽的偏り...

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉と本質

 

 

 

 

 

 

言葉を持った人間だけが、この本質的宇宙から引き剥がされたように虚しく彷徨い続ける。せっかく身につけた便利な言葉の、その本質を見失うことによって宇宙の本質をも見失ってしまったのだ。今や、本質的内容を失った意味のない言葉を濫用しながら、わたくしたち人間はますます母なる大自然の本質を損ない、そして自分たち自身の本質をも損なっていく。

 

 

言葉を文字で表記し、それを記録することができるようになってから、人間はさらに飛躍的に知識を蓄えていく。そして、その蓄えられた知識を用いてさらに知的に飛躍し、やがて近代的な科学と技術を生み出すに至る。しかしながら、本質は置き去りにされたままだ。人間は自己中心的な科学技術の利用を推し進めて自然を開発し、やがて便利な現代社会を創り出す。そして、そこから得た余暇時間を享楽に振り向けるようになる。しかし、そのような便利さと余暇時間を楽しみながら、人間はさらに大自然の本質を損ない、自己自身の本質をも損なっていく。

 

 

今や、わたくしたち人間は、大自然と一体となって生きている生き物たちが持っている、また、かつての自分たちが持っていたような、大自然に内在する全一的な純粋さや自然さを失ってしまった。そして、記録することのできる言葉によってこれまで積み上げてきた膨大な知識によって、さらに自分たちに都合のいい世界を創り続けていく。しかし、その進行につれて地球世界がますます壊れていく。

 

 

わたくしたち人間はもうふたたびかつての純粋さと自然さを取り戻すことはできない。そこから引き剥がされてしまった大自然の本質へと帰るために残されたただひとつの道は、内なる精神性を開発して、その精神のはたらきを通してふたたび本質に近づいていくことだけである。しかし、人間世界の現状はまだまだ精神性の目覚めからは程遠い。人間たちはさらに反本質的活動を続けていく。

 

 

物、カネ、力、便利さ、享楽......、自己中心的欲望の追求に囚われ、本質を忘れてしまった現代人は、大切な精神性をも損なっていく。世界的に犯罪が多発し、人間不信が蔓延し、貧富の差が拡大し、自殺者、餓死者が増え続ける、そのような社会的状況にあって、例によってこの国の政府は、国民は皆、それぞれの自己責任でそれぞれの人生を自由に生きていくようにとの、表向きにはたいへん耳障りのいい便利な逃げ口上をもって、自らの無責任行政の正当性を主張する。そして結果的に、自然環境のみならず、社会的な環境をもますます荒廃していくに任す。

 

 

 

 

 

 

聖域、聖時、聖所

 

 

 

なぜこの世界は聖なる世界なのか。それは、この世界の全てが、いのちの根源的本質、すなわち永遠の聖なる完全エネルギーから生じ、常にそれと不可分であり、一体であるからである。それゆえ、この世は虚しくあることができない

 

 

 

永遠モード

 

 

 

 

永遠モードにおいてわたくしたちはいのちの最高を生きる。あらゆる常識的な思い込みを超え、あらゆる相対的な価値判断を超え、善悪の彼岸で、純粋ないのちを生きる。永遠モードにおいて、わたくしたちはこの世との本質的な完全調和を生きる。

 

 

 

 

 この腕で無限の宇宙を抱き取る。

 そして、全身で浄らかな真実の充満、完全エネルギー場PLEROMAに心ゆくまで浸り切る。

 

 

 全一性はこの世の一切を完全調和の中に包み込む。

全一性、すなわち、全存在!

全一性は一切を本質化する!

  この世の一切は全一性すなわち永遠の中で移ろう。

 

 

 

 

 

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