ユートピアは本質世界である。その本質世界を実現するためには、本質状態を妨げる原因となるものを一つずつ取り除いていく必要がある。
本質においては虚しいものは何一つとしてない。この世のかりそめに過ぎないあらゆる現象も虚しいものではなく、本質の真の輝きなのだ。われわれの短い夢のような一生もやはり本質そのものの輝きなのだ。
本質的全肯定。この世に意味と価値のないものなど何もない。ところで、本質の否定すなわちニヒリズムはこの世に反本質的連鎖すなわち利己主義の蔓延を引き起こす。そして非本質的な意味と価値の幻想世界を生み出し、本質を蝕み続ける。
現代は反本質的連鎖の時代であり、本質破壊の時代である。われわれは一日も早くこの世に、この世界本来の本質的な意味と価値を回復し、本質的な全肯定のきらめきを世界中に満ちわたらせねばならない。
個人的な問題を単に個人的な問題としてはならない。また、家庭の問題を単に家庭の問題にしてはならない。個人の問題を家庭との関係の中で、家庭の問題を地域社会との関係の中で、地域社会の問題を国との関係の中で、国の問題を世界との関係の中で捉えていかなければならない。すなわち、あらゆる問題を全体世界との連関の中で捉えていかなければならない。
ユートピアはあらゆる形のアンバランス(不公平)を嫌う。ユートピアはあらゆる形の差別を嫌う。ユートピアはあらゆる形の部分性を嫌う。ユートピアはあらゆる形の支配(権力)を嫌う。ユートピアはあらゆる形のエゴイズムを嫌う。ユートピアはあらゆる形のご都合主義を嫌う。ユートピアはあらゆる形の対立を嫌う。ユートピアはあらゆる形の停滞を嫌う。ユートピアはあらゆる形の過剰性を嫌う。ユートピアはあらゆる形のニヒリズムを嫌う。つまり、ユートピアはあらゆる形の偏りと澱みを嫌う。
ユートピアは地球生命系および人類世界の全一バランス状態を目指す。
もうそろそろ本当に真剣に、世界に本質的状態を回復するための地球的ネットワークを作り上げなければならない時だ。現代文明の流れを大きく変えなければならない時だ。われわれの愛しい未来世代のために、もはや、現代人の勝手気ままを放っておいてはならない時だ。今やまったく、現代人の反本質的無法ぶりには目に余るものがある。
全一調和(大自然との調和・全生命系との調和・全人類との調和)を意識しながら生きていく新しい文明の創造。これまでの文明は余りに人間中心的かつ自己中心的で身勝手な文明であった。
いつも、全体との関係の中で考え、生きる、全一的知性。
人類の現代的病理からの解放。そして、真に人間らしい本質的な生の獲得。さらに自己超越的体験。
自己以前的自己(集団的自己) → 個的な自己の確立(自己実現) → 超越的な自己の確立(本質実現)。人は誰も、もっと精神的に成長することができる。
ユートピアは地球市民一人一人の超越的自己の確立と全一調和的な地球社会システムの実現を目指す。
現代人の自由は、自然環境を破壊し、人間同士の間にさらなる差別を生み出していくほどにも放縦なものになってしまった。
差別の強まりとともに対立も深まっていく。富の偏りの強まりとともに対立も深まっていく。
40億年にわたる地球生命系の真剣ないのちの営みを、驕り高ぶったわれわれ現生人類の愚行によって台無しにしてはならない。
現代人にも、いや、傲慢で放埓なわれわれ現代人にこそ、地球生命系全体のいのちの本質的展開に対する重い責任がある。
もう一日も早く、現代人の愚かしい文明の流れの向きを変えていかなければならない。
本質は聖なるものである。人間の恣意によってこれを汚してはならない。自然は聖なるものである。人間の恣意によってこれを汚してはならない。命あるものは聖なるものである。人間の恣意によってこれを汚してはならない。われわれの身心は聖なるものである。われわれの恣意によってこれを汚してはならない。
本質を汚さない生活スタイル。本質を汚さない地域社会運営、本質を汚さない地球社会システム。
全体に公平なシステムを目指さない限りいつまでも世に争い事は絶えない。
資本主義社会の法人格である私的企業は、世界の本質を自社の利潤に優先させることができない。したがって、資本主義社会は本質的であることができない。
現代世界はますます自然的・社会的本質を破壊していく。
利潤によって実質的に階層付けられてしまう資本主義社会。利潤という非本質的なものの多寡によって階層化される資本主義社会は本質的に乗り越えられるべき社会である。脱資本主義社会の構築。そして、この世の生きとし生けるものたちの本質が花開く方向にわれわれの文明を導いていく必要がある。
生命系の本質:生命は持てるあらゆる能力を使って最高最善の生存状態、最高最善の生存環境を求め続ける。
戦争ロボットの開発に励むアメリカ。ロボットによる殺人...。 さらに非人間化する権力志向国家。このままではアメリカ軍はやがて人類の禍となる。力に頼るものはやがて世界の禍の種となって、みずからも滅びる。
無知(本質不在)とニヒリズム(本質否定)から諸々の悪と悲劇が生じる。
無知は本質に対して無関心であり、ニヒリズムは本質に対して対立的である。無知は迷走し、ニヒリズムは破壊する。そして、どちらも本質を汚し続ける。
本質的清浄性を汚すことが最も反本質的なのである。すなわち、過剰の自己中心性を生きることが悪なのである。
聖なる無に融けこむこと! 聖なる無と一体化すること!
二種類の無がある。本質そのものである聖なる無と、本質の否定としてのニヒリズム(虚無)と。
本質的祈りと希望を失ったニヒリズム(虚無)。
本質が最優先されなければならない。物質的経済的豊かさや科学技術の進歩に優先させて世界の本質的浄らかさを保たねばならない。
現代ではコマーシャリズムに汚染されたテレビ映像を通して世界中に反本質が撒き散らされる。
あらゆるバランスの崩れから大きな変化が生じ、その大きな変化が現状を危険にさらす。
生命活動の最高最善を尽くすこと、それがいのちの本質なのだ。そのために、あらゆる反本質的要素を排除して将来の災いを予防し、あらゆる本質的活動を強化していく。
諸悪の根源の一つである私的所有権は大自然の永遠本質に反している。人類のみがこのような身勝手をして数限りない弊害を生んでいる。自己中心的な人類の身勝手が際限なく募り続けてますます地球生命系の本質が損なわれていく。あらゆるバランスの崩れを引き起こして、自然を、そしてまた人間社会を混乱に陥れる。
人類の自己中心的社会システムは永遠本質に反する。
地球社会に永遠本質、すなわち全一バランスを回復していく。
利己的な自由ではなく本質的な自由を、利己的な競争ではなく本質的な競争を。本質活動はこの地に全一バランスを生み出す。
本質社会は全一バランス社会である。
本質がこの世の最高かつ絶対的価値であり、それは一切万象に浸透しながらしかも一切を超越している。
自覚的に本質(状態・関係)を助長することが人間として最高の行ないである。
国際政治の場においても、もうそろそろ自国の一方的な利益の追求ではなく、世界の全一的バランスの実現を優先させる外交が求められる。
軍事大国は野蛮である。もう軍事大国は流行らない。
本質以外のものは結局みな空疎なのではないだろうか、欲望もその欲望の果実も。しかし、人類はその空疎な欲望の後をいつまでも追い続ける。
本質を覆い隠して人を欺くものは永遠の呪いに値する。
われわれみんなが永遠本質の欠くことのできない一部であり、その絶えることのない夢と祈りの一部なのだ。
本質の夢と祈りとなって生きる。本質的な夢と祈りは美しい。
この世界が本質の夢と祈りで満ち溢れますように!!!
大切なのは地域社会および地球社会全体の本質を高め、さらに充実させていくことである。
非本質的な社会システムによってどれほど多くの不幸を生み出しているかはかり知れない。
夢のない現実も、現実のない夢もともに危うい。
わたしたちの世界は、金ではなく、本質を中心に回らなければならない。
少しずつ本質化していく。個人の意識を、また、社会システムを、そして自然環境全体を身近なところから、少しずつ本質化していく。
本質に生かされて生きているわたしたちは、本質が損なわれ続けている今、一日も早くその本質状態を回復して、本質に対するご恩返しをしなければならない。
本質が輝いているとき、そしてまた、失われた本質を取り戻そうとしているとき、人のいのちは輝く。
都会――人間の蟻塚... ますます非人間化、反本質化する都会。都会では人も自然も限りなく反本質化していく。
無神経な人為がもっとも自然を損なう。
現代人の欲望追求が生の本質を見えなくする。
絶対権力は多くの問題を引き起こす、家庭内において、さまざまな組織において、地域社会において、国際社会において... 。 いかなる絶対権力をも許さない社会システムを構築していかなければならない。
テロを生み出さない地球社会の創造。テロを生み出す原因を取り除いていく本質社会。
欲望の現われとしての世界を本質の現われとしての世界に変えていく。われわれの意識を、情報を、住環境を、生活スタイルを、人間関係を本質化していく。
もともと、いかなる権力も全一調和世界の本質に反しているのだ。ましてや、その反本質的な権力を濫用することは二重に反本質的である。わたしたちは現代社会のいかなる権力に対してもその濫用を許さないよう常に眼を光らせていなければならない。
欲望追求的な一方的関係のあり方から本質的な全一調和的相補的関係のあり方へ。
富の偏りや権力の偏り、権利と義務の偏りなどのない全一バランスシステム!
本質を見失った現代人はどこか虚無に似ている。目的もなくあたりを漂うばかり。いや、
本質を見失った現代人はむしろ亡者に似ている。欲望の幻影の後を追いつのるばかり。
利己的思考から超越的思考へ。個的思考から全一的思考へ。個人的欲望追求から全一的本質追求へ。―――人類の精神的飛躍!!!
中身のない現代。内容のない現代。いのちの意味と価値が見失われた現代。表面的現代。便利さと享楽追求的現代。
個人間、企業間、国家間の利己的競争ではなく、個人間、地域間、国家間の全一的協同を!
超越的自己は個人的自己を超え、地域的自己を超え、企業的自己を超え、国家的自己を超え、人種的自己を超え、宗教的自己を超え、人類的自己を超え、さらには生命的自己すらも超えて宇宙万象の本質と一体化する。
社会的存在としての超越的自己は人類的かつ生命系的に思考し、行動する。
全一的連携世界。
人類全体が、それぞれの人種的、民族的、国家的、宗教的、文化的、歴史的、風土的、性的、能力的、個性的違いを超えて共有することのできる世界観・価値観の創造。そしてその人類共有の世界観・価値観に基づいて構築する地球社会システム。
美しい笑い声が木霊するユートピア。
気が付いてみればこの世は数限りない意味と価値に満ち溢れている。
愛情の過剰性から多くの弊害が生じる。過剰の(偏執的)愛情は仮装されたエゴイズムないしは内的不安の表われである。
他者への干渉の過剰性は自己の不在(空虚)性の表われである。
同じように、権力行使の過剰性は自己の空虚性の代償行為である。
超越的自己はいかなる過剰性にも陥ることなく全一的なバランス感覚を生きる。
美しい地球の自然を、みんなで公平に活用し合い、観賞し合い、育て合うユートピア。
このいのちの全てを宇宙万象に負うている。
このいのちの活きがそのまま一切万象に及んでいる。
資本集約的でもなく、知識集約的でもなく、本質集約的なユートピア。
本質的社会ルールに基づいた本質集約的地球社会。
この思いと行いが一切に浸透している。人々の思いと行いが一切に浸透し合っている。生きとし生けるものたちの思いと行いが一切に浸透し合っている。在りと在るものたちの存在が一切に浸透し合っている。この宇宙では一切が一切に浸透し合っている。
この世には何一つとして相互に無縁なものはない。一切は緊密に関係し合っている。
赤子のように無心にこの世に一つの場を占めて存在していることがすでに一切世界と緊密に関係し合って在ることなのであって、ましてやその場を占めている人が思い行うことは直ちに一切万象に浸透するのである。
この世に存在するものは全て、もともと一切万象と一体の全きものとして存在しているのであって、単なる不完全な一部分として存在しているのではない。自己をも含め、この世の全てはもともとどこまでも一体不二であり、相互に完全である。
人間中心的、自己中心的な反本質的連鎖が極まった現代文明・現代社会システム。
存在するものは皆、その本来あるべき完全性(理想状態)に向かって活動し続ける。
本質に基づいた理想的地球社会の全一的デザイン。
どのようにすれば日本をユートピアに変えていくことができるのか、また、どのようにすれば地球社会をユートピアに変えていくことができるのかを、5年、10年と、十分な時間をかけ、また、日本中、世界中に自由ネットワークを編んで、その具体的な社会像とその実現の方法とをシミュレートしていく。そして、50年、100年、200年とかけてそれを実現していく。
住民一人一人のいのちの本質を自由展開することができる社会システムの実現。住民自治地域の地球的ネットワーク世界。
いのちの本質、社会の本質についてみんなで考え、理解を深め、その認識をさらに深め続けていく。
絶対的民主主義+本質的自由主義+生命系の全一調和を中心とした理想世界。
社会の流れを変えていく。真の全体調和世界を目指し、民衆の本質知を高め、しだいに本質集約型社会を作り上げていく。
もっとも公平で、もっとも親和的で、もっとも活き活きと生きることができる理想世界。
どこまでも広やかで浄らかな心の住民たちによってつくり上げられる親和的地域社会。
人生は貴重であり、意味に満ち溢れており、限りなく奥深く、豊かであり、いつも活き活きと躍動しており、しかもさりげなく、慈悲深い。
いつもいのちの本質に焦点を合わせながら生きていく。いく度もわき道にそれながらも、また本質に立ち戻り、できる限り本質に相応しく生きていく。
いのちの本質深くに心の根をはり続け、いのちの無窮を味わいながら生きていく。
表面的と見えることの中にも、いのちの深い本質が潜んでいる。また、つまらないと思われることの中にも、いのちの深い本質が隠れている。
ささやかな本質的幸せを積み重ねていく人生。
宇宙との全一的共感を生きる。小さないのちとの共感を生きる。心と心の共感を生きる。
世界との本質関係を生きる本質実存。本質関係に満ち溢れているユートピア。
いのちの本質表現!! 自分のいのちの本質を表現する人生。それぞれのいのちの本質を生き合える地球社会。
絶対空と絶対空の自然融合。真実のいのちといのちの無心の交わり。
もはや言葉を超えた、真のいのちの、無の風光!
無の風光は絶対的風光である。
絶対的聖性、超越的聖性。この世に聖ならざる時もなく、聖ならざる所もなく、聖ならざる物もなく、聖ならざる命もない。一切が聖性の現れである。
つまるところ、この世のあらゆるところが聖なる領域であり、この命のあらゆる表現が聖なるいのちの活きであり、この世のあらゆる現象が聖なるいのちの現われなのだ。この世の隅々までが聖域に他ならず、この世のあらゆる変容が聖なるいのちの自己変容なのである。
聖なるものの真っ只中に生かされながら生きているこのいのち!!!
さて、近代とは、この世界とこのいのちの聖性喪失の時代である。聖性を失った世界といのちは、無惨な精神的崩落状態に陥ってしまい、今や謹みを忘れてしまった人間たちにその本質を蝕まれ、しだいに崩壊していく。
今やぼろぼろになってしまった地球生命系。そんな地球生命系の、その本来のいのちの輝きを取り戻すため、われわれ人間自身が、この世界の聖性といのちの聖性を、みずからの心の中に呼び戻さなければならない。聖性を喪失した世界といのちはどこまでも空虚である。
空虚な欲望追求社会。空虚な現代人。空虚な現代都市。空虚な現代国家。空虚な現代世界。あらゆる現代的喧騒の中のかぎりない空虚。この聖なる世界に漂うなんという空虚さ!
現代世界の、表面的きらびやかさの陰に潜む、本質的空虚。
聖なるいのちの本質的祈り! わたしたちはふたたびこの聖なる世界を聖なる世界として取り戻していかなければならない。
ところで、究極的には、この世の何一つとして空虚であることはできない。現代世界の空虚さですら、究極的には聖なるものである。つまり、この世では誰一人として空虚であることができないのだ! Hurrah!!! ( 人生、万歳! )