1
永遠にして無のかなたなるPLEROMAより生まれし無数の宇宙。その数知れぬ宇宙の中の一つに今ここに生きているこの生命の純粋感覚。この純粋感覚がそのまま無上の至福なのだとある時ふっと気付いてから、わたしはいつしか、無のかなたから生まれたこの小さな命の純粋至福を、その母なる永遠PLEROMAの聖性に相応しく生きてみたいと願うようになっていった。
そして今、わたしは日に何度も純粋至福に浸る。外界に向かっていた自分の心を内奥の至福の宮居に向けて透明化する。すると、心は呼吸と一つになり、心臓の鼓動と一つになり、体の内部感覚と一つになり、純粋視覚と一つになり、純粋聴覚と一つになる。そしてさらに心はこの一瞬の永遠の中で、過去の一切と一つになる。この一瞬の永遠の中で、わたしは人類から類人猿となり、哺乳動物となり、爬虫類となり、両生類となって海に入り、魚となって海の中を泳ぎまわり、さまざまな海洋生物となって海を漂い、単細胞生物となりやがて生命以前の高分子となり、分子となり、原子となり、核子となり、プラズマ状態となって素粒子となり光となり、やがてついには時間も空間も物質も無いPLEROMA(永遠なる無にして神秘なる超越的純粋エネルギー)へと融け込んでいく。そしてふたたびこの生命の純粋感覚に戻ってくる。その時わたしは永遠そのものの変化それ自体であり、そしてその変化過程をこの日常的永遠の中に純粋感覚する。
そして、その純粋感覚は純粋感情、純粋知性、純粋精神へと展開していき、その純粋精神の中で永遠PLEROMAも宇宙も、自分の命の純粋な感覚も感情も知性も、その他この世界のありとあらゆるものが統合される。つまり、純粋精神の中で、わたしは最も高次の純粋至福に至る。純粋精神はこの宇宙の中にありながら、同時に永遠にして聖なる無と一つであった。そして、その純粋精神の中で統合された
<無=存在> の純粋至福、それがこのわたしの命なのであった。それゆえ、その純粋精神をそのまま生きる時、わたしはまたそのまま純粋至福を生きる。そして、その純粋精神は、非本質的な何ものにも妨げられることなく純粋に展開する時、もっとも活性化する。また、この世の全てのものが純粋展開していくことがこの世界の本来あるべき姿であり、その時、この世の一切は清らかに調和し、われわれ人間の内なる純粋精神も、もっとも高次の純粋至福に至ることができるのだった。
しかし、このわれわれの世界は自己中心的な歪んだ精神によって汚され、本来の清らかな調和が失われていた。人々は純粋至福を知らず、それを生きることもなかった。世界は人間の本質的無知とエゴイズムによって悪循環の虚構の中に沈んでいた。
精神を統合して純粋精神に到り、永遠と一つとなって無為の完全性を純粋経験する。人は全一的無為の中で自己を超えた真己となり、その小さな命を通して、その命とともに無限神秘の永遠が純粋展開していく。無為無心の時、人はみな永遠そのものであり、その時、人と人との交わりはそのまま永遠の純粋展開となる。それはそのまま永遠無為の大自然の風光であり、人は無心の至福に浸される。しかし、その永遠無為の純粋展開と無心の至福を利己的な人為が損なう。永遠の本質を損なう。そして、現代はまさしく利己的人為の時代であり、日々、世界の本質が汚され、人も自然も病み衰えていく。一日も早く、人類の利己的人為を最小限に抑える生き方を工夫しなければ、人間だけでなく生きとし生けるものたちの苦難の時代がいつまでも続いていくことだろう。
プリミティヴな世界は必然にして必須の本質世界である。しかし、農業、牧畜の技術を身につけて以来、人間は徐々に欲望の世界へ踏み込み、やがて、その深みへと嵌っていく。そして、現代はまさしく欲望一色の世界と成り下がってしまった。
本質は世界を豊かにそして清らかに展開する。しかし一方、欲望は世界を汚す。人間は自然を開発し、自らがその一員である地球生命系の健全な生態系を破壊する。そして、そのことによって自らの首を少しずつ絞めていく。
この宇宙のすべては、そのもとをたどればみな清らかなエネルギーである。その清らかなエネルギーを自己中心的な欲望で汚してはならない。
また、この宇宙のすべてのものはもともと一体である。その全一的なものを個人的部分的な欲望で汚してはならない。
そして、この宇宙では、あらゆるものが他のすべてのものと連関している。その全一連関的なものを自らの無知によって汚してはならない。
もともと清らかなこの世の自然の営みを、その清らかなままに純粋経験し、ともに純粋展開していく中で、自らが永遠と同調し、永遠至福に至る。これこそがこの世において人間の本来あるべき生きる姿なのである。
2
この世の一切はダイナミックなバランス状態にある。万象はその源をたどれば原初PLEROMAの完全統合エネルギーである。それは完全であり一体である。そしてこの世の一切は、その完全統合状態を反映し、あらゆる場、あらゆるレベルにおいて最高のバランス状態を保とうとする。そうすることによって原初PLEROMAの本質に近づこうとする。
宇宙は熱平衡状態、また、物理的平衡状態にある。地球生命系はエコロジカルな平衡状態にある。人の体は生理的な平衡状態(ホメオスタシス)にある。人の歩行や運動にもバランスが欠かせない。また、感情的なバランスや精神的なバランスを保つことも大切である。また、世界の経済的バランスが崩れれば国際紛争の原因ともなり、労使のバランスが崩れれば会社経営は不安定になり、水や空気や大地の組成バランスが崩れれば汚染状態に陥り、その他この世のあらゆる関係においてバランス状態が重要となる。そして、今やそのバランス状態があらゆるところで壊され歪められ崩されているのである。
人類による、大自然の全一的なバランス状態(極相)の破壊は、約一万年前に始まった農耕以来、牧畜、古代文明の発生、燃料や家や軍船の建築建造のための森林伐採、また人口の増加等によって次第に進んでいったが、それが加速度的に進行し始めたのは、産業革命によって生産能力が飛躍的に増大し、自由競争経済体制に入り、また、市民革命などによって次第に個人の自由思想が普及し始め、それまでの宗教的な抑制からも解き放たれた人間の欲望が跋扈し始めてからである。それに科学技術の目覚しい進歩が加わって現代に到る。
いまだに森林は開発の名の下に減少し続けている。その開発によってそれまでの豊かな生態系がねこぎにされる。地表はコンクリートに覆われ、川や湖や海の水だけでなく大気も大地も汚染され、人の手の及ぶいたるところで自然の再生能力を超えるほどにまでそのバランスが崩されている。化学物質が食物連鎖の末に人間の体内に濃縮されて取り込まれ、ホルモンバランスを崩す。化石燃料の大量使用などによって地球温暖化が進み、気候が年々不安定になっていく。これらのことが全て地球的な規模で進んでいく。さらに、世界は金融市場に支配されて、今や、国際的にも国内的にも貧富の格差がさらに拡がり、金融活動は実際の経済活動を正確に反映することなくバクチ的投機的なものへと変貌してしまっている。先進国の豊かな者は浪費し、その影で多くの国々の貧しい人々が飢えに苦しんでいる。そしてその上に恐ろしいまでの人口爆発が進行し、地球の生態系も人間世界もアンバランスの極みに到っている。
このような時代にあってこれまでの歴史の単なる延長線上に未来を築くとすれば、人類に明るい未来はない。これまでの歴史の反省の上に立って、大自然の本来のバランス状態と矛盾しない真の世界観に基づいた、なにか新しい文明を生み出していかねばならない。それは、人間中心主義の、人間の欲望の自由を前提としたものではなく、生きとし生けるものが全一的に調和し、さらには地球の物質的なバランスをも十分に考慮した、人類をも含んだ地球生命系にとって最も危険度の小さい、最も持続的な、最も本質的な文明でなければならない。それは、これまでのような、生物社会は弱肉強食的であるという一面的な解釈に基づく競争社会ではなく、さらに一段高い次元の、全一的統合的精神による全一的調和社会でなければならない。そこでは、全体的なバランスがあらゆる次元において追求される。物質系においても、生命系においても、経済的にも精神的にも、国家間、人種間、部族間、そして世代間においても、全体的なバランスが最優先される。その全一的なバランス状態の中で人はそれぞれの欲望の自由ではなく本質の自由を生きる。そして、人類は大自然のダイナミックな本質的営みに対する畏敬と感謝の念を忘れない。人は皆、幼稚な精神性を脱し、成熟した精神性を生きる。
もう、人生の上っ面だけを生きるのではなく、その真実の深みを全一的に生きる文明、そしてそのような文明に必要なのは真の知恵。過去一万年の人類の歴史を振り返り、その誤りを清算し、大自然の本質に根ざした真の文明を新たに築き上げていく。その時、過去の人類の営みも救われ、未来の世代もその恩恵に浴す。新しい世紀、新しいミレニアムに相応しい新しい文明の創造。大自然と人類が一体となった、生きとし生けるものたちの本質が輝く世界。社会の教育力によってエゴイズムと本質に対する無知と怠惰が克服され、大自然に対する感謝と畏敬の念を抱き、本質的知恵に基づきながら自らの本質を展開し、生きていることの至福を味わう人生。全ての人が自覚的に本質に向かって実存する、全ての人が地球生命系の最適化完全化に向かって実存する、全ての人が地球生命系の極相である地球上の理想郷、桃源郷の実現に向かって実存する、全ての人がその本来の姿である清らかなエネルギーに相応しく純粋に生きる、全ての人が、その本来の姿である完全統合エネルギーに相応しく本質において一体となって生きる、全ての人が自らの本質を、完全にして無なる永遠にむかって純粋展開する、そして、全ての人が自らの精神を永遠PLEROMAに同調させて、生きとし生けるもの、在りと在るものたちと共に、生の至福の交響楽を奏でる、そんな文明を築き上げていく。
3
この世界では、あらゆるものが全てのものと全一的に連関している。時間的空間的に無限連関している。それゆえに人はあらゆる物事を清らかな全一無限連関系として見なければならない。そして、その清らかな全一連関系に相応しい生活様式と社会システムを築いていかねばならない。全一連関系は人間にもっと深い認識と、知恵のある慎重な判断と行動を求める。人は人どうし全一的に連関しており、生命界全体と全一的に連関しており、物質的地球、太陽系、銀河系、宇宙全体と全一的に連関しており、宇宙の母なる永遠PLEOMAの純粋エネルギーと全一的に連関している。これらとの関係なくして人間は誰一人としてこの世に存在し得ない。これらの全ては人間の命を支えている本質である。その本質を汚し、身勝手に乱用することは、結局自らの首を絞めることである。そのような愚かしい非本質的な行いを今すぐに止めて、全一調和的な本質を生き始めなければならない。
人間の生き方を分ける一つの対立軸がある。その生き方が本質的であるか否かである。本質的な生き方は一切万象との清らかな全一調和を生きる。自己中心的、浪費的な生き方を否定する。本質的な生き方は生きとし生けるものたちとの調和的共生の最適化を図る。また、あらゆる人々との最も公平な生き方を模索する。そしてお互いにお互いの本質的自由の創造的な生き方を工夫し合う。一方、非本質的な生き方は自分と世界との緊密な関係性を無視して、内容のない、自分勝手な享楽的生き方に没頭する。あるいは、金と名誉を求めて出世やマネーゲームに現を抜かす。また、すべては世間体や生活のためと割り切って中身の薄い諦めの人生を生き、ときどき気晴らしの遊びの中でそのうっぷんを晴らそうとする。非本質的な生き方の中には、諦めと視野の狭さがある。本質に対する無知がある。また、同時に、故のない自惚れがあり、図々しさがある。非本質的な生き方には、無知と身勝手と高慢さがある。自由を欲望追求の自由と思い込んでいて、それが本来、本質を生きる自由だとは気付かない。精神が未熟なのだ。認識が幼稚なのだ。非本質的な生き方は自己中心的で、世界の全一的調和を乱し、あらゆる本質を汚す。非本質的な生き方は他者の犠牲の上に立ち、一方、本質的な生き方は他者と喜びを分かち合う。非本質的な生き方は他者の痛みに鈍感であり、本質的な生き方は他者の苦しみを自分のものと感じる。本質的な生き方は、全一調和的で全一統合的な、すなわち最も精神的な生き方である。人は本質的精神的な生き方に至って最も安定的で、最も喜びに溢れた人生を送ることができる。人類の本質に逆らうことなく、命の基本を守ってさえいれば、もっと幸せになれる。一日も早く、本質的基本に立ち返らねばならない。
もし、人間社会が本質で満たされるなら、この世はなんと喜びに満ちた世界になることか。人と人との関係、人と生き物たちとの関係が友愛に満ちたものとなる。人と大地や水や大気との関係も感謝に満ちたものとなる。すべての関係が清らかで親和的になる。あらゆる関係が美しいハーモニーを奏でる。部分的な犠牲も全体の繁栄と幸せによって贖われる。そこでは小さな喜びから大きな喜びまで本質的根源的な無との対比のなかで純粋体験される。すなわち、そこではすべてが至福となる。もはや薄っぺらでつまらない体験など何一つなくなってしまう。心と心との純粋な交感が更なる喜びを引き寄せる。自分と世界との調和感覚の中で自分が世界と一体となって本質展開していく。本質的認識が深まり、本質的自由のなかで本質的成長を楽しむ。真の知恵と精神性の高まりを楽しむ。もはやお互いに真実の自分を隠し合う必要もなく人はどこでも自分自身でいることができる。今ここに生きているという絶対的な喜びを何ものにも妨げられることなく純粋に味わうことができる。一瞬毎の、純粋なものどうしの出会い。本質どうしの純粋展開。永遠にして聖なる無と測り合えるほどの生。その生の純粋感覚を純粋経験する。そしてそれを真精神によって全一連関係のなかで純粋統合する。純粋感覚と純粋精神のなかの純粋至福。もう誰も利己的である必要がない。もう誰も欲望に振り回される必要がない。本質的であることが欲望を追求しているよりもはるかに素晴らしいと分かっているのだから。
本質世界ではもはや支配という言葉はない。享楽という言葉もない。虐待という言葉もない。競争という言葉もない。階級という言葉もない。対立という言葉もない。嫉妬という言葉もない。差別という言葉もない。浪費という言葉もない。孤独という言葉もない。いじめという言葉もない。優越という言葉もない。勝ち負けという言葉もない。貧富という言葉もない。欺瞞という言葉もない。利己という言葉もない。恨みという言葉もない。憎しみという言葉もない。呪いという言葉もない。戦争という言葉もない。そのほか、世界の全一調和を乱すいかなる言葉もない。人々の心は全一調和のなかの本質活動に集中していて、反本質的な活動には関心がない。地球上の全生命系による完全調和状態である地球世界の極相の実現を目指して、人々の心が一つにまとまっている。人々の心は生きていることの感謝と至福のなかで、生きとし生けるもの、在りと在るものとの共鳴、共感を日々楽しむ。
4
純粋至福は主体的である。そしてそれは精神によって統括される。さらに精神は、統合世界をイメージ化し言語化する。精神は行動と言語を通して世界に働きかける。そして世界とともに展開する。われわれ人間にとって精神こそが最高の自己なのである。
精神は自己世界のあらゆる情報の統合機能である。身体のすべての感覚器官からの情報すなわち目から入ってくる映像や言葉による情報、耳から入ってくる音響や言葉による情報、そのほか皮膚や舌や鼻から伝わってくる情報、体の内部からの情報、さらには、感情的な情報や、頭の中でさまざまな情報を分析して得た知性的な判断や未来予測などといったものまですべてが総合的に統合され、最終的な価値判断が下され、行動の基盤となる。精神は過去と現在を分析し、未来へと決断し行動する。精神は人間の最高の主体である。
健康な精神は成長し続ける。世界に対する認識はより広くより深くより正確になり、次第に世界の本質に近づいていく。その認識の深まりに応じて、精神は世界との関係のあり方を変えていく。精神はより主体性を強めながら、しかし一方、世界全体との一体性をも強めていく。狭量な自己中心性は次第に影をひそめ、全体世界に依存しながら生きている小さな自分に気が付いていく。さらにその認識は世界と自己とがもともと分けることのできない一続きの世界であることへと深まっていく。その時、自己と世界は精神において一つになる。そしてやがては世界の本質である全一性の認識に到達する。すると、あらゆる対立的な視座が意味をなさなくなってくる。世界と自己は連続的であり相補的であることが分かってくる。この世の全てが渾然一体なのだ。それから精神は世界と自己との一体性を生き始める。すると利己的であることが全く意味のない幻影のようなものに思われてくる。むしろ世界と自己とが清らかに調和している状態のほうがよほど真実に近く、そのとき心も充実していることに気が付く。やがて人はそのような世界と自己との全き調和のなかに認識的な至福を味わうようになる。それは小さな自己に閉じ込められていた利己的な陶酔ではなく、世界全体へと開かれ、調和し、一体化した至福なのだ。そのとき人は、世界の本質である清らかな全一的エネルギーと一つになる。そのとき人は、自分と宇宙との間に連続的に展開している、光と素粒子と、物と物との間に働くさまざまな力と、原子と分子と高分子と、生命細胞と感覚と感情と、知性と精神と、さらには時間と空間と、そして無ですらもが、その根源において、この宇宙を生み出した超越的母体である最高次の統合的エネルギー(PLEROMA)に他ならず、その根源的な清らかなエネルギーにおいてこの世の全てはもともと一体であったことを確信する。そして精神はその新しい認識を受け入れ、その認識の上に立って世界との新たな関係様式と価値体系を築き上げる。精神は自らの本質である清らかなエネルギーに相応しく生きたいと切に願うようになる。
人はより精神性を増してくる。感覚でもなく感情でもなく知性でもなく、それらすべてをより高い次元で統合する精神へと自己を明け渡す。世界の本質へと連なる精神に自己を臣従させる。世界の本質と一体となった精神を主(あるじ)として自己を構築しなおす。感覚も感情も知性も自己中心性の偏りを徐々にぬぐい去り、その働きはより透明度を増す。真実を真実のままに感受し分析し認識する。より公平で全一的な価値判断と行動が身につきはじめる。そしてやがて、自己と世界とを一体のものとしてみる精神の促しに従った本質実存者が誕生する。本質実存者は世界の本質である全一調和の実現を目指す。あらゆるものが全一的なバランスの中で、それぞれの最高本質を展開する。あらゆるものがあらゆるものとの完全連関の中でそれぞれの純粋本質を転じていく。公平で清らかな関係の網の目の中であらゆるものがその本質を輝かす。生きとし生けるものたちが最高の安定の中でそれぞれの繁栄を楽しむ。本質活動を妨げるものが最小限に押さえ込まれ、本質活動を助長するものが世界にあふれる。世界は一人一人の精神によって本質統合されていく。大自然と人類との完全バランス世界がもたらされていく。欲望ではなく本質が、無知ではなく真の知恵が世に栄える。人はその精神を本質すなわち世界の清らかな全一調和的展開に同調させて生きる。人はもう自分だけの表面的刹那的な快楽を追い求める幼児性から抜け出して、より高次の幸せを追い求める。より普遍的でより恒久的な喜びを生きる。多くの人々と共感し、また多くの生き物たちとも共感し、自然の風景と共鳴し合う豊かな生命の多様性の中のダイナミックなバランスを転じていく。自己の一切と世界の一切とが親和する一体性を転じていく。その一体性は精神に全的に依存している。人の実存は精神に依っている。精神が人の人生を究極的に決定づける。精神のあり方によって、人の人生が決まるのだ。
しかし、人が精神を高めていくのは思いのほか難しい。社会にはさまざまな反本質的な力や習慣やシステムが働いていて、さらにまた、人間の心に内在する怠惰や、変化に対する心理的な抵抗などが働いて人の精神が起動するのを妨げる。人はまた日常的な生活の忙しさに紛れて精神を開発していくことができない。多くの人はいつまでも過去から引き継いだ習慣を自動的に生き続ける。
5
本質を観る能力、本質を生きる能力、本質を味わう能力が精神性の高まりと共に開発されてくる。本質的精神はあらゆるものの中にバランスとハーモニーを見、その更なる完全化を夢見る。この世のあらゆる関係は時々刻々と変化しながらも、常により完全な状態を目指すのがその本質なのだ。素粒子も原子も分子も、銀河や恒星や惑星も、あらゆる物質は、時間と空間の連続的変化の中でそれぞれの安定的バランスを保ちながら転じている。生き物たちの体も、生き延びるため常により安定的な体内環境を保とうとする。さらにその働きは、生き物を包み込む外部環境にまで及び、それを自分たちの生存に都合のいいように活用してきた。
しかし、悲しいかな、人類にいたってそれは、本質を逸脱して自らの生存を脅かすほどにまで変質してしまった。人類のがむしゃらな欲望追求が、自然に備わっているバランス維持能力をはるかに超えてその自然環境を変えてきてしまったのだ。この本質に反する行為に対して、健康な本質的精神は敏感に反応する。自然本来のバランス状態を回復するために機能し始める。他のいかなるものにも優先させて、自然と人間との本質的バランス関係を回復させようと工夫する。精神は、人類がこれまで作り上げてきた社会的悪循環を断ち切ろうとする。その悪循環は、長い人類の歴史の中で人の心に染みついた、節度のない人間中心主義的高慢と、全体世界との本質的な関係性を忘れた利己的な個人主義に根を下ろしているものなのだが、そのことに気がつかないままいつまでも世代から世代へと引き継がれて、家庭の絆を弱め、社会の教育力を弱め、あらゆる人間関係を貧しいものにし、社会システムを歪め、自然を破壊し、生態系をずたずたにし、世界と自分自身の本質を汚し続けてきたのだった。精神はその頑迷な悪循環の連鎖を断ち切ろうとする。
精神は永遠本質に親和し、永遠本質そのものを純粋に展開しようとする。精神は<自己=世界>の全一調和、全一バランスを求める。精神は本質状態の維持・継続を求める。そして、精神は自らの安定的な至福状態を求める。そのため、精神は反本質的なものと闘う。精神は本質を守り、本質に反するものと永遠に対立する。精神は<自己=世界>との全一的な調和を楽しみながらも、反本質的なものに対して超越的に闘う。それが精神の本質的働きなのだ。精神はこの世の時空と物質的生命的世界に根付きながらも、同時に、超越的な永遠的無に連なっている。
さて、この世には無限大から無限小まで、さまざまな時間的・空間的なスケールがある。素粒子的な時空から原子的分子的な時空、バクテリア的な時空から人間的な時空、地球的な時空から宇宙的な時空、そしてさらには時間と空間を超越した永遠無限神秘の世界まで、実にさまざまな物差しがある。わたしたちはそのようなさまざまな物差しを、時と場合とに応じて無意識的に使い分けながら生きている。
また、人間的な時空といってもいろいろな時空がある。それは、個人的な時空から家庭的な時空、学校や会社的な時空、地域社会的な時空から国家的な時空、民族的な時空から人類的な時空にまで広がる。
そして、時代は今われわれに人類的かつ地球的時空において考えるように要求している。人間の活動が及ぼす影響の範囲が、地球の全生命系にまで及ぶようになってしまった現代において、人は個人的家庭的な時空において、あるいは会社的、地域社会的な時空において考えているだけではもはや十分ではなくなってしまった。さらには、国家的な時空において考えていてさえも十分ではない。人は一人一人が人類的地球的時空において考えていかなければならない時代を迎えてしまっているのである。
いまや人は生活のあらゆる場面において本質的な見直しをしていかなければならない。人類全体の問題として、政治的経済的文化的思想的に真に本質的なビジョンとパラダイムを形成し、これまでの衣食住やあらゆる社会的な慣習を見直し、人類的生命系的地球的なバランスを恒常的に維持継続する社会システムを構築しなければならない。本質的なバランスを中心とした、全生命系の統合体を創造的に築いていかねばならない。そしてこれまでの歴史の延長線上に、力と金と策謀によるさもしい関係世界を築いていくのではなく、本質と本質との真実で豊かな関係系を築き上げていく。そして、生きとし生けるものが皆、本質的な喜びを生きることができ、また、本質的な悲しみを共に悲しむことのできる世界を実現していく。
本質的な喜びは精神による全一統合的生活の中にある。単なる感覚的生活でもなく、単なる感情的生活でもなく、単なる享楽的生活でもなく、単なる知的生活でもなく、あらゆる存在が全一的に統合された精神的生活の中にのみ本質的喜びにあふれた真の生活がある。これまでのように際限も無く母なる自然の恵みを濫費するのではなく、自然に対する負担を必要最小限に止める全一的生活スタイルを創造していかなければならない。自然の秩序は、さまざまな秩序が無限に集まった相互連関系であり、渾一的であり全一調和的である。一方、人間の秩序は、人間に都合よく選ばれたいくつかの秩序の人為的組み合わせであり、それは必然的に人間に都合のいい偏りを生み出す。そのような人間中心的偏りを超えて全一調和的な生活スタイルを創造していかなければならない。
6
この世の全ては全一的バランスの上に成り立っている。ところが、人間はいったん自然界との全一的な繋がりを見失うと、日を追うごとに自己中心性を募らせ、高慢になっていく。都市化した現代人は今やその大自然との本質的な関係を忘れ、心の荒廃化が進み、ニヒリスティックになり、なにものにも真の価値を見出すことができないで、ただ時の流れに押し流されるだけ。真の自己を見失った現代人は、社会のシステムに自動人形のように取り込まれ、利潤追求の奴隷となって幻影のような利益を追い求め、われを忘れて策謀におぼれ、他の人々や未来の人々や他の生き物のことなどほとんど目に入らない。世界との全一的関係性に鈍感になってしまい、自分の目先の利益のことしか見えなくなる。人は利害の前に変節して図々しくなり、反本質化していく。そして世界の永遠本質を汚し続けていく。
これまで非本質的人間たちが欲望の王国をつくり、欲望の都市国家をつくり、欲望の帝国をつくり、欲望の自由主義国家をつくってきた。欲望の経済システムをつくり、欲望の科学技術を発展させてきた。そして、これまでにこの地球上のあらゆる本質が蹂躙されてきた。自然は破壊され、多くの生物種は絶滅に追いやられ、人類の本質活動は押さえ込まれ、なおざりにされてきた。自己中心的反本質的な人間たちによってこれまでの歴史は牛耳られてきた。しかしそれももはや限界に達してしまった。そのような人間たちにこれ以上この世界を委ねておくわけにはいかなくなった。そんなことをすれば多くの生き物たちとともに人類も滅びなければならない。今や、この地球上に反本質的状況をつくり出してきた元凶たちをその支配的な立場から追い落とし、人類的地球的災いの原因を取り除くべき時だ。人類にはその万物の霊長の名に相応しい、もっと本質的な、もっと真の喜びに満ちた世界がなければならない。そのためには、人類は類としてもっと精神的に成長しなければならない。それはまだまだ長い道のりかもしれない、しかし、その道の先には本当の喜びが待っている。
世界との全一調和の中で、本質のために働くのは楽しい。自己の真精神の求めるままに、<自己=世界>の本質のために生きるのは楽しい。自己の永遠本質を全体世界とともに転じながら、より豊かな本質を生み出すために生きるのは楽しい。この世の一切を統合調和させる全一思考に依りながら、この世界を本質的未来に向かって創造的に展開させていくことは無上の喜びである。
われわれが生きる第三ミレニアムは本質回帰の時代であり、この新しい千年紀へと導く21世紀は反本質との闘いの世紀である。これまで、金と力と策謀によって世界を牛耳ってきた図々しい反本質的人間たちはもう時代遅れとなり、本質に目覚めた世界中の市民たちのネットワークが新しい時代を切り開いていく。人類と全生命系の健やかな存続を賭けて、これまでの本質的無知と利己的欲望追求の社会システムを突き崩していく。そして、全生命系と全人類がそれぞれの本質を生きながら全一調和の中で共に繁栄していく新しい地球共同体を創造していく。人類はその精神性を限りなく高めていくことに真の喜びをみいだし、その本質を全一調和世界の中で生きることに至福を味わい、全生命系とともに自らの世界を高次統合していくことに生き甲斐を覚える。人類の一万年の長きにわたる無知と利己主義によるがむしゃらな反本質的悪循環のシステムを清算し、本質が本質を呼び寄せる真の知恵に基づく地球社会システムを築いていく。人類が類として初めて、人間の名に相応しい世界を自覚的に創りあげていく。
人が大自然の森羅万象と和し、その働きかけに呼応して生きる世界。また、一人一人がお互いに調和し合い、地域と地域がお互いに調和し合い、民族と民族が、国家と国家が、宗教と宗教が、人種と人種がお互いに調和し合い、そして人類全体が全一調和して、この地球上で生きとし生けるものたちとの全一バランスの中で生きていく世界。人が類的思考、地球的思考を身につけて、全一的公平さの中でそれぞれの限られた人生を清らかに生きていく世界。利己的な利害得失にとらわれた心の狭いこれまでの古い世界から抜け出して、永遠無限の本質世界へと開かれた真の精神を生きることのできるまったく新しい世界をこの地に実現していく。もはやだれも個人的な利潤の追求は許されず、だれも土地や水や樹木といった自然を私有することは許されず、ただ一代限りの本質的な利用が認められるだけ。人は、大自然の本質を汚さないように節度を守って生き、必要最小限度の衣食住の上に少し加味した分だけ消費することができる。後は祭事用に少しの贅沢が許されるだけ。全人類が公平に自然の恵みを利用し、また、他の生き物たちの領分をできるかぎり侵さない。人類の第一の務めは、全一調和的な本質実存である。地球社会のシステムはそのために機能するものでなければならない。この地球上のあらゆる場所で、あらゆる人間とあらゆる生き物たちが本質的喜びに輝いていなければならない。いちど夢に描いてみよう、生きとし生けるものたちが全一的なハーモニーの中で安らい、喜びの歌を歌っている情景を。そして、これは人がその気になれば案外簡単に実現できることなのだ。最初からそんなことは不可能だと諦める幼稚でめめしいペシミズムさえ乗り越えてしまえば、あとはスムーズに事が運んでいく。なぜなら、それは永遠の真実に導かれ後押しされている本質的な活動に他ならないのだから。人は心の底から自分を信じ、自信を持って生きていける。人はそのとき後悔することがない。人は永遠PLEROMAの清らかなエネルギーと、宇宙の清らかな展開と、地球生命系の清らかな活動と一体となった人間本来の本質的自己を生きていくのだから。それこそがこの宇宙に生きていることの至福なのだから。
7
精神は全一調和の純粋展開を生きる。精神は永遠PLEROMAエネルギーの純粋展開を生きる。精神は宇宙の全一バランスを生きる。精神は地球生命系の全一バランスを生きる。精神は人類すべての全一バランスを生きる。精神は国民すべての全一バランスを生きる。精神は組織の全一バランスを生きる。精神はコミュニティーの全一バランスを生きる。精神は家庭の全一バランスを生きる。精神は身体の全一バランスを生きる。精神は知性の全一バランスを生きる。精神は感情の全一バランスを生きる。精神は感覚の全一バランスを生きる。精神は一切の全一統合を生きる。精神は純粋至福を生きる。精神は無の上の全一統合的生命を純粋実存する。精神は永遠無限神秘の真法界へと開かれた純粋本質を実存する。精神は本質への畏敬と至福を実存する。精神にとってはこの目の前の永遠現在を生きることのすべてが至福に他ならない。
精神にとってはこの世のすべては無上の営みである。精神にとってはこの世のすべてがその究極において、真偽・善悪・美醜を超えた無上の営みである。なぜなら、それらのすべては、永遠PLEROMAの純粋エネルギーの展開なのだから。それゆえ、人生においてそのエネルギーが誤用されてはならない。その本来の全一統合的純粋性を保たねばならない。しかし、往々にして人類は、その精神の未熟性ゆえに自己中心的偏りを示してしまう。そして、その自然環境や人間社会に対する反本質的影響が歴史の積み重なりとともに増幅、拡大していき、あげくの果てには生命系を脅かし、自らの存続をも危うくするに到る。人類の精神性の向上は緊急の課題である。精神が人類の死活を制する。人類にとって今や精神がDNAを超えてドミナントなのである。
永遠PLEROMAエネルギーは一切に及ぶ。精神もまた一切に及ぶ。精神は一切に及び、それらを統合する。それはPLEROMAに似る。精神性を高めることによって、人は本質に近づいていく。精神を通して人は本質実存する。
精神にとって過去の甘い思い出は至福だ。しかし、精神にとって、真の精神に出会うことこそ最高の至福だ。精神の至福を生きる者が、同じく精神の至福を生きる者に出会うとき、人は最高の時を味わう。至福と至福が出会うとき、鏡と鏡を合わせた時のようにお互いの至福を無限に反映し合う。その喜びは尽きるところを知らない。それは桃源郷にいるかのようだ。それこそが人生最高の醍醐味だ。
精神は永遠の本質的営みに感謝する。日々、また時々刻々と感謝し続ける。もしその永遠本質の営みがなければ、そもそもこの命が在り得ないのだから、この精神もこの至福も在り得ないのだから。
人が永遠本質に対する感謝と畏敬の念さえ忘れなければ、道を踏み外す者はいない。この事は何度でも、繰り返し繰り返し語られなければならない。永遠本質を先にして、自己や人間を後にしなければならない。永遠本質が栄えれば、人類も栄えるのだ。表面的な享楽に現を抜かして、自己の本質を忘れてはならない。幼稚な自惚れや安っぽい自己満足を優先させてはならない。全体の調和の中に全体の繁栄があるのだ。全体の調和を忘れて個を優先させてはならない。人は自然に対する感謝と畏敬の念を抱きながら、より完全な本質状態に向かって実存しなければならない。すなわちより完全な全一調和、より完全な全一バランスをこの世に実現させねばならない。世界に非本質的なアンバランスを生み出す制度を清算して、清らかに世界を全一調和させよう。
21世紀において、あらゆる勢力を結集して、この地球上に本質世界を実現させよう。市民グループ、学者、芸術家、宗教家、法律家、家庭の主婦、青少年、ボランティア、老人、政治家、科学者、評論家、そのほか本質世界の実現を求めるすべての人々の力を結集し、ネットワーク化していく。そして、それぞれの地域と持ち場からこの地球を本質化していく。少しずつ、そして着実に、人々の精神性を高め、世界を本質化していく。もはや誰もこの時代的な流れを押し止めることはできない。自信と勇気を持って新世界を切り開いていこう。これまでの社会制度的、意識的、習慣的枠組みを超えて、真の本質世界を創り上げていこう。もはや階級という言葉もない、貧富の差もない、宗教的な対立もない、民族的な対立もない、国家的な対立もない、自然との対立もない、あらゆるものが全一的に調和している世界。そんな世界では人々はほんの些細なことの中にも深い喜びを感じ合うことができる。蟻が前足で触覚の汚れを拭う仕種にも、だんご虫が枯葉の上を歩いていく姿にも、かたばみの花が風に揺れる風情にも、ヒヨドリがヒーョヒーョと鳴きながら屋根の上を飛んでいく姿にも、猫が日向であくびをする姿にも、地面に揺れる梢のシルエットにも、晩秋の柔らかな日差しにも、波が浜辺の岩礁を洗う風情にも、公園のベンチで憩う人々の姿にも、そのほかさまざまなさりげない小さな情景にも深い喜びを感じることができる。人々の心は命の本質に同調していて、永遠現在に現れ出て純粋展開している世界の小さな情景にも共感するのだ。ところがそれらの情景のすべては深い喜びの泉であるとはいっても、しかしまたその場かぎりの、行き過ぎてふたたび帰らぬ姿でもある。そして、人は至福を味わいながらも同時にその儚さをいとおしむ。
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社会制度しだいで人は幸せにも不幸せにもなる。また、精神のあり方しだいで人は幸せにも不幸せにもなる。社会制度と精神のあり方は世界の本質化にとって車の両輪のようだ。社会制度を改善し、精神を高めていかなければならないのだ。そして、この地球上に全一バランスの理想世界を創りあげていかねばならない。世界はもっともっと素晴らしいところにすることができる。21世紀はそのための挑戦の世紀だ。人類にとって飛躍の時期だ。これまでの歴史を見つめなおし、新たな歴史を構築していくターニングポイントだ。人類が類として初めてその精神性を一段高め、類として本質を実存していく。そのための新しい千年紀のはじまりなのだ。欲望統合世界から本質統合世界へと転回していく曲がり角だ。権力と金と術策による支配から、公平と感謝と知恵による共生へと変貌する。誰もがお互いの本質を何よりも尊重し、その本質が全一的に展開されるようにと願う。人は皆みずからの学びによって、自己自身の精神を、新しい本質統合社会を生きていくに十分なほど高めることができる。さらに、社会のより本質的な新しいシステムがその精神を日常生活の中で強化していく。人は皆お互いを信じ合うことができ、お互いを助け合うことができ、お互いに喜び合うことができる。人はお互いの本質を高め合い、深め合うことができる。人は高慢になることもなく、卑下することもなく、人を羨むこともなく、蔑むこともなく、それぞれが自分の本質のかけがえの無さを自覚し、それをできるかぎり豊かに展開させようと努める。人は皆、この世は、あらゆる人々、生きとし生けるもの、在りと在るすべてのものとによってなる一つの大きな万華鏡のような世界だということを知っている。そのような一つの全体と無数の部分とが緊密に関係し合う全一連関世界で、人はそれぞれみな、その全一的な世界を構成している他に掛け替えの無い部分として、自らも清らかに転じていきたいと願う。そこでは何よりも清らかな心によって支えられる全一的なバランスが大事にされる。そしてその中で人はそれぞれの本質を自由に実存していく。本質において全てのものは一体なのだ。その一体のところをそれぞれの本来の性向に従って自由に実存していく。誰もが、自らの本質的な至福を生きる。そしてお互いがそれぞれの至福を喜び合う。世界は至福に溢れる。
全一調和の本質世界では、歴史が深まれば深まるほど世界は喜びに溢れていく。人々の精神はより高く、より深くなっていく。そして世界はより本質化していく。生きることはより楽しいものとなり、死ぬことはより充実したものとなる。本質的な様々な夢が現実化していく。無知と欲望とによって浪費され、さまざまな悲劇によって彩られてきた過去は遠いものとなり、知恵と本質活動によって真の創造と至福に彩られた未来が現在化していく。もはや誰もこの流れを止めることはできない。
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