その時、思いの外大きな声でミンミンゼミが鳴き始めた。すぐ後ろの木で鳴いているらしい。傍若無人なその声だけがほかの蝉の声から際立っていた。それはどこか、この世での短い生の時を身一杯に謳歌して迷わぬ、純一な命そのものの陶酔の歌声のようだった。歌うべき時に沈思する愚をおかすことなく、天空に響けとばかりに歌い続ける。そんなすがたの中には、頭で生き始めたわれわれ人間の失ってしまった大切なものがあると、今、啓一は思う。
後ろを振り返り、節くれだった脂っこい桜の老木の幹や枝々を見上げて、その大きな声の主をさがしてみた。しかしその姿はどこにも見当たらなかった。
その桜の木の幹をたくさんの蟻が上ったり下りたりと忙しく行き来していた。啓一はベンチに座った身体をねじった姿勢のまま、しばらくその蟻たちの働く姿を眺めていた。そのうちふと、その木の根方のすぐ傍にころがっているこぶし大の石影に、白い斑点のある黒い甲虫がいるのに気がついた。
それは体長三センチくらいのカミキリムシだった。背を上にして、二本の長い触角は、それぞれに斜め上方に弧を描いて伸びていたが、胴の下の六本の肢は、押し潰されたように、不自然に折れ曲がって硬直していた。そして、下腹部の辺りには十匹ほどの蟻がたかっているのだった。それは確かに死んでいた。
しかし、その、雑草の生い茂っている中で、石の傍にうずくまり、静かに死を現象しているカミキリムシの姿には、自然に対するいかなる違和をも感じさせない、ある種の、崇高でなくもない調和した美がひそんでいるように思われた。確かに、下腹部を蟻に食い破られ、少し埃をかぶってくすんで見えるその姿には、どことなく見映えのしないみじめさがつきまとってはいた。しかしそれにもかかわらず、そこには、そんなみじめさをなんなく耐えているひたすらな、空(の強さとでもいえるものがあるのだった。カミキリムシは確かに、ひたすらな生命を生きて、そして今は、ひたすらな死を死んでいる。このひたすらな、そのまま断絶することなく空へと連なる非感傷的な生き様死に様こそ、あの日以来啓一が求め続けているものに違いなかった。
しばらく啓一は、そのむやみに騒ぎ立てることのない静かな死に心を奪われていた。やがて、それから目を離すと、ふたたび通路越しに拡がっている広い公園の花園に向き合った。
すぐ眼の前の小さな花壇の中央あたりには、今を咲き誇るグラジオラスの鮮紅の拡がりがある。彼はその紅い花々のあたりに焦点の定まらない視線を漂わせながら、ちょうど一年前のあの事を想い起こしていた。
その日は同僚二人と駅裏のなじみの居酒屋でしたたか飲んでしまった。それほど酔ったのは久し振りであった。話の種もつき、場にも飽いて、ようやく腰を上げ、店の前で二人と別れて一人よろける足取りで駅に来た。駅構内の洗面所で小用を足していると、すぐ隣で用を足していた労務者風の男が、汚れた壁に額の生え際のあたりを押しつけ揺らぐ身体を支えながら、突然、感極まったといった調子で、「人間だもんな、やっぱり人間だもんな…」と口走り始めた。横目でその男を眺め、『自分よりも酔ってる』、と思いながらも、心密かに、『まったくなあ、人間だもんな』と、よくその理由も分からないまま、その言葉に共感してしまった。
その夜、アパートへたどり着いたのが十時半を少し過ぎたころであった。日ごろの習慣どおりに郵便受けを開けると中に一枚の葉書があった。その表には受信人の自分の名前だけで発信人の名前がなかった。裏を返すと、左下に見覚えのない三つの名前が併記されていて、そのうち二つは女性の名前だった。不審に思って印刷されたその文面を読み始めた。そして茫然とその場に立ち尽くしてしまった。
あまりに思いがけない知らせであった。言葉にならない驚きで頭が霞みそうであった。それまでの酔い心地などはどこかへ消し飛んでしまった。なぜか身体がこわばってしかたがなかった。
野田さんが亡くなられた。それも二週間も前のことだ。―――勤務中に脳溢血で倒れ、四日間の昏睡状態の後帰らぬ人となってしまいました ――― そんな馬鹿な事が…
その夜は明け方近くまで寝付けなかった。もう野田さんはこの世にはいないのだと、どれだけ自分に言い聞かせてみても、それをにわかに信じることができないのだった。いつまでも夢の中のような非現実感がつきまとった。
翌日定時に会社を終えると、その足で郊外の野田さん宅に伺った。先に訪ねた時と少しも変わらぬ静かな佇まいであった。玄関のベルを押せば、野田さんその人が迎えてくださるような気がしてしようがなかった。どうしてもまだその人の死を信じることができないのだった。
しかし、奥様に案内された仏間で真新しい位牌を前にした時、これでこそ終わったと諦めた。
野田さんとは二十歳以上も年が違った。しかし、なぜか気が合った。同じ会社に勤めていたころ、よく帰りに居酒屋へ寄っては安酒を飲んだ。飲みながら、人生のこと、芸術のことなどを語り合った。背が高く、がっしりした体躯に似合って、野田さんにはこせこせと神経質なところがなかった。そして神経の細かい自分の繰言をそっくり包み込んで下さった。勤める会社が別々になってから後も二人はときどき連絡を取り合って会っていた。しかしそのような野田さんとも、死の一月ほど前に初めて行った八重洲口近くの小料理屋で飲んだのが最後となった。
野田さんの四十代半ばでの突然の死は、それまで漠然としか考えたことのなった自分自身の死のことを身近に引き寄せるきっかけとなった。実際、その日以来、自分もいつかは死ななければならないのだということを支点にすえて物事を感じ考えることが多くなった。そうすると、まず、判で押したように単調な毎日の生活が虚しく感じられてきた。と同時に、そんな虚しい日々の積み重なりとしての人生そのものが白々しく見え始めてきた。
ひとたびそのように思い始めると、その重苦しい気分はさらに力を増してきて、生活のあらゆる断面へ侵食してきた。何をするにも身が入らなくなった。投げやりな気分が行動を漂白していった。そしてよく一人で酒を飲んだ。
しかし、そのうち酒を飲んで酔うことすらつまらなくなってきた。そんなころ、ふと思い立って、かつて読んだ太宰治の『トカトントン』を読み返してみて今の自分にしっくり理解できるように思われた。それがきっかけとなって、しばらくは彼の作品を次々と読んでいっては、なんだか非常な親近性に慰められたりした。またその頃、さまざまな仏教書などをあさり読んでは、似而非僧的なポーズをとって、理解の浅い無とやら空とやらの中に居心地よく居候をきめこみ、少しは超脱の大安人を楽しんではみたものの、やがてそれにも白々しさがまつわり始め、えゝい、こうなったら思い切って死んでやろうか、と思ってはみた。しかしそれすらどうにも間が抜けているようでつまらず、それ以上にやはり訳の分からないこの命が惜しくて、止してしまった。
死ぬのが怖いのだから、残る道はただ１つ、息の根の続く限り、なんとしても執拗に生きる以外にないのだった。しかし、まさにその生きるということが耐え難いほどにもつまらないのだった。こんな風な、手に負えない心理状態にあって、それでもなんとか生き続ける方途を探さねばならないとばかり考えても考えても、どうにも確かな手強い生き様を見い出すことができなかった。それで自嘲に自嘲を重ねるようなつまらない日々を送ってきて、そのうち、毎日同じ机に向かい、上役の顔色をうかがいながらあくせくしている自分の姿が浅ましくこっけいで、ある日ふっと会社を辞めて、アパートでぶらぶらし始めた。
すると、朝起きても、会社へ行かなければいけないといった張りつめた気持ちもなくなり、どこか社会の堅牢な機構から急に宙に浮いてしまった、何の支えもない人間になったような心細さを覚えた。そんな手持ち無沙汰な、ぼんやりとなにをするでもない空疎な一週間を過ごした頃から、にわかに世間の目が強く意識されだした。そして、それを避けようとて、朝早くから、さも会社へ出勤するかのような風を装い、近くの図書館へと通い始めた。
図書館では、持て余した時間をつぶすために本を読んだ。本は何でもよかった。興をおぼえたものを書架から引き抜いてきては読んだ。そしてそんな生活を三月ほども続けて、やがてどうにも神経が疲れ、頭が重く、また、わずかな蓄えも残り乏しく、心細い思いがつのり、そうすると故郷がなつかしくて、二年ぶりに郷里に帰った。
家では帰ったその夜に、母から、仕事をしていないことや将来の生活設計のことなどで愚痴を聞かされた。それでもやはり家に帰ったという安心感からか、どこか身も心もくつろいで、食事もよくのどを通るのだった。そして翌日からは母も愚痴をこぼすよりは息子の久し振りの帰郷を喜ぶ風であった。
居心地のいい家にいると、奇妙なことに、それまで長く悩んできたすべてのことがどうでもよいつまらないことのように感じられだし、時々独りで、つい先までの自分を、戯れに『苦悩嗜好性神経症』と名づけてみたりしては、ひそかに苦笑した。
しかし、そのような余裕のある穏やかな状態も一週間とは続かなかった。雨の降る日曜日の夕方、畳の上で怠惰に仰臥していた時のことだった。思いもかけず、台所で夕食の支度をしながら誰に言うともなく独りごちた母の次のような言葉が耳に忍び込んできた。
「毎日毎日、こんな同じことの繰り返しで死んでいかねばならんのかねえ、ほんまに人間なんかつまらんねえ。」
その見事な不意打ちに、思わず心の中で声をあげてしまった。『あゝ、母も同じ嘆きの中にいる。』そう思うと、またあの胸苦しくとらえどころのないニヒリズムへと落ち込んでいった。老いた母の言葉の一音一音が、胸の奥深くに秘められていた死の主調音と共鳴し始めたのだった。右に寝返りを打ちながら、それまで心地よく伸ばしていた四肢を胸元に硬く引き寄せふっと眉根を寄せた。しかし、この生に四六時中付き纏って離れぬ虚しさは、誰もが多少なりとも内に秘めて耐えているものに違いなかった。父は酒を飲むとよく口癖のように、「死んでしまえばそれまでよ。」と言っていた。また、「俺は一度死んだ人間だ。この今の俺の命は付録に過ぎんのだ。」とも言っていた。そんな言葉の背後には、大戦中の、他に語り伝えることのできぬ無慚な記憶が潜んでいるに違いなかった。
その夜は冗談なども交えながら常よりも陽気に振舞った。
翌朝起きると、二日間降り続いた雨も止み、雲の切れ間からは明るい青い空が覗いていた。
朝食の後、家の者に行き先も告げずに外に出た時はもう九時十五分過ぎだった。近くの公園を抜け、駅に出て、そこから電車とバスを乗り継ぎ、庄川の上流に入った。車中での三時間余りは、深沢七郎の『笛吹川』を読んだり、窓外の風景を眺めたりして過ごした。
急に思い立ってこんな山中へ入ったのは、物言わずして多くを語りかけてくる奥深い自然に、暗鬱に疲弊した自分の胸中を映して、この泥中に足を取られて動きもままならないような状態から、どうにかして抜け出したいと、それだけを願っての事だった。
バスを降りると、人気を避けて、川沿いの山道をさらに登った。やがて三十分ほども歩くと、思いがけず、流れの一部を塞き止めるような形で、大きな岩場が十メートルほど川中へせり出している場所に出た。草木の間を縫うようにしながら、風雨にさらされて複雑に凹凸した裸の巖にたどり着くと、その先端近くに腰を下ろし、静かに眼前の川路を眺め始めた。
二日続きの雨で水嵩の増した川は烈しい流れであった。身内深く響き渡る音響とともに絶え間なく押し寄せる深緑青の流れを足下に眺めていると、やがてふっとそのまま危うい白昼夢の世界へと落ち込んでしまいそうな錯覚に襲われる。―――この身が流れに足先から飲み込まれていく。わら人形のように為すすべもなく、水中深く巻き込まれ、猛然たる水の威力に身体をもみしだかれる。そして薄れゆく意識の中で、あたかも直前に迫った死の影を消し去ることができるかのように、空しく手足をもがき続ける。しかし、その動きも力弱く、間遠になっていく。
それは哀しい生命の断末のあがきであった。
これと相似の感覚は、帰郷する数日前、胸に重苦しくのしかかってくる死の想念から逃れることのできない追い詰められたような精神状態にあって視た夢の中ですでに味わったことがあった。
―――それは音を消失した夜の沙漠と見える、しかし少しも立体感の伴なわない空漠とした世界で独り、獅子と思しき巨獣に突然襲われ、果てしも知れぬ無我夢中の逃走の挙句に力尽き、ついにはその巨獣の歯牙にかかってしまうという内容のものだった。全身汗にまみれて夢から醒めた後も、その力限りの気の遠くなるほどに長い逃避行と、死にゆきつつある断末の瞬間の恐怖とがいつまでも鮮やかに意識に留まった。
逃げて逃げてひたすら逃げて、汗したたらせ、胸かきむしり、咽喉をからし、髪振り乱しながら逃げて逃げて逃げ続けて、それでもどうにもならず、とうとう追い寄られ、巨獣の一瞬の跳身の後、その鈍く光る強大な鋭い牙に身体を噛みしだかれ、恐怖と激痛に絶叫しつつ、たちまち茫と薄らいでいく意識の中で、とうとう俺も死ななければならないのだ、と考えると、それがどうにも耐え難く、苦しく、いつまでも空しくあがき続けたのだった。そして、こんな訳も分からぬ見知らぬ土地で、こんな風に突然死んでいかねばならない思いもよらぬ理不尽をどうしても受け入れることができなかった。『しかし、この理不尽が、この世の生き死にの本然であるとしたらどうだろう。そして、実際そうと考えたほうが無理なくこの人間の生涯の在りようを説明し得るのではないか。この切なる人間としての思いの届かぬところで、超然として現象する姿こそ、人間の眼には耐え難く厳酷に映ろうとも、触れ得ぬ、神聖域とも言うべき真実の姿であり、真理そのものなのではないか。真理の前には、人間の勝手で感傷的な恣意など何ほどのものだろう。』 ここまで夢の後に反省してはみたものの、やはり、たちまち人間の恣意の膝下へと引き返し、そのような不条理が真実と呼ばれるものであるにせよ、それをそのまま受け入れ耐えることはできない、と弱々しく膝を屈してしまう。
この生きるものとして、死を恐怖し、それから逃れたいと切望する内なる思いもやはり生あるものの真実の在りようではないのか。どうにかして死の魔手より逃れ去ろうとする狂奔の中にも真理はないのだろうか。確かに死と生につきまとう全ての現われの底を一貫して流れる何かがある。この人間としての感傷、この余りに人間的な感傷的願いをも内包せぬ真理など在り得ぬ。それなら、その生をも死をも同次元に刺し貫くものは何なのか。それが分からぬ間は落ち着けない、そして、それが分からぬからこそこんな山奥へ入って来たのだった。
長い物思いから我に返ると、眼前寸尺のところで奔馬の如く猛り狂う急流にいまさらのように気付いて、その轟然たる勢いに気圧されるように思わず後退った。
頭上高く拡がる空は、いまは爽やかに晴れ上がって明青に輝いていた。そして、その広大な明青を背景に、緑濃い山々が幾重にも重なり、その谷間を増水した川が轟々たる響きを立てて流れているのだった。
その川の対岸はまだ人の手の入らぬ山の急斜面だった。その斜面を覆っている豊かな緑が、早瀬から大きく入り込んで川淀となった静かな水面にその美しい影を映していた。
その静謐な風情は、川路の奔湍と好対照をなしていた。
一方、此岸では、突出した巖と、絶え間なく押し寄せる流水とが烈しく鬩ぎ合っていた。
この時、はからずも、そんな自然の風情の中に、象徴的に表現されている彼此の世界に思いが至った。此岸での巖と流水との烈しい鬩ぎ合いは、現実世界での人間的、社会的な姿であり、彼岸の緑の静謐は浄土を想起させ、その間の奔湍は黄泉路であり、それは必ず死を伴なわずには渡れないのであった。そして、今、自分の心に重くのしかかってくるのは、彼岸ではなく、余りに人間的な、此岸での、苦しみを伴なわずにはいない生であった。
身体の向きを変え、その眼前の此岸で繰り広げられる量感あふれる緑水の狂舞を眺め遣った。
午後の陽光を煌らかに反映して内に乱舞する流れは、さながら溶解した緑青の宝玉であった。瞬時もためらうことなく目くるめく勢いで巖へと押し寄せる深緑青の流れは、微動だもせぬ岩壁を前に大きくうねり、逆巻き、方向を失って後方へと押し返し、それがさらに上より容赦なく追い寄せる流れに逆らい、波立ち、渦巻き、やがてまた岩の急斜面を這い上がろうと押し寄せる大きな流れに合体する。一瞬として止まることなく、形を、時を、そして処を変えて流動し続ける。それは果てしもない変化であった。しかし、と同時に、そこには何とも知れぬ単調が潜んでいた。表面に現われる千変万化は、より深くにあって単一のものへと収斂している如くであった。無量が一に収斂して、それらは相反することなく連なっている。その間には何の巧みもなかった。淡々として激しい動を現象している。臆することなく押し寄せ、逡巡することなく引き返し、渦巻き、波立つ。そこには憂いがなく、そこには悔いがなかった。そこには時がなく、処もなかった。いや、それらの全てのものはないのではなかった。そうではなく、それら時空と内なる思いの全てはそのあるがままに超えられてしまっていた。すなわち永遠が、寂静の永遠ではなく荒れ狂う永遠がそこにあるのだった。そしてその永遠が、やがてそれを無心に見つめる自分の生命に内在する永遠と共鳴して、なぜとも知れぬ悦びを引き起こしていた。それは生ぬるい言葉などを媒介せぬ一種異様の感覚であった。全身にみなぎるその法悦のようなものの中に止まっていると、あらゆるものとの対立感が消え失せ、己の存在の核を中心としてあらゆる存在が同次元のものとして感覚される。全てがこのままでよいといった積極の思いに満たされる。死を思えば死もまたよいと思われる。死などはもうどうでもよい閑問題のようにすら思いなされる。死ぬ時もやはりこの眼前の流れのように淡々として死んでいけばそれでよいと思われる。このまま今死んでもそれはそれでよいと思われる。
しかし、この異様に生命感の高揚した状態も長くは続かず、やがてふたたび対立が訪れた。そうするともう死が怖くなってしまった。眼前の流れは、ふたたび時と処を変えて渦巻き始めた。そこにはもう自分の心の内と共鳴するものはなにもなかった。ただ空しくいたずらにうごめく尋常の水の流れがあるだけだった。
流れは生命を抜き去られ、生なき対象物と成り下がった。と同様に、自分の命そのものも意識の対象物と成り下がり、それゆえ死が怖くなったのだった。生命が理知の中に小さく屈まって、今は生気のない、かさついた言葉がのさばり始めた。自分は言葉に過ぎず、死を恐怖する意識に過ぎなかった。言葉という幻影の膜に生命を覆われた不自由であった。自分の眼に映るものも身体に触れるものも全てが死物に過ぎなかった。眼前の流れの烈動も、陽光に煌く川波も、頬を優しく撫でる微風も、しきりに触覚を動かしながらズボンを這い上がってくる大きな山蟻も、腰の下の巨大な灰白色の巖も、さらには己の生命すらも、死物に過ぎないのだった。自分は生きながらの死だった。
虚空を眺めながら、つい先程までの浄福に浸っていた自分を顧みていた。―――あの時の自分はいったい何者だったのだろう。全てはひとときの儚い幻化にすぎなかったのか？ 己をも含んだあらゆる存在が一体となって生き生きと輝いていたあの陶酔境。今までかつて、あれほどに強烈な全き調和を感覚したことはなかった。なるほど、これまでにもよく晴れた日の暮れ方、西空にオレンジと金色とで織り成される、えもいわれぬ美妙な夕焼けを独り眺めて、なぜだか知れぬ神秘的な感動に心打たれたことはあった。しかし、それもより多く、驚きの念に打たれて呆然と観賞していたというに過ぎなかった。先刻のような生命感の高揚、死をも無みする心身の充実感というのではなかった。
確かに先程の感覚は、生まれて初めて味わった、頭だけではなく身体の隅々にまで染み渡った真正の生きて在ることの充実感だった。あの時突然、それまで自分に付き纏っていたあらゆる対立感が消え失せて、次の一瞬、空間も時間も存在しない永遠へと融け込んでしまったのだった。…いや、あれを自分の疲弊した頭が勝手に作り出した夢幻と言うことはできない。疑いようもなく、この身に起こった実際なのだ。
しかし、それが一体何であったのか、何事が自分に起こり、身内に永遠を感じさせると同時に死すらも超え得たと感じさせたのだろうか…―――
目蓋を閉じ、両手を側頭部に強く押し当て、思わず深い溜息をついた。どのように考えてみても今の自分にはあの時の消息を説明することが出来ないのだった。
あれこれと益のない思考に疲れて、ふたたび眼を開けると、そのまま取りとめもない想いの脳裏を行きかうにまかせて川水の流れるさまを眺め続けた。
遠く上手より右へ左へと大きく蛇行し来たって眼の前を轟々と流れ過ぎていく庄川の奔流も、今はどこか遠く微弱に感覚されるだけだった。少しも身内に溶け込んでこない、よそよそしいばかりの情景だった。自分から剥離した、存在の抜け殻を見るような空漠たる思いだった。先刻の霊妙な調和感覚とはまるで似もつかなかった。
やがて、脚下の流れから眼を離し、そのまま頭上に拡がる明るい空を眺め遣った。
ところどころに薄い雲が浮かんでいるほかはすっきりと晴れ上がった清清しい空だった。プラチナ色に輝く太陽、そのまだ柔らかな陽光が肌に快い。
暫し、明青に溶けて果てるところを知らぬ奥深い天空を眺めていると、不思議なことに自ずと自分の心の中も果てしない奥深さと拡がりをもってくるように感じられてくる。確かにそれは渦巻き激動する流水を間近に眺めている時の感覚とは異質のものだった。それは、なにかつい先ほどまで心を縛っていた細々とした煩いごとを脇へと押しのけて、軽やかな開放感へと導くようだった。胸内に拡がった空の広やかさが心に安らぎを与え、自己と外界との対立を和らげてくれる。
そんな状態の中でふっと幼少年時代の自分を脳裏に浮かべていた。
―――世の中のことをまだ何も知らぬ無知で無垢だったあの頃。近くの野に山に弟や近所の仲間たちと共に出かけては、無心に駆け回り、木によじ登り、灌木や蔓で鬱蒼とした急な斜面を滑り降りては、むき出しの腕や脚に擦り傷を負い、その痛さに小さな涙を流す。しかしやがてその痛みが薄らぐや、まわりの仲間への照れ隠しに、舌先で幾度もその傷口を舐めて見せては、それを癒す風を装い、やがて涙の乾いた後の汚れた顔を他愛なく笑いで崩す。そしてふたたび何事もなかったかのように力一杯駆けずり回る。
あるいは、田や畑の畦道に行っては、そこを流れる小川で、めだかやふなを捕ったり、時に水澄ましやあめんぼうやげんごろうといった虫たちの巧みに自在に泳ぐさまに不思議を感じて暫しその場に屈んで食い入るように見入ったり…
夏になれば、蝉やトンボや蝶を追いかけ、海や川へ泳ぎに行き、時には近くの畑にこっそり忍び込んでは西瓜や大根を失敬してきて、皆ですきっ腹を満たしたり、冬になれば、寒さも忘れ天空高くからきらきらと際限もなく舞い落ちてくる雪片と戯れ、時に雪合戦で相手方からの雪玉を顔面に受けて家に泣き帰ったり、また、年に一度の秋祭りの日ともなれば、母の思い出の中の自分は、母の腕の中でその小さな手を振り身をくねらせ、激しく踊る獅子舞をそっくり真似ようと奮闘し続けては、母に、そんな今にも腕からずり落ちようとする息子をより強く抱きしめさせ、額にうっすらと汗さえ滲ませてしまう…
そんな昔日の事々をとりとめもなく思い起こしていっては深い憧憬の入り交じった郷愁を覚えるのだった。
今想い見遣れば、あの頃には自分を取り巻いている世界への本能的な信頼があったのだとわかる。その無条件の全肯定の世界の掌中で、自分は無我夢中な生命を生きていたに違いなかった。善いも悪いもない、美しいも醜いもない、そんな世界に融け込んで、自分が生きているのだとも意識しないままに力限りを生きていたのだった。
それがいつの頃からか、世界と自分との間に亀裂が生じ、溝ができ始め、それがますます大きく拡がり、深くなって、今はもう、ふたたびあの無心で邪気のない、生命そのものを生きた頃へと戻ることができないほどになってしまった…
いくら過去の幸福を追い求めても、所詮それは叶わぬ願いであった。時は遡行不能の冷厳な理に従っており、後ろ向きの想念などは、金輪際越えることのできない壁に遮られて立ち往生する外はないのだった。
やがて、眼前の何の変哲もなく流れ続ける烈流に視線を移しながら、もうこれ以上ここに留まって悩んでいても何も得られそうにないと観念した。そしてこのまま帰ろうと決めた。
ぬらりと巖から腰を上げ、ズボンを掌ではたきながら、密かにここに来ればなにかがつかめそうに思っていた自分の感傷のたわいなさをひとり淋しく嘲った。
角張った灰白色の巖の上を、足許に意を注ぎながら悄然と歩き始め、草木の雑然と繁る間を抜けて、時々思い出したように車が走り過ぎていくだけの閑寂な川沿いの道に上がった。そして少時その場に身を留めて、まるで内に怒気を含んでいるかのように荒々しく流れ続ける深緑青の奔湍と、その一部を遮って凝然と微動だにしない灰白色の巖とを今一度眼底に焼きつけた。それからおもむろに視線を対岸の鬱蒼たる緑に被われた山々へと移していった。
それはそれまで、絵の具かなにかでべったりと緑一色に塗りつぶされたような単調で無味な色彩の拡がりとばかり視ていたのだったが、ふと心新たに気付いてみると、そんな先入観のフィルターを通して視ているのとはまるで違って、樹々の緑は一つ一つが微妙に色彩を異にしているのだった。そしてそれらは雨に洗われた後の艶やかな生色に輝いていた。
―――風に揺れる濃淡、厚薄、深浅を異にしたあらゆる色調の緑、又、朱や灰色や黄色味がかった褐色、あるいは淡橙色や山吹色…と、まったく言葉の遠く追い及ばぬほどのさまざまな色彩を帯びた樹々の枝葉が思い思いに息吹いている。―――
わたしは今更のように、それまで見過ごしていた生な自然の不思議に心打たれた。
そしてそんな素朴な驚きの中で暫時我を忘れていたのだったが、その内ふっと、つい今しがた巖から道へ上ってくる途次、その下を潜ってきたすぐ眼の前の名前も知れぬ木――名前など一体なんだったろうか――の枝々に豊かに繁る葉の一葉一葉が、それぞれに音もなく風に揺れ動く様に心をそっくり奪い取られてしまった。と、その刹那、躰のすみずみにまで響き渡った瞬時の強烈な衝撃に打たれてその場に立ち竦んでしまった。そしてその一転瞬の後、まるで心の表裏が翻るような具合に、すみやかにもふたたび先刻のあの巖上で浸ったと同一の、対立の失せた全き調和の世界へと身も心も飲み込まれているのだった。そしてその一瞬、わたしはふたたびはっきりと、宇宙に遍満する、己れのこの存在をも包み込んだ一続きの永遠なる純粋生命を直観したのだった。
『生命、この大丈夫な生命、この言葉に尽くしようのない生命、この、今ここに生きているという現前の奇跡のような事実を忘れ、うかつにも今までの自分は「死」という影のような妄念を追い回していたに過ぎなかったのだ。自分はこんなにも身近な自明の真理に気付くことなく、きょときょとと落ち着かぬ眼で幻想を追い、疲弊した脳裏にとりとめのない幻想の華を咲かせ続けていたのだった。
「死」などは幻にすぎぬ、この生命に関わらぬ閑問題にすぎぬ、死を恐怖するなどいらぬ余計事にすぎぬ。ただ、この生命の今をひたすらに生きることだけが真理の名に値する大事だ。死を恐怖することはこの意識の不毛の作用にすぎぬ。真の死は、死を恐怖する意識ではなく、「死」という仮の名称を与えられた現象それ自体なのだ。死は死ぬものであって決して恐怖されるものではない。生命を純粋に生きると同等に死を純粋に死ぬこと、この事だけが真の存在の在り様なのだ。他の事は「死」に引きずられた意識による狂想にすぎぬ。死のことは死に任せておけばよい。今はこの所与の生命を生きることに専念すればいいのだ。
では、この生命とは何であるのか？それが分かれば、この生命の生き様が判明するに違いない。
では、この生命はなぜ現在無いのではなく、ここに在るのか？ この生命に価値が在るのか無いのか？ この生命は一体どこから来たのか、そしてこれからどこへ行こうとしているのか？
これら存在の根源への問いかけは、宇宙の果てにわれわれの思惟の力が及ばないように、果てない光届かぬ黒暗の宇宙の深淵に飲み込まれてしまう。われわれがなぜ存在するのか、誰もその理由を見出す者は無い。この生命に価値があるのか無いのか、この問いに対する絶対的な答えをわれわれは持たない。この生命がどこから来てどこへ行くのか、その答えもどこにも見つからない。これら人間存在に対する根源の問いかけは、人間の不全な知性の手に負えぬ。
われわれの存在は知性の力では割り切れない何ものかなのだ。知性は大脳の機能であり、その大脳は生命の維持とその成長のための補助器官ではなかったか？ 知性は、言葉によって意識する知性は、その限界を悟るがいいのだ。この宇宙・存在は言葉を超えて存在する。
この生命は言葉以上のものだ。その本質的生命が、言葉によって押し潰されてはならない。言葉はあくまで生命そのものに仕える忠臣でなければならない。その反逆は許されぬ暴挙だ。ここで少し常識的に考えてみれば、このわれわれの生命は無条件的な絶対価値なのだ。いや、それ以上に、価値という言葉すら突き抜け、超えている。われわれは今ここに端的に生きているのだ。
ところで、今生きているというその今とはどのような今なのだろうか。それは無窮の過去を、無窮の未来を、この一点に凝縮させた永遠の今でなくてなんだろう。そして無窮の過去は、その内に宇宙の創造以前を、宇宙の創造を、銀河系の創造を、太陽系の創造を、地球の創造を、生命系の創造を、そしてその生命系の系統発生による人類の創造を、さらにはその人類の短い歴史の流れの中での現代における眼前の現在までを含んでいる。また、無窮の未来は、これから全一的に展開し続ける宇宙の全現象を含んでいる。そんな無窮の過去と無窮の未来を現在に凝縮して未来へと現象しつつある時、それがこの今ではないだろうか。そして自分を生かしてくれているこの今は、物理世界の奇跡のような調和の中で現象している。この今の中に在るこの生命は、ほんの少し地球の大気が稀薄であったり、ほんの少し太陽から伝わるエネルギーが減少したりするともうその生命を維持することができなくなってしまう。またもし過去に、地球が少しでもその現象のありようを変えていたなら、われわれは今、ここにこのように存在してはいないだろう。
考えてみれば、今ほかのありようではなくこのように在るということはほとんど奇跡に近い。このことを思ってみただけでも、この生命はある種の感動を覚えて震えそうになる。この生命はほかのなにものにもかえがたい大事だ。
ところで、なぜ自分は先刻、眼前の木に豊かに繁る葉の一葉一葉が音もなく風に揺れ動くさまに永遠のいのちを感じたのだろうか。その時の自分は生な自然の不思議に心打たれて我を忘れていたのだった。すなわち、自分はこのちっぽけな知性で母なる大自然を自分勝手にねじ伏せようとしていたのではなかった。そうではなくて、あるがままの自然、あるがままの宇宙に融け込んでそれと一体となることによって、自分は自分の個人的な知性を超えて宇宙の知性となり、その宇宙の知性が自分を通して考え、生きたのだった。そしてその瞬間自分は、あるがままの世界の中で、あるがままの存在となることによって、本来の自分に帰ったのであり、自分が自分である、と同時に宇宙でもあるという大調和の法悦に心身ともに浸ることができたのだった。
ところが、このことに気付くまでの自分は、ちっぽけな知性が作り出した自分すなわち小さな殻に閉じこもった自我を自分だと思い込んでいたのだった。しかし、それは幻にすぎず、影にすぎぬものだった。そしてこれまでその影にすぎない自分を本当の自分と取り違えて、眼前の小事を近視眼的に煩い暮らしてきたのだった。影が自分であった時、本来の自己は萎縮してしまっていた。しかし、人間が真に生きていると感じることは、自分の影を生きている限りできない相談なのだ。自分の本質を生きない限りその内的に高揚した感覚の中に生きることはできない。そして、その本質は小さなエゴすなわち自分の影を超えて限りなく拡がる宇宙の本質の中にこそ在るのだ。
自分が宇宙になり、宇宙が自分になってしまえば、その時どうしてわたしたちは小さな自分の死を恐怖するだろうか。生死などに関わらぬところで、わたしたちは宇宙そのものの現象を現象しているというのに、自分の小さな死を恐れる必要がどこにあろうか。死を恐れるのは自己意識の影なのだ。真の生命は、死を恐怖するのではなく、ひたすらに生きようとする。そして、また、死ぬときは同様にひたすらに死のうとするのだ。生命はその本質において死を避けようとするだろう。しかし、それも生命のひたすらな運動の中に吸収されて問題とはならぬ。死によって生命が意気地なく押し潰されはしない。今は生きるだけだ。そして死が訪れたなら死を一生懸命死ねばいいのだ。そこには生死を貫いてひたすら前へ進もうという積極の力がある。一方、意識の影が死を恐怖する仕方の中には、消極的なへっぴり腰の、足許おぼつかない幻のような頼りなさがある。生は死の前に為すすべを知らぬ気だ。これが生きながらの死でなくてなんだろう。つい先までの自分が、そんな蒼白な生命をよろよろと生きてきたのだった。生きながらの死。幻であり、影にすぎなかったこの大切な生命。
―――まったく今までの自分は一体全体何を思い煩ってきたのだろうか。考えてみればつまらぬ妄想にかかずらって、こんな山奥まで来て、とりとめもなく空中に華を咲かせ続けていたにすぎない。すべては絵空事、すべてはこの誇大な頭が映し出した幻影に過ぎなかったのだ。この、今、ここに大丈夫に生きているという端的な事実を差し置いて、何が死ぬのが怖い、いや生きるのがつまらぬ、などと騒ぎ立ててきたのか。すべてはまったくの茶番であり、阿呆の繰言に過ぎなかったのだ。
このとおりに眼前の川は流れ、この自分の生命は今ここに確かに生きているではないか。この生命が次の瞬間に死んでしまうものであろうと、あるいは三十年、五十年先までも生き延びるものであろうと、そんなことには頓着なく、今、この一瞬、生きているのだ。これを生きないでどうしよう。この生の一瞬を妄想に奪い取られてどうしよう。この宇宙をこの身に現わして生きる。宇宙のいのちそのものとなって生き生きと生きる。今はそれだけを追えばいい。』
わたしは心の髄より湧き上がってくる譬えようもない喜悦に身も心もまかせ切ってその場に立ち続けていた。全ての存在が、時空連続体として有機的に自分に関わっているものとして感覚される今、このまま死んでもいいと思われてくるほどにも生命の過剰を感じるのであった。と同時に、死も生と同様、この全てが一体となった全一的宇宙の中で同等の位置を占めて現象するだろうことが明瞭に見て取れるのだった。生ある間は母なる大地の実りを摂取し、大気を呼吸して生命を維持し、死によってその活動を終えて、ふたたび大地と大気に身をもって返戻する。老いゆく生命は新たな若々しい生命に自分の生命を伝え、また、成熟した意識を次世代に伝え、いわば心身ともに転生して生きるのであった。この連続する大いなるいのちの中では死ぬことはすなわち新生に他ならない。そして、死を恐怖するのは、狭い自我の殻に閉じこもった意識の、この存在するものの連続性を見ることのできない盲た意識のなせるわざに違いないのだった。この人間を含んだあらゆる存在は、その有機物である無機物であるとを問わず、全一的相補的因果現象なのだ。存在するいろいろな物の間には、それが微小レベルで現象しているか人間レベルで現象しているか、あるいは銀河レベル宇宙レベルで現象しているかの形体的な違いだけがあるのであって、それらは一つとしてほかの現象と無関係に現象しているものはなく、一つの全体として、と同時に無量無数の個として相関的に現象しているのだ。部分が全体を構成し、また全体が部分を規定している。あらゆる生き物の生も死も、原子核の融合も分裂も、宇宙の収縮も拡大も、人間のちっぽけな恣意の感傷を超えて、そのあるがままをあるがままに現象しているだけなのだ。このあるがままの姿をあるがままに意識して生きる時、その生命はいのちの本質を生きるいのちとなる。その時、生命はわずらいのない安心を生きることとなる。ところが、全体を見失ってしまった個別の意識にとって、死は救いのない終末的絶望でしかない。しかし、個は全体を離れては在り得ないのだ。絶望するのは本質を見抜くことのできない狭小な意識のつくり上げる幻想なのだ。一方、全体の中の個としての生にとって、死は新生となる。そこにおいて死を思い煩うことは無用のこととなってしまう。残るのは唯一つ、この生命を信じて生きることだけだ。生命は生きることに没頭することが本来なのだ。より大いなるいのちへと向かって懸命に生きること、死の瞬間まで生き抜くこと、それだけが問題となってくる。
このいのちの巨たる流れの現在を生きているのがこの自分の生命なのだった。宇宙創造以前の過去の無窮から、果て知れぬ永劫未来へと一筋に連なって流れるこの大きないのちには死などありえないのだった。そして、この大きないのちを生きる自分に死などありえないのだった。このいのちは永遠に生き続ける。この身が滅びた後も、このいのちはまさに永遠のいのちを生き続ける。
わたしは身体一杯に響き渡った真正のいのちの轟たる鐘声に浸されながら、やがて徐に身体の向きを変えると、そのままゆっくりとした足取りでバス停までの山道を下り始めた。
長い回想から覚めて、ふたたび蟻の行き交う桜の老木の下で独りベンチに腰掛けている自分に意識が返ってからも、啓一はしばしその回想によって引き起こされた高揚した生命感の余韻を味わっていた。あたりには相変わらず、万象に染み渡るように濃密な蝉の声が響いている。そして今はミンミンゼミに替わってツクツク法師の細く透明な鳴き声が耳に響いてくる。その声を聞いていると、遠からぬ木の幹にすがって、その小さな身体一杯でそれと意識することもなく今生のはかない生命を惜しみつつ鳴く姿が眼に見えてくるようだ。
眼前に拡がる花壇では、それまで何気なく眼を遣っていたグラジオラスの紅い花が蝶や蜂を引き寄せ、微風にかすかに揺れていた。その様を眺めながら、啓一は新たな感慨に襲われた。それは日常的な些事によって長い間眠っていた純粋な生命感覚が、回想によって呼び戻されたためであったろうか。ふたたび庄川の上流で味わったのと同様の、わが身が大きな永遠いのちと緊密に関わり、それと一つに融合した世界へと抜け出ているのを感じたのだった。
それに伴なって、グラジオラスの花々が、啓一の前にその鮮烈な生命を顕わにし始める。それは、余りに人間的な意識にしがらんだ単なる観られる物としての仮の存在から、自らを自らが生きる真正の生命存在へとその在り方を変えていく。今は、グラジオラスの、その内に息づく小さな細胞の一つ一つと、自分の中に同様に生きている細胞の一つ一つとが共感しあっているのを感覚することができる。そしてその感覚はただちに、自分はグラジオラスが好きなのだという認識に導いた。さらにそれは、結局のところ自分はこの自分の生命をも含んだありとある存在を無意識裡に愛していたのではなかろうか、という問いかけへと導いていった。自分は常に在ることを望んでいたのではなかったろうか。そしてその在ることは、生き死にを超えたものだと、去年のあの庄川での啓示以来、頭の中で理解されている筈であった。在ること、それは自分を、と同等に目の前に咲いているグラジオラスの花をもその一部として内に含んだ果てなき存在すなわちこの宇宙の変わることなき意思に違いないと思われた。
そして、少なくともわれわれが観察し得る限りにおいては、宇宙は唯単に在ることを望んでいるのではなく、その在ることの中にはある方向性が、多分それはより完全な存在へと向かう方向性が潜んでいるのではないかと思われた。地球はその誕生以来長い時を費やして、その海と岩と大気の中で、無機物から有機体を、さらには細胞からより複雑な生命体を進化させ、今ようやくその中でも最も複雑にして高い知能を持つ人類を生み出すに到った。そしてこの人類は、その素晴らしい意識作用によって確かにより完全な存在へと向かって大きな飛躍を遂げつつあるのではなかろうか。そしていつの日にか人類はその役割を果たし終えた時に、より進化した新しい生命体にその主権を譲り渡すべく、長い試行錯誤の道を歩み続けていくのではなかろうか。
もしもそうであるならば、われわれは宇宙のその意思を、この日常の生活の中にあらわして生きていけばよい筈であった。宇宙の意思―――より完全な存在たらんとする万物の生成変化、そしてその臨界点的存在としての人間を通して、全きオメガ点へと上昇しようとする宇宙精神のダイナミズムとでも呼びたいような、そんな弁証存在の本質活動と一体となって生きること、それ以外に真の道はないのではなかろうか。この自分の内と外のいたるところに宇宙の意思の象徴を視、聴き、感じながら、日々を生きていくこと、それだけが真の生の名に値する生き方ではないのだろうか。
しかし、今、自分はどのように生きているだろうか。まるでそれから遠い生き様ではなかったか。少し気を許すとその瞬間、現代社会の巨大な機構の力に押し流されて、いつまでもそれと気付かず、つまらぬ些事にかかずらって、貴重な時の大半をわずらい過ごしているのではなかったか。せっかく垣間見た生命の本来の姿を、日常生活の中で忘れてしまっている時のほうがよほど多いと認めない訳にはいかない。いや、より正確には、この現実社会は、人間がその生命本来の自己を生きることを許そうとしないようにみえる。社会にあっては、その社会がどのようなものであれ、その社会が個人に要求する役割を否応なく果たさなければならない。会社に入れば、会社の一つの部品として、その望む通りを生きなければならない。
この社会にはいわば世間的なさまざまな眼があるのだった。そして人間はその眼と無関係には生きていけないのだった。そしてその眼のほとんどはその時代の社会的な鋳型によって規定されていた。
自分は今、この生活からわずらいを除くことが不可能であることを知っている。人の世に生きている限り世間的な小事と関わり合いながら生きていかねばならないことを思う。他者と無関係な世界は現実世界とは無縁な何ものかだ。生きることの中には煩うことも排除しがたく含まれている。
しかし、この日常的なわずらい事をただ消極的に耐えながら暮らしていくのが生きることのすべてだとしたら、その時自分はあの一年前の啓示以前の状態、足許おぼつかなくよろよろと生き悩んだ、あの灰色の日々をふたたび繰り返さなければならなくなる。そうすれば、あの日の体験は何の役にも立たない、夢幻にすぎなくなってしまう。しかし、あれは自分にとってそんな幻に過ぎないようなものではない筈だった。自分はあの日以来、自分の存在を無化しようとする負の力に逆らって、在ることを信じる方向へと転じた筈だった。かのニーチェが否の極北を経たあとに、真昼の思想、全肯定、然りの思想へと転じたと同じように、自分もあらゆるわずらいをも含んだ全現象に、然り、そは正し、然り、そは美し、と呼びかけたのではなかったか。今のわずらいは以前のわずらいと同じであって同じではない。自分の内なる変化、宇宙の意思と一体となろうとする肯定志向への変化を通して、そのわずらいは、今より以上の存在形態すなわち現状に満足しようとせぬより良い何か、を求める内なる衝動の表われとなった。そしてその内なる衝動は、この世のユートピアを追い続ける。すなわち、自己と外界との完全調和、静的にではなく、動的な、自らが自らの本質を自由に生きる、と同時に、それが他者の本質活動の自由を侵害しない、いってみれば、全ての人間が自らの本質を自由に生きながら、それが他者と衝突することなくスムーズに展開し、またそれが同時に、全体として統一的かつ本質的に機能するといった、いわば完全有機体として宇宙意思を生きていくような全一調和世界を求める。まさにあの日以来新たに湧き上がってきた内なる衝動は、そのような理想世界の実現を目指す意識となって自覚的に生きようとする存在へと自分を変えた筈であった。その新しい内なる変化を現実生活に反映させなければならない筈だった。しかし、現実社会はそのような本質活動を自由に生きる環境からははるかに遠かった。また、このような宇宙の本質的な意思を自覚的に意識する力は人類に生得的に与えられているものではないようであった。世界全体が宇宙意思を自由に生きるような理想世界は、多分今後何万年あるいは何十万年あるいは未来永劫果てることのない時をかけて、人類があるいは人類の跡を継ぐより進化した生命体が追い続けていかねばならないものなのだろう。
宇宙はあるいはフランスの地質学者、Ｔ．シャルダンの言うように、その全現象をもって、より完全な何ものか―――それは象徴的に『神』と呼ばれているものであるかも知れない―――へと向かう意志存在ではなかろうか。もしそうであるとすれば、この人類も、その叡智の限りをつくして、より完全な意志存在へと向かう以外に真の道はないのではなかろうか。
人間社会は、意識の変革作用すなわち真の教育を通じて、より高級なる意識、より視野の広い宇宙大の意識、より完全な自律的意識を自己自身のものとするまで自らを高め続けねばならないだろう。しかし、それは現実あるがままの社会と較べた時、気の遠くなるほどに遥かかなたの世界と想われる。そこへ達しようとする努力は、かのドン＝キホーテの空しい闘いの様相を呈してくる。不完全な人間社会は、個人の力の前に怪物的な力を持った高い壁として立ちはだかっているように見える。また、日常の中で、人はそれぞれ、自我の狭い殻から抜けられない不完全な意識を生きている。企業も、さらには国家ですらそのような個人に運営され、それぞれの利益追求を事としている。このような個人的エゴイズムに満ち満ちた現実社会を変えるのは難しく、ほとんど不可能にさえ見える。しかし、少しばかり過去を振り返って見さえすれば、現代は物質的にはもちろん、意識の面においても大きな進化を遂げてきたことが分かる。意識はより複雑に、そしてより意識的になってきているのではないだろうか。人類の知識はより広く、より深く、より客観的になり、われわれは全体として真理により近い認識を持つようになってきてはいないだろうか。世界はより狭くなり、国際社会は否応なしにより緊密に関係し合い、やがては、統一体へとたどり着くのではないだろうか。世界は全体として確かに、より真理に近い、より完全な統一体へと、遅々としてではあるにせよ、進んでいるのではないだろうか。われわれは、人類の、あるいは人類の跡を継ぐ超人類の未来を信じてもいいのではないだろうか。より真理に近い、ユートピアの到来を信じてもいいのではないだろうか。この不完全でちっぽけに見える世界が、神のごとき完全な世界へと限りなく近づき、ついにはそれと一体となる日が来るのかも知れないと信じてもいいのではないだろうか。そして、そのユートピアへと一歩一歩近づけるために、われわれ一人一人が、毎日のつまらぬ、腹立たしい煩いごとに悩まされながらも、それを乗り越えつつ、みずからも学び、と同時に他をも刺激しつつ、着実な進化の歩みを歩まねばならないのではなかろうか。
表面的なものしか見ようとしないわれわれの訓練されぬ眼には、この世界は、平面的な、意味のない、なぐりがきの絵のようにしか映らない。現実のそんな日常世界では、その中で生きている人間すらも、どこか抽象的な、自分から剥離した、モノや記号のようにしか了解されない。人間という名を付けられた抽象的機械的なモノとしてしか眼に映らない。あるいは資本主義社会では、人間も自然も単なる利潤追求の手段としてしか内に取り込まれない。それは存在の真の在りようとはまるでかけ離れたまやかしの世界でしかない。通常言われている現実なるものの正体は、そのような真理からは遥かに遠い、歪んだ世界でしかないのだ。
真実の世界を正しく見るためには、眼前に拡がる世界に無限の時間と空間とを付け加えなければならない。すなわち、宇宙的な歴史と宇宙的な広がりの中にその狭い視野に映る世界を位置づけ直さなければならない。そうすれば、人間は、何かのための手段でも、単なるモノでもなく、宇宙的歴史と拡がりの中の主体的自体存在であり、ほかの生き物も皆そうであることが分かってくる。そして、人間にも、ほかの生き物たちにも、その本来的な存在の在り方がなければならないということが、すなわち、完全な高級なる本質的自由がなければならないということが欲求されてくる。そして、その欲求は、自己を包み込んだこの社会全体の本質的な改善、変革を志向する。そして、その改善変革は、人間の意識の変革をその根本のものとする。しかし、その意識の変革は性急なものであってはならない。意識の変革は十分の時を必要とする。それは、人間自身の努力をそのうちに含んだ自然の時を待つという形で推し進められなければならないだろう。
宇宙は、この地球において、人類を通してより進化していくだろう。人間は、そして人間社会は、より完全な意識存在そして理想世界へと限りなく近づいていくだろう。宇宙は、人間を通してより意識化された自由をその手に収めるようになるだろう。
人間は、宇宙の意思に衝き動かされて、より完全な、より自由な存在となるべく努力し続けていくだろう。人間社会は、より整然たる統一体へと変貌していくだろう。人類は、この不調和と闘争の中から、調和と協調とを学び取っていくだろう。そしていつの日にか宇宙大の意識を持つに到った人類あるいは超人類が、ついには神のごとき完全存在となり、全き桃源郷に生きるようになる日もくるのではなかろうか。
啓一は、そんな壮大な白昼の夢想に少しばかり興奮を覚えながら、つっとベンチから立ち上がると、そのまま、二、三歩花壇の方へ近づいた。と、その時、グラジオラスの花の影から、身軽に飛び立つものがあった。その黒い影は、自在な曲線を描きつつ、あたりに咲き匂うサルビアやカンナ、ダリアや松葉牡丹の色とりどりの花の上を飛び続けた。そのゆったりとした飛翔のさまや、絹糸状の光沢のある黒色の羽から、やがてそれはジャコウアゲハと知れた。花の蜜を求めてこの公園にやってきたに違いなかった。
近くで紋黄蝶も小さな羽根を優然と広げながら松葉牡丹の紅い花弁に止まっている。そして、あたりの蝉声しきりの樹々の緑を、夏の輝くような碧空が蓋っている。
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