のかなたからの祈り

 

 

 

ええ、この世にあるすべてのものは、この無のかなたなる(しん)実在(じつざい)、永遠無限神秘の聖性、至高(しこう)至純のPLEROMA(プレロマ)エネルギーであり、またその変容(へんよう)でもあるのですわ。この世にある全てのものの源である聖なるエネルギーは、(しょう)じることもなければ(めっ)することもありませんし、減るということもなければ増えるということもありません。それからまた、(けが)れるということもなければ穢すということもありません。なぜといって、この(せい)にして無のかなたなる真実在は、完全性から完全性へ、そして永遠から永遠へと変容(へんよう)し続ける全き本質の充満なのですから...。 ところがあるとき、この全き本質の充満する、聖なるエネルギー()(フィールド)であるPLEROMAの、そのまれにしか起きないかすかな()らぎの中から、一つの宇宙がこの世に生まれ出たのです。

この無のかなたなる真実在、永遠無限神秘の聖性、至高(しこう)至純(しじゅん)のPLEROMAエネルギー、この全き本質が充満する場の、そのかすかな()らぎの中から生まれた一つの宇宙は、その誕生と同時に、この真実在の完全性から脱落して、宇宙的変化(へんか)過程(かてい)に落ち込んでしまったのでした。そして、その宇宙の中で時間が生まれ、空間が生まれ、物質が生まれ、生命が生まれ、精神(せいしん)が生まれました。
 いえ、精神についてより正確に言えば、精神は時間にも空間にも、またあらゆる物質にも生命にも内在しています。それはこの世にあるすべてのものに内在して働き続けているのです、というのも精神はあらゆるものに内在する全一的な統合機能なのですから...。そしてそれは、他ならぬこの無のかなたなる真実在であるPLEROMAの中に、もっとも充実したはたらきとして充満しているのです。つまり、この無のかなたなる、全き本質の充満である真実在は、最高次の精神でもあるのです。この最高次の、至純の精神そのもののはたらきが、その宇宙の中では長い複雑進化の果てに、人間の精神において、もっとも高次で複雑な形で現れているのです。

このように、この全一世界には、精神的でないものは何一つとして存在していないのです。この世に存在するということは、その形はどのようであれ、全て精神として存在しているのです。そして、無のかなたなる聖なる真実在の祈りはただ一つ、あらゆるものが全一的統合的に、すなわちほかならぬその精神として、純粋に存在し続けていくことなのです。

ところが嘆かわしいことに、その宇宙でただ一人、この精神の全一性から離脱してしまった者がいます。ほかならぬ最も精神性に恵まれた人類です。もっとも豊かに恵まれたその精神的な統合能力を悪用して、いまや浅ましいことには、自己中心的な欲望の追求に、われを忘れているありさまなのです。

そんな人類の、本質からの離脱と迷走を憂い、また、その人類の迷走によって(こうむ)っている地球上の生きとし生けるものたちの()きせぬ苦しみと、これから地球上に生まれ出ようとしている、人類自身の無辜(むこ)未生(みしょう)世代(せだい)を待ち受けているさらなる不幸を憂い、無のかなたなる真実在は、その聖なる精神の内在(ないざい)(りつ)に従って、自ずから人類に向かって祈るのです。人間としてその本来あるべき姿に戻り、一切万象とともに、ふたたび全一(ぜんいつ)統合的(とうごうてき)に、純粋な精神として存在するようにと、心より祈るのです。

この世に存在するものは全て、この無のかなたなる、永遠の真実在の完全性に相応(ふさわ)しく、そしてまた、この無のかなたなる、真実在の永遠の祈りに(かな)うように生きることが、その本来のあるべき姿なのです。この本質に(さか)らい、この本質を汚すことは、存在するものにとって、永遠の恥であり永遠の(わざわい)です。そしていまや、その永遠の恥と禍と成り下がってしまった人類に向かって、永遠無限のPLEROMAは、祈りとなって語りかけているのです、一日も早く、ふたたびその(うち)なる精神の正しいはたらきに目覚め、刹那的(せつなてき)欲望(よくぼう)に迷うことなく、永遠の聖なる本質に回帰するようにと....、そして、その地球上にふたたび、全一(ぜんいつ)バランスの理想世界を自らの手で、責任を持って回復するようにと...。

自己中心的な欲望追求の妄念(もうねん)に取り付かれ、人の心を失ってしまった王侯や貴族や地主といった強欲(ごうよく)(やから)に、有史(ゆうし)以来(いらい)、幾世代にもわたって支配され(あやつ)られてきた人類。そしてやがて時代が進むとともに大都市を中心とした多くの人間たちが、(すべ)てのものが全てのものと関係し合って成り立っているこの世の全一的(ぜんいつてき)関係性(かんけいせい)すら忘れて、いつしか自らがその強欲な族と同調して反本質的な生き方に()まっていきます。そして、やがて科学技術が飛躍的に進歩し、経済至上主義的価値観が支配的となり、本質的な必要性をはるかに()えた自己中心的・人間中心的欲望の追求に、われを忘れて突き進む近代(きんだい)西洋(せいよう)文明(ぶんめい)の流れに乗って、命の母なる自然をむさぼり、それぞれがお互いに同じ人類の同胞(どうほう)をも無慈悲に手段として利用しながら、自分ひとりの利得(りとく)際限(さいげん)もなく追い求めていくような恥ずべき存在に成り下がっていきます。そしてその反本質化(はんほんしつか)した人類(じんるい)が一体となって、さまざまな社会(しゃかい)問題(もんだい)自然(しぜん)環境(かんきょう)問題(もんだい)を引き起こします。そしてこのままいけばさらに自然環境は汚染され、地球温暖化が進み、地球(ちきゅう)生態(せいたい)(けい)が大きく変わり、やがて多くの人々が飲み水にも事欠(ことか)くようになり、さらに多くの生物たちが、その自然環境の急激な変化についていけなくなって、急速(きゅうそく)に絶滅していくことが予想されるような状況に()(いた)っています。反本質的・反精神的な人間たちの狂った欲望追求によって、この地球上の生きとし生けるものたちが、日々、意味(いみ)なく死滅していく現代世界。意味のない経済至上主義(けいざいしじょうしゅぎ)と意味のない軍備と意味のない戦闘と意味のない競争主義と意味のない教育と意味のない(おご)りと意味のない奢侈(しゃし)と意味のない差別と意味のない開発と意味のない日常生活の中で、地球上の生きとし生ける愛しいものたちが愚かしい現生(げんせい)人類(じんるい)の道ずれとなって絶滅していくのです。

そんな反本質的な地球世界の現状(げんじょう)(うれ)い、無のかなたなる真実在は祈り続けます。現生人類のその浅ましく閉じた心の(から)を破り、無限へと開かれた全一的永遠へと、その心を開いていくようにと。そして、心を永遠(えいえん)無限(むげん)地平(ちへい)に遊ばせて、ふたたび本当に人間らしい節度を取り戻し、この世に在りと在るもの、この世に生きとし生けるもの、また、この世に生きるあらゆる人々が一体で同等(どうとう)平等(びょうどう)の、完全(かんぜん)調和(ちょうわ)世界(せかい)を地球上に築き上げていくようにと。これまで人類がたどって来た、自然の本質状態を壊しながら、人間社会にもたらしてきたあらゆる不公正と不平等の悪果(あっか)を、自らの手で清算していくようにと。これまでたどってきた反本質的な道を、謙虚(けんきょ)な気持ちで逆にたどりなおしていくようにと。過去の多くの文明を支えてきた、(いや)しい反本質的な自己中心的価値体系を廃棄し、全一調和の本質的価値(かち)体系(たいけい)によって、これまで積み上げてきた、いたるところに対立とアンバランスを生み出すような()遺産(いさん)(せい)(さん)し続け、一日も早く、地球上の自然環境と人間社会をその本来あるべき全一調和と全一(ぜんいつ)バランスに満ちた姿へと引き戻していくようにと。

欲望のジャングルへと道を踏み外した人類が、命の森をむさぼりつくして、やがて荒廃した自然の中で、その荒廃した自然とともに、自らもその命の灯を消しつつあることを憂い、真実在の最も高き精神が、無のかなたから、人類に潜在する精神に向かって、全一調和の本質的祈りを祈り続けるのです。

すなわち、

この世界は全てが合わさって一つであり、何一つとしてその部分だけで独立して存在しているものはないことを正しく認識するように、と、

一切が一体であり、それゆえに、一切は一切の共用であり、誰一人として何一つ私有する権利を持たないことを肝に銘じるように、と、

何一つとしてその部分だけで独立して存在しているものはないのですから、自分という意識もまた迷妄に過ぎず、それには実体はないということをわきまえるように、と、

自分というものがそもそもないのですから、畢竟、自己中心的欲望というものも迷妄に過ぎず、そんな実体のないものに振り回されることのないように、と。

全一的精神だけが本質をよく現すことができ、その全一的精神を自らのうちによく養い、その養った全一的精神の促しに従って生きるように、と、

真実界は永遠無限神秘の真実在が全一的に展開する場であり、それはどこまでも清浄無垢の世界であることを認識するように、と、

自己をその清浄無垢の全一的真実界に重ね合わせ、その真実界に相応しく生きるように、と。

空華(くうげ)に過ぎない自己の欲望を追うのではなく、自己の本質を追求し続け、その本質に叶うように生きていくように、と、

人類がその真の精神において一体となって、地球上の生きとし生けるものたちとともに、生の至福を生きていくように、と、

一人一人が、それぞれの命の無上性に感謝し、奇跡のような生の時間を聖らかな本質的祈りとともに生きていくように、と、

一人一人がこの永遠の真っ只中で、永遠そのものとなって清らかに生きていくように、と、

一人一人がそれぞれの精神性を限りなく高め、限りなく豊かなものへとはぐくみ続けて、ついには最高次のPLEROMA精神と一体となるように、と、

それがごく当たり前なことであるかのように、地球社会を全一調和の理想世界へと変えていくように、と、

一方の利益が他方の不利益になるような社会システムを改めて、全体が等しく相互にその本質を高め豊かにし合うことのできる社会システムを作り上げるように、と、

地球世界の反本質的個人、反本質的組織、反本質的システムの全てを本質化していくように、と、

人間世界において失われた本質を人間自身の手で回復していくように、と、

つまり、

あらゆる部分的(ぶぶんてき)妄想(もうそう)に迷うことなく、超越的(ちょうえつてき)一体性(いったいせい)に帰るように、と、

あらゆる自己中心性に迷うことなく、全一的(ぜんいつてき)本質(ほんしつ)に帰るように、と、

あらゆる知的狭隘(きょうあい)さに迷うことなく、永遠(えいえん)無限(むげん)神秘(しんぴ)帰依(きえ)するように、と、

あらゆる物質的執着に迷うことなく、清浄(しょうじょう)無心(むしん)の本質を生きるように、と、

あらゆる時間的制約に迷うことなく、永遠(えいえん)無窮(むきゅう)の祈りを生きるように、と、

あらゆる独善的(どくぜんてき)妄念(もうねん)に迷うことなく、PLEROMAの完全性に融合するように、と、

あらゆる過去の積悪(せきあく)に迷うことなく、永遠清浄の『いのち』を生きるように、と、

あらゆる過去の積善(せきぜん)に迷うことなく、無自性(むじしょう)(くう)無心(むしん)を保つように、と、

そして、

この無のかなたからの祈りを自己自身の祈りとして、人間としてこの世に(せい)を受けることのできたこの奇跡のような恩寵(おんちょう)の時を、全きPLEROMAに(つら)なる全一(ぜんいつ)統合的(とうごうてき)精神(せいしん)として、みずからの最高の本質を(きよ)らかに生きていくように、と。

 

 

                              完                    創作ページへ