のかなたへの祈り

 

 


 

わたしたちの住むこの宇宙のあらゆる(いとな)みは一つの祈りのようなものではないだろうか。無のかなたなる完全(かんぜん)統合界(とうごうかい)PLEROMA(プレロマ)状態から、無限(むげん)(しょう)の原始宇宙が生まれ、それがやがて時空と光と素粒子と四つの力へと分離し始め、やがてプラズマ(自由(じゆう)粒子(りゅうし)の集合体)から原子が、さらに原子のガスの(かたまり)から銀河が生まれ、その中から無数の星々が生まれ、その星々の生滅(しょうめつ)進化(しんか)とともにさまざまな元素や分子が生まれ、また同じような経過(けいか)をたどってわれわれの銀河系に太陽系が生まれ地球が生まれ、その地球に原始的な生命が生まれ、それが長い複雑(ふくざつ)進化(しんか)の果てに精神を持つ人類に(いた)った。そして今その精神が宇宙について考える、この宇宙は一体どこに向かっているのかと。あるいはそれは遠い昔にそこから脱落してしまった母なるPLEROMA(プレロマ)完全(かんぜん)統合(とうごう)状態(じょうたい)へと回帰(かいき)することを願っているのではないかと。長い長い流転(るてん)の果てに、ふたたびPLEROMA状態へと帰る日を夢見ているのではないかと。この宇宙の歴史のすべてはPLEROMAに回帰(かいき)するための過程であり、宇宙はただひたすら完全(かんぜん)統合(とうごう)状態(じょうたい)のPLEROMA回帰を願いながら刻一刻と自らを転じ続けているのではないかと。そして同じように、この地球上のあらゆる生命もまた宇宙と共にPLEROMA(プレロマ)回帰を祈り求めているのではないかと。ただ、その祈りは個を超えた全一的(ぜんいつてき)精神(せいしん)に目覚めた者のみがそれと自覚することのできる祈りなのではないだろうか。そしてそのPLEROMA回帰(かいき)の祈りこそがこの宇宙の全活動の唯一つの本質的な祈りなのではないだろうか。また、精神(こころ)を持つ人類へと到った全生命(ぜんせいめい)(けい)の本質的な祈りなのではないだろうか。そしてその祈りは、不完全でしかありえないこの現実世界においても、その不完全な条件下で最も完全に近い統合(とうごう)状態(じょうたい)を目指して活動し続ける原動力となっている。すなわち、この世においてはその不完全な条件下での最高(さいこう)本質(ほんしつ)状態(じょうたい)すなわち全一調和・全一バランス状態を目指し、また、永遠においてはその絶対(ぜったい)本質(ほんしつ)である完全統合状態PLEROMAそのものと一体(いったい)となることを夢見ているのではないのだろうか。すなわち、その精神においては永遠PLEROMAの完全統合状態を、そして現実世界においては全一(ぜんいつ)調和(ちょうわ)・全一バランス状態を夢見(ゆめみ)ているのではないのだろうか。

このわれわれの精神はいつも宇宙(うちゅう)森羅万象(しんらばんしょう)故郷(ふるさと)である永遠PLEROMAの完全(かんぜん)統合(とうごう)状態(じょうたい)(あこが)れながら、現実世界ではその完全性にもっとも近い全一調和・全一バランス状態、すなわち、全てのものが全てのものと均衡(きんこう)し調和している大自然の本質状態を目指す。
  この世ではあらゆるものが安定(あんてい)状態(じょうたい)を目指している。原子も分子も、銀河も星も、あらゆる生き物たちの一つ一つの細胞も個体も、人間においては身体だけでなく精神も、内部(ないぶ)環境(かんきょう)と外部環境との全一的(ぜんいつてき)でダイナミックなバランス状態を目指す。それがこの世に存在している一切のものの本質的祈りなのだ。宇宙それ自体ですら全一(ぜんいつ)調和(ちょうわ)を目指す。それも当然だ。宇宙も、そのもとをたどればPLEROMAと一つだったのだから。全てのものはPLEROMAの本性(ほんせい)を分け持っている。それゆえ、反本質的(はんほんしつてき)なアンバランス状態が生じたときはおのずから新たなバランス状態へと向かおうとする。この自然は反本質的(はんほんしつてき)なアンバランス状態をいつまでも許さない。それがこの宇宙の原理であり法則であり(おきて)なのだ。

しかし、そのような世界にただひとり反本質(はんほんしつ)状態(じょうたい)を生み出す者がいる、人間だ。本質をなおざりにしたその(かたよ)った知能によってさまざまな自己中心的(わざ)をなして、大自然の全一的なバランスを崩し、生態(せいたい)(けい)を乱す。まず、耕作と牧畜によって天然の全一調和世界を激しく変えていく。やがて古代文明世界を築きあげるとさらにいっそう人間に都合(つごう)よく自然環境を変えていく。人口が増え、燃料や家や軍船(ぐんせん)の建造のため森林が切り倒されていく。さらに、神の下で人間が自然を支配する思想が生まれて西ヨーロッパにおいては天然(てんねん)のままの自然が残らず破壊されていく。また、さらに神からさえも自由になった人間(にんげん)中心(ちゅうしん)主義(しゅぎ)思想(しそう)が生まれ、そして自由経済システムによって人間の欲望が開放され、さらにはそれをあおるようにして産業(さんぎょう)革命(かくめい)が起こり、さらなるテクノロジーの発達を伴って、人間の欲望追求は(とど)まるところを知らず、人口が爆発的に増えていくなか、いまや大気は汚染され、オゾン層は破壊され、地球温暖化は容赦なく進み、海も川も汚れ、大地は農薬と化学肥料によって荒廃(こうはい)し、またあらゆるところがコンクリートやアスファルトで(おお)われ、森林は減少し続け、砂漠化し、多くの生物(せいぶつ)(しゅ)がすでに絶滅(ぜつめつ)に追いやられてしまった。また、未来を見失った人類の心はすさみ、エイズやガンやアトピーなどに悩まされながら、一方では飽食(ほうしょく)と浪費に(うつつ)を抜かしているかと思えば他方では多くの人々が飢餓と貧困に苦しんでいるといったような、これまで続いてきた自由経済システムの破綻(はたん)を予感させる深刻な南北(なんぼく)問題(もんだい)などもますます進行し、また、(かね)亡者(もうじゃ)たちに(あやつ)られた、現実の経済活動を正確に反映しないバブルのような金融市場がいまや猖獗(しょうけつ)をきわめている。人間のあくなき欲望主義の悲しむべきなれの果ての姿だ。すべてが悪循環(あくじゅんかん)しているのだ。本質を忘れた人間中心主義や欲望追求の自由主義が生み出した反本質的な不調和(ふちょうわ)が世界のいたるところで吹き出している。そしてこれがもう限界だということを人間は本能的に知っている。また、本質的(ほんしつてき)精神(せいしん)に目覚めた者たちははっきりと知っている。いまや、人間中心主義的欲望主義を清算(せいさん)して、全一調和的本質主義へと方向転換するべきときなのだ。自然界にも人間社会にも全一的(ぜんいつてき)な調和とバランスを回復すべきときなのだ。人間の本質的な知恵を総動員して、この地球を本来(ほんらい)そうあるべき永遠本質の輝きわたる世界に(もど)さなければならないときなのだ。

 

 2

 

 もしもこの地球に人類さえ生まれていなければ、今もなおこの地球上にはあらゆる関係(かんけい)(けい)が清らかに調和する楽園が続いていたことだろう。水は清く、大地は豊かで、森もまた豊かに(しげ)り、その中で多くの生き物たちが自然と生命系の摂理(せつり)に従って生の本質活動に専念する。海も大地も空も、健康な生き物たちにあふれ、それら全てが大自然の法に従って(うち)なる本質を輝かす。そこではそれと意識することもなく、全てのものが全てのものと全一的なバランス状態を保ちつつ眼前(がんぜん)永遠(えいえん)現在(げんざい)展開(てんかい)していく。そこにはどこまでも純粋な生命活動があるだけだ。すべてのものはその内なる必然性に従い、またすべての生き物たちはその内なる本能に従ってひたすらその本質(ほんしつ)を展開していく。
  しかし、人類が出現(しゅつげん)して全てが変わってしまった。いつのころからか人間の知能が自然の大調和を外れてどこまでも自己中心的に働きはじめる。あらゆる関係(かんけい)(けい)が人間の一方的な都合によって歪められ、大自然本来の、その絶妙(ぜつみょう)なバランス状態が崩されていく。人間ひとりの、より豊かな現在、より豊かな未来のために、自然が壊されていく。それにつれて、人間と自然との全一的(ぜんいつてき)調和(ちょうわ)関係(かんけい)も壊れていく。そして人間自身の身体と精神もともに()んでいく。大自然の、そして自らの本質を忘れたまま、人間は便利さと居心地の良さと、さらには虚栄(きょえい)(しん)や好奇心やそのほか本質的調和を乱すほどにも過剰(かじょう)となったあらゆる種類の自己中心的欲求を満たすために突き進む。しかし、そのような中でも本質(ほんしつ)を守ろうとする動きが無かったわけではない。いくつかの宗教的生き方において、あるいはネイティヴ・アメリカンやアイヌ民族、そのほか多くの素朴で本質的(ほんしつてき)知恵(ちえ)に根ざした生き方を守ってきた民族などにおいて大自然との全一的(ぜんいつてき)バランスが保たれてきた。しかし、西ヨーロッパの歴史的背景を中心として発達してきた近・現代文明が世界を席巻(せっけん)しはじめてから様相(ようそう)が一変してしまった。本質が容赦(ようしゃ)なく壊されていく。経済的利潤追求のために、自然が破壊されるだけでなく、人間社会においても植民地化そして幾度も繰り返される戦争によって人間自身が蹂躙(じゅうりん)されていく。自然と人間の本質が、正しく本質を反映しない利潤(りじゅん)という名の欲望によって踏みにじられていく。そして、そのような非本質的な文明が地球を(おお)いつくしていく。自然においてそして人間社会のいたるところでアンバランスがうみだされ、それが日々さらに(はなは)だしくなっていく。全ては加速度的に悪化していく。本質的精神が目覚めることのないまま、限度というものを知らない貪欲(とんよく)に火のついてしまった現代人たちは、身についてしまったその享楽的(きょうらくてき)な生き方を改めることができない。永遠本質から切り離された刹那的(せつなてき)現在(げんざい)に生きる現代人は暴走し続ける。すべてが薄っぺらなその場限りの生き方なのだ。自分たち自身の子供たちや孫たちのことすら本当に深く思い()ることが無い。現代人の生き方は欲望追求の方向に大きく道をそれてしまい、人間と自然との間の、そして人間同士(どうし)の間の本質的なバランスが恐ろしいまでに崩されてしまった。自然本来(ほんらい)の姿から今はなんと遠く離れてしまったことだろう。現代社会の表面的なきらびやかさの影に、今はなんという危うさと愚かしさが(ひそ)んでいることか。本質を失ってなんの便利さ、なんの物質的(ぶっしつてき)(ゆた)かさだろうか。

現世(うつしよ)浮華(ふか)嘲笑(わろ)うか煙雨(けぶりあめ)

 

 今はただ(せつ)に祈るだけ、人類が類として全一的な精神性に目覚め、自然においても人間社会においても本質的な調和(ちょうわ)とバランスを回復し、生きとし生けるものたちとともに自らもその本質を輝かすことのできる日が一日も早く()るようにと。
  あらゆるものの本質が(かがや)くそのような理想的世界では、水、空気、土などに汚染がなく、植物世界は最も安定な極相(きょくそう)状態(じょうたい)の中で栄えており、また動物たちもまたそんな植物の豊かに繁る中で自らの生態系的調和の中で栄えており、一方、人間たちは本質的な知恵を働かせながら、適正(てきせい)な人口と適正な科学技術の利用と進歩を維持しながら、地球上の全生命系との()み分けと共生(きょうせい)の工夫をする。また、人間たちは貧富の差あるいは個人的ないし国家的な力と金による搾取(さくしゅ)や支配、また、宗教、民族などによる対立・闘争(とうそう)など、さまざまな反本質的社会状況を改善し、国、人種、民族、宗教、家系、能力などによって差別されない全一的な調和世界を構築(こうちく)し、あらゆる人間が衣食住の公平で安定的な供給を受け、そして本質的な行動の自由が保障(ほしょう)されている社会制度の中で、あらゆる生きものたちとともに(いのち)本質(ほんしつ)を生きることのできる桃源郷(とうげんきょう)をこの地球上に実現している。そこでは、本質的な心と心、本質的な言葉と言葉、本質的な命と命の交わりがある。大自然の十全(じゅうぜん)な本質的展開がある。人の心は本質に向けられており、社会システムも本質に向かって構築(こうちく)されており、科学技術も本質のために活用(かつよう)されている。そこではあらゆるものがあらゆるものと清らかに関係し合いながら本質に向かって統合(とうごう)されている。本質に向かっている限りあらゆるものは美しい。この世の一切は本質エネルギーの展開なのだ。その本質エネルギーを理想(りそう)展開(てんかい)させる。人間においても、その活動の一切(いっさい)に本質エネルギーが輝いている――身体のなかに、感情のなかに、知性のなかに、そして精神のなかに――そしてその内なるエネルギーを純粋(じゅんすい)展開(てんかい)させる。一人一人の命の方向が大切なのだ。欲望追求の方向ではなく、本質(ほんしつ)展開(てんかい)の方向へ向けなければならないのだ。あらゆるものが本質に向かって統合されている世界、あらゆる行いが本質への(いの)りであるような世界、あらゆる関係が本質的であるような世界、そのような世界では本質が充満(じゅうまん)し、生きていることは至福にほかならず、人の精神は(かぎ)りなくPLEROMAの完全性へと向上し、統合されていく。人は誰も世界との深い関係性を忘れて自己中心的な振る舞いに走ることがない。もし心の中に深く世界との本質的な一体性(いったいせい)が刻み込まれていたなら、人は誰も自分だけの身勝手な考えや行いに(おぼ)れることはできない。家庭生活のなかに、社会生活のなかに、教育のなかに、政治(せいじ)のなかに、経済社会のなかに、芸術作品のなかに、そのほかあらゆるところに本質が満ちていれば、全てはさらにより高い本質(ほんしつ)状態(じょうたい)へと、いわば螺旋的(らせんてき)順行(じゅんこう)していく。そのとき世界の多くの問題は嘘のように無くなっているだろう。

        

 3

 

この世界の問題の多くは人間のエゴイズムに()っているのだ。エゴイズムによって生み出されるさまざまなアンバランスや不公平(ふこうへい)が多くの問題を生み出している。大自然の本質に従い、生きとし生けるものたちとの、そしてあらゆる人々とのバランスと調和(ちょうわ)を生きていれば問題の多くは生じようがない。あとは生あるものすべてのものが甘受(かんじゅ)しなければならない必然的宿命や天災がもたらす悲劇が残るだけ。そのような悲劇に対して心の(そな)えをしながらも、生ある間は命を与えられたことへの感謝の念に満たされてひたすら至福(しふく)交感(こうかん)を生きる。より高い本質の実現を祈りながら自らの本質実存(じつぞん)を楽しむ。本質的な法に従いながら自由に自らの本質を輝かす。この世の一切は永遠PLEROMAの純粋エネルギーの展開(てんかい)に他ならない。そしてPLEROMAの純粋エネルギーは本質の本質だからもっとも(せい)なるものである。その聖なるエネルギーが展開して生まれたこの宇宙もまた聖なるものである。この聖なる宇宙に生きるわれわれ人間もまた本来(ほんらい)、聖なるものである。しかしながら、いまやその人間が(あや)しくなってしまった。地球上に生きる生物のなかでもっとも高い知能に恵まれた人間が、その恵みを誤用し、(もっと)も危険な生物に成り下がってしまった。自らの活動によって自らの首を絞めるほどにまで愚かな生き物がこれまでいただろうか。これほどまでに本質的な本能が鈍麻(どんま)してしまった生き物がいただろうか。そして、悲しいことにその鈍麻(どんま)してしまった本能を補うべき精神機能がまだ十分に発達していない。人類は精神的(せいしんてき)未熟児(みじゅくじ)なのだ。そんな人類にとって精神性を高め、ふたたび本質に帰ることは、みずからの滅亡を防ぐための緊急(きんきゅう)の課題だ。この不可思議にして聖なる宇宙の、この海の星地球に生まれた、この不可思議にして聖なる生命の共同体を、人間の(おご)(たか)ぶった(むさぼ)りと無知とによって壊してはならない。つまらない生き方でこの天地(てんち)宇宙(うちゅう)聖性(せいせい)を汚してはならない。
  間違ってはならない、この地球は資源(しげん)ではなく本質なのだ、人間は労働ではなく本質なのだ、動物も食料ではなく本質なのだ、草木も食料ではなく本質なのだ、目先(めさき)利潤(りじゅん)のために本質が失われては何にもならない。効率化(こうりつか)のために本質が失われては何にもならない。便利さや贅沢(ぜいたく)のために本質が失われては何にもならない。享楽(きょうらく)飽食(ほうしょく)のために本質が失われては何にもならない。本質である人間は同じように本質である一切(いっさい)衆生(しゅじょう)に向かって同様に本質として対しなければならない。本質が本質として関係し合ってこそ、その本質に相応(ふさわ)しい世界が実現する。全てが全てと調和する理想世界が実現(じつげん)する。
  理想世界においては、本質的知恵が、これまでの人間世界の利己的(りこてき)形式(けいしき)を超えて機能する。過去数千年の歴史の中で宿痾(しゅくあ)のように人間社会に刻み込まれてしまった形式的(けいしきてき)()連鎖(れんさ)を本質が断ち切っていく。(むさぼ)りの連鎖、無知の連鎖、不正虚偽の連鎖、貧困の連鎖、虐待(ぎゃくたい)の連鎖、差別の連鎖、抑圧(よくあつ)支配(しはい)の連鎖、搾取(さくしゅ)の連鎖、不公平不平等の連鎖など、さまざまな形の負の連鎖が本質的知恵の連鎖によって打ち砕かれ解消されていく。また、本質から遊離(ゆうり)してしまった都会がふたたび本質化していく。本質は全一(ぜんいつ)バランスの中で自由だ。本質はもともと純粋エネルギーなのだからそれも当然だ。一切は本質的自由を生きるのがその本来の姿なのだ。一日も早く真の精神に目覚(めざ)め、本質に立ち返って、人類の過去の()形式(けいしき)を自由に解体していこう。若者たちに、この21世紀の若者たちに大いに期待(きたい)しよう。

(むれ)(ばと)や 朝日に(こく)(びゃく) ひるがえし

 

この宇宙の森羅万象(しんらばんしょう)の本質と本質とが純粋に響き合う世界はなんと美しいことか。いわんや、精神をもった人間と人間とが純粋に共感(きょうかん)しあう世界においてはなおさらである。もはやなにものにも(さえぎ)られることのない純粋至福が人々の心に満ちる。至福が至福へといつまでも連鎖(れんさ)し続ける。人は世界と一体の無限大(むげんだい)の自己を生きる。精神にとってはこの世の全ては自己自身に他ならないのだ。精神にとっては、自己は永遠(えいえん)PLEROMA(プレロマ)の純粋エネルギーであり、また、宇宙に遍満(へんまん)する原子であり分子であり、あらゆる生命であり、あらゆる精神でもある。それら全てが渾然(こんぜん)一体(いったい)となって、この永遠現在を(てん)じていくのだ。永遠(えいえん)無限(むげん)神秘(しんぴ)PLEROMA(プレロマ)宇宙(うちゅう)の一切が自己の精神の中で一丸(いちがん)となって転じていく。それは完全な至福だ。その完全(かんぜん)至福(しふく)を夢見て祈る。精神にとって人生は純粋な祈りにほかならない。完全性への無限に深い祈りなのだ。わたしは祈る、人類の精神が開花(かいか)し、生きとし生けるものとありとある一切のものの本質がこの世界に輝きわたることを。そのとき人は(いのち)の最高を味わい最高を生きる。最も高く、最も広く、最も深い人生の本質を転じていく。死と(とな)り合わせの、一度限りの貴重な、聖なる生の最高(さいこう)本質(ほんしつ)を転じていく。
  精神にとってこの命の一切は比較を絶した僥倖(ぎょうこう)なのだ。また、精神にとってこのPLEROMA宇宙は比較を絶した聖性(せいせい)なのだ。精神はこの永遠現在の無上の瞬間を純粋展開することを願う。そして、このPLEROMA宇宙そのものでもあり、また、その人間的実存の中心機能でもある(しん)精神(せいしん)は、全一的(ぜんいつてき)主体(しゅたい)として純粋にその本質を転じていきたいと切に祈る。真精神はこの世の無限大から無限小までの無限(むげん)関係(かんけい)(けい)を統合して生きる真の自己である。また真精神は、畢竟(ひっきょう)、聖なる無にほかならないこの世において、すでにその無の一切を受容(じゅよう)しながらも、なお完全本質の実現に向かって祈り続けるのである。そしてついに真精神は無心(むしん)に至る。真精神は透明化する。真精神は、なんでも対立的に見てしまう自己(じこ)意識(いしき)をも内に融かし込んで一体となり、クリスタルのように輝き始める。真精神はもはや透明(とうめい)な意識であり、透明な至福であり、透明な祈りである。

 

 4

 

人類の過去を振り返れば、人間の持っている高い能力の多くがこれまで欲望の追求のために用いられてきたことが分かる。ここで欲望とは本質的必要性をはるかに超えた浪費的(ろうひてき)過剰性(かじょうせい)を指す。人間の知能が最初から本質的全一調和の埒内(らちない)で使われてきたなら、今頃この地球上は理想郷に限りなく近づいていたに違いない。しかし、人類は本質(ほんしつ)をわきまえずひたすら欲望のおもむくままその能力を使ってきた。自然への感謝と畏敬(いけい)の念を忘れ、自然を支配し、全てを自己中心的に利用し尽くしてきた。長い狩猟(しゅりょう)採取(さいしゅ)の生活の中からやがて農耕・牧畜を生み出し、一定の場所に定住して大きな村落(そんらく)を作り、あたりの木を切り倒して家を建てた。やがてそれが古代の王国や都市国家へと発達する。複雑な人間関係が築き上げられ、また大規模な侵略(しんりゃく)戦争(せんそう)が起きる。多くの軍船が建造されて森や林が消えていく。人口が増え、自然が人の手によってさらに侵食(しんしょく)されていく。宗教も自然の本質的な価値を十分に理解していない。自然に対する本質的な感謝と畏敬(いけい)(ねん)に満ちた宗教はごくわずかだ。宗教といえども人間(にんげん)中心的(ちゅうしんてき)なのだ。人間中心的な流れが続いていき、世代を追うごとにそれが強化されていく。人間中心主義的な欲望(よくぼう)連鎖(れんさ)が続いていく。やがてそれがルネッサンス期においてより自覚的主体的なものとなっていく。中世的な封建的(ほうけんてき)拘束(こうそく)とローマ教皇の権威から開放されて自由になろうとする市民的な運動が起こり、現実生活を肯定(こうてい)し開放的なものへと変え、個性の自由な発揮(はっき)へと向かう。そしてそれがやがて近代へとつながっていく。17世紀にF.ベーコンとデカルトによって実験と数学的証明による科学的な方法が確立(かくりつ)され、18世紀後半にフランス革命と産業革命が起こってさらに自由主義思想が広がり、テクノロジーが発展する。その上、自由(じゆう)放任的(ほうにんてき)自由主義経済理論の提唱(ていしょう)がその流れに拍車をかける。そして19世紀から20世紀において帝国主義的植民地戦争、さらには全面的世界戦争の勃発(ぼっぱつ)、大量生産大量消費大量廃棄、自然環境の破壊、国家間国民間における貧富の格差(かくさ)の拡大、人口爆発、地球温暖化、経済のバブル化へとさらに反本質的傾向が強まっていく。これらすべての問題は、われわれ人間の、大自然の本質に対する無自覚(むじかく)無関心に起因(きいん)している。いわゆる人間の個性と呼ばれるものも自由と呼ばれるものも、ただ単に本質を無視した身勝手(みがって)個性(こせい)であったり欲望(よくぼう)追求(ついきゅう)自由(じゆう)であったりする。科学技術も人間の本質活動を助長(じょちょう)するためのものではなく、ただ目先の個人的欲望を追求するためのものであり、経済も人間全体の本質的な幸せのためのものではなく、ただ単に個人的欲望追求の競争(きょうそう)主義的(しゅぎてき)経済(けいざい)であり、そこには最初から本質的な全一調和とバランス維持への配慮(はいりょ)が欠けている。もしこのままの状態がいつまでも続くなら、ある日突然、あるいは自然環境の(がわ)から、あるいは社会的経済的ひずみの側から、あるいは行き過ぎた科学技術の側から、さらにはそれら全てが渾然(こんぜん)一体(いったい)となって、人類社会に致命的な悲劇をもたらすかもしれない。今は一刻も早く、これまでの本質を(ないがし)ろにしてきた生き方と社会制度を改めて、単に物質的な豊かさを追うのではなく、本質を中心に()え、真の豊かさと真の幸せの実現をめざした新しい地球社会を構築(こうちく)していかねばならない。個性も本質を豊かにするための個性であり、自由も本質(ほんしつ)をさらに輝かせるための自由であり、科学技術も本質を理解し本質を支えるための科学であり技術であり、経済も本質をより効率的に維持(いじ)管理(かんり)するための経済であり、教育も本質を自覚しそれをさらに深めていくための教育であり、競争、工夫(くふう)も本質をより充実させるための競争、工夫であり、芸術も本質をより多面的(ためんてき)に展開させるための芸術であり、習慣・制度も本質から遠く()れない為の社会的(しゃかいてき)安全(あんぜん)装置(そうち)であり、そのほか生活の一切は本質を中心として築き上げられていなければならない。人類の未来は、この世界を、本質を中心とした地球共同体へと再構築(さいこうちく)できるかどうかにかかっている。手遅(ておく)れにならないうちにそのような社会を実現していかねばならない。祈りとともに行動し始めなければならない。世界は本来(ほんらい)、全一的バランス状態になければならないのだ。それが宇宙の本質でありまた生きとし生けるものたちの究極的(きゅうきょくてき)な願いなのだ。人類は(いつわ)りの(むな)しい物質的な豊かさの幻影から(みずか)らを解放して、精神的な真の豊かさを求めることを学ばなければならない。我執(がしゅう)を超えて、全一的(ぜんいつてき)な真の自己へと成長していかなければならない。
  一人一人が自分のできることから一つずつ自分の世界を本質化(ほんしつか)していこう。あらゆる物と物、あらゆる生き物と生き物、あらゆる人と人とが全一的に連関(れんかん)し合っているこの世界に、最高の調和とバランスを与えよう。自分自身の身体と心にも全一的な調和を与えよう。そのために自我(じが)を手なずけよう。自分のわがままをコントロールしよう。そして目を全体世界に向けよう。個人的(こじんてき)思考(しこう)ではなく、類的な思考を身につけよう。さらには生命(せいめい)系的(けいてき)思考(しこう)を身につけよう。さらには地球的思考を身につけよう。さらには宇宙的思考を身につけよう。そして究極的(きゅうきょくてき)には永遠PLEROMA的思考を身につけよう。そして自分を無のかなたなる永遠(えいえん)無限(むげん)神秘(しんぴ)PLEROMA(プレロマ)と一体化しよう。自分を、本質的な純粋エネルギーだとみなそう。そしてその純粋エネルギーの全一的な純粋(じゅんすい)展開(てんかい)を祈りながら生きよう。この宇宙の一切のエネルギーと一体となって自らの純粋エネルギーを(てん)じていこう。この人間として与えられた貴重な命を清らかに転じていこう。そして浅ましい欲まみれの人生を(いと)(きら)おう。人間として最高の本質的祈りを祈りながら、一度限りの人生を()いの残らぬよう真剣に生きていこう。無の上に咲いたこの奇跡のような命を、無のかなたへの祈りとともに完全(かんぜん)展開(てんかい)していこう。

 

 

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